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第4話(3)
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「金髪のヴィーナス」は露骨で下品な場面がクライマックス的に設定されていて、眉を顰める者もいたが、大半は熱狂に渦巻いた。
眉を顰めた者も、己の興奮を繕っているだけという場合もあっただろう。
アレクサンドラは、話題になった意味は理解できたが、二度目を見たいとは思えず、幕間のたびに訪問を受け挨拶回りで席を立つなどで気忙しく、ある意味華やかなる外出にはなったが、もう1つの目的である娯楽としては程度の低いものになった。
いつまでも続くと思えたカーテンコールが終わり、幕が降りると一目散に帰路に着こうとするのが、貴賎問わず観客達の性だった。
桟敷からは、前方に留まって興奮しながら語り合う集団がいくつか形成されているのが見えたが、地階席の客のほとんどは争うように出口に詰めかけたせいで、後方に扇状の人群が押し合いへし合いしていた。
上階の客は今降りても外に出られまいと、半分はまだボックス内に留まっているようだった。
館外に出られても馬車に乗り込めるかどうかと懸念される状態であり、オルロフ一家も、従僕達から準備が整った旨が通知されるまではと待機を選んでいた。
ニコライはちょっと行って参ります、と言い置いて席を外し、母夫人は疲れ顔で椅子に凭れていた。
アレクサンドラは礼儀作法は完璧に身に着いているものの、このような長時間、公爵夫人然として取り澄ましているのは披露宴以来で、扇の陰で欠伸を紛らわせていると、父伯爵から「疲れたかな」と気遣わし気に声をかけられた。
「そうですわね、少しだけ」
恥じらいながら答えた娘に、父伯爵は笑って言った。
「見物の方はそうだね、品が下っていたが……挨拶の方は捗って良かった。これで訪問する家が大分減ったよ。後で残っているのはどこかを整理しなければね」
挨拶回りは公証長の義務であるにもかかわらず、この時の彼女は、そうかまだあるのかと意気消沈した。
父伯爵は続けて、
「しかし公爵にご一緒してもらえてスムーズだった、我々だけではこうはいかない場合があるからね。また催しがあれば、その機会をぜひとも利用したいところだが」
と嘆息した。
父伯爵は、本日の観劇を娯楽としてより訪問数削減のための道具としてしか考えていなかったようだ。
アレクサンドラが、せめて次は演奏会にしていただきたい、と要望を述べかけたところで、緞帳を開け放ち見通せる状態になっていた通路に、N侯爵夫妻が現れた。
その後ろには、娘夫婦であるO侯爵の若夫妻が続いている。
目ざとく姿を捉えた父伯爵は、「これはこれは、N侯爵ご夫妻にO侯爵ご夫妻!」と両腕を広げて通路に爪先を向け、草臥れていたはずの母夫人が機敏にその後に続いた。
「おや、オルロフ伯ではありませんか。貴方方も来ていたのですね」
「ええ。話題作でございましたので、興味本位で足を運びました。ご挨拶に伺うべきところ申し訳ございません」
「いやわざわざ挨拶など。私どもは途中からになってしまったので、擦れ違ったのでしょう」
両侯爵のボックスの前は2度通ってみたが、1度目は無人、2度目は緞帳がぴったり閉じていて、従僕や侍女などの姿も見えず声を掛けられなかったのだった。
確か、N侯爵はオルロフに好印象を持っていない家として数えられていたはずだと、アレクサンドラが静かに母夫人の後ろに歩み寄ると、父伯爵から紹介をされる前に、N侯爵夫人が他所行きの調子で、
「殿下、いえザハーリン公爵は今日はご臨席ではないので?」
と言いながら、ボックスの中を舐めるように見渡した。
「いらっしゃっています。生憎、ただいま所用で外しておられますが、間もなく戻っておいででしょう」
それを聞くとN侯爵夫人は「まあ、それは残念なこと」とたちまち声色を落とした。
一呼吸の間の後に、父伯爵が「皆様に、娘からもご挨拶させていただく存じます。私の後を継ぎ、公証長となりましたゆえ」と言ってアレクサンドラに目配せをした。
「新公証長を拝命いたしました、アレクサンドラ・イワーノヴナでございます」
進み出たアレクサンドラが歩み出て深々と辞儀をすると、「ああ、そうでしたか。そうでしたな」とN侯爵の曖昧な応答に押し重ねるように、
「まあ挨拶など。皆既に知っておりましてよ」
という夫人の冷たい声が頭上に投げかけられた。
父伯爵の言う通りだ、とアレクサンドラは緩やかに姿勢を戻した。
他者からの敵意について、一時期のように恐慌状態になったりはしなくなったものの、心の芯にはまだ怯えが兆(きざ)す。
改めて声をかけられるまで眼差しを上げるのは得策ではないと、僅かに視線を逸らすと、N夫妻の娘、O侯爵夫人の姿が目に入った。
彼女はアレクサンドラと同じ年頃で、次期皇后の座を狙っていた1人だったが、希望叶わずO侯爵に嫁いだと聞いていたが、アレクサンドラはどういう感情を持っていいのかと戸惑った刹那、O侯爵夫人の瞳がぎろりと動いて、激しい嫌悪の視線が投げ付けられた。
咄嗟のことで平静を保てず、アレクサンドラは礼儀作法に託(かこつ)けて目を完全に伏せた。
責められても、と思う。
結婚の申し込みはニコライの方から行われたし、アレクサンドラはそれを受ける以外の選択肢は用意されていなかった。
それなのに皇后の座を、ニコライを奪ったように思われても、詫びるのは自分を貶めるのに等しいし、相手を宥める効果もない。
かといって黙殺すればきっと火に油を注ぐ。
どうするべきかと惑ううち、ニコライが「おや、皆様お揃いで」と戻って来た。
途端に、N侯爵夫人は「まあこれはこれは公爵」と露骨に態度を変え、娘夫人は瞳を煌めかせて、O侯爵など眼中にないかのように、なよやかな仕草で小首を傾げた。
その品のない調子の良さに呆れながら、この場の突破口を簡単に開いたニコライに比べて、私は何ができているのだろう、と本格的に物思いに耽(ふけ)り始めた。
眉を顰めた者も、己の興奮を繕っているだけという場合もあっただろう。
アレクサンドラは、話題になった意味は理解できたが、二度目を見たいとは思えず、幕間のたびに訪問を受け挨拶回りで席を立つなどで気忙しく、ある意味華やかなる外出にはなったが、もう1つの目的である娯楽としては程度の低いものになった。
いつまでも続くと思えたカーテンコールが終わり、幕が降りると一目散に帰路に着こうとするのが、貴賎問わず観客達の性だった。
桟敷からは、前方に留まって興奮しながら語り合う集団がいくつか形成されているのが見えたが、地階席の客のほとんどは争うように出口に詰めかけたせいで、後方に扇状の人群が押し合いへし合いしていた。
上階の客は今降りても外に出られまいと、半分はまだボックス内に留まっているようだった。
館外に出られても馬車に乗り込めるかどうかと懸念される状態であり、オルロフ一家も、従僕達から準備が整った旨が通知されるまではと待機を選んでいた。
ニコライはちょっと行って参ります、と言い置いて席を外し、母夫人は疲れ顔で椅子に凭れていた。
アレクサンドラは礼儀作法は完璧に身に着いているものの、このような長時間、公爵夫人然として取り澄ましているのは披露宴以来で、扇の陰で欠伸を紛らわせていると、父伯爵から「疲れたかな」と気遣わし気に声をかけられた。
「そうですわね、少しだけ」
恥じらいながら答えた娘に、父伯爵は笑って言った。
「見物の方はそうだね、品が下っていたが……挨拶の方は捗って良かった。これで訪問する家が大分減ったよ。後で残っているのはどこかを整理しなければね」
挨拶回りは公証長の義務であるにもかかわらず、この時の彼女は、そうかまだあるのかと意気消沈した。
父伯爵は続けて、
「しかし公爵にご一緒してもらえてスムーズだった、我々だけではこうはいかない場合があるからね。また催しがあれば、その機会をぜひとも利用したいところだが」
と嘆息した。
父伯爵は、本日の観劇を娯楽としてより訪問数削減のための道具としてしか考えていなかったようだ。
アレクサンドラが、せめて次は演奏会にしていただきたい、と要望を述べかけたところで、緞帳を開け放ち見通せる状態になっていた通路に、N侯爵夫妻が現れた。
その後ろには、娘夫婦であるO侯爵の若夫妻が続いている。
目ざとく姿を捉えた父伯爵は、「これはこれは、N侯爵ご夫妻にO侯爵ご夫妻!」と両腕を広げて通路に爪先を向け、草臥れていたはずの母夫人が機敏にその後に続いた。
「おや、オルロフ伯ではありませんか。貴方方も来ていたのですね」
「ええ。話題作でございましたので、興味本位で足を運びました。ご挨拶に伺うべきところ申し訳ございません」
「いやわざわざ挨拶など。私どもは途中からになってしまったので、擦れ違ったのでしょう」
両侯爵のボックスの前は2度通ってみたが、1度目は無人、2度目は緞帳がぴったり閉じていて、従僕や侍女などの姿も見えず声を掛けられなかったのだった。
確か、N侯爵はオルロフに好印象を持っていない家として数えられていたはずだと、アレクサンドラが静かに母夫人の後ろに歩み寄ると、父伯爵から紹介をされる前に、N侯爵夫人が他所行きの調子で、
「殿下、いえザハーリン公爵は今日はご臨席ではないので?」
と言いながら、ボックスの中を舐めるように見渡した。
「いらっしゃっています。生憎、ただいま所用で外しておられますが、間もなく戻っておいででしょう」
それを聞くとN侯爵夫人は「まあ、それは残念なこと」とたちまち声色を落とした。
一呼吸の間の後に、父伯爵が「皆様に、娘からもご挨拶させていただく存じます。私の後を継ぎ、公証長となりましたゆえ」と言ってアレクサンドラに目配せをした。
「新公証長を拝命いたしました、アレクサンドラ・イワーノヴナでございます」
進み出たアレクサンドラが歩み出て深々と辞儀をすると、「ああ、そうでしたか。そうでしたな」とN侯爵の曖昧な応答に押し重ねるように、
「まあ挨拶など。皆既に知っておりましてよ」
という夫人の冷たい声が頭上に投げかけられた。
父伯爵の言う通りだ、とアレクサンドラは緩やかに姿勢を戻した。
他者からの敵意について、一時期のように恐慌状態になったりはしなくなったものの、心の芯にはまだ怯えが兆(きざ)す。
改めて声をかけられるまで眼差しを上げるのは得策ではないと、僅かに視線を逸らすと、N夫妻の娘、O侯爵夫人の姿が目に入った。
彼女はアレクサンドラと同じ年頃で、次期皇后の座を狙っていた1人だったが、希望叶わずO侯爵に嫁いだと聞いていたが、アレクサンドラはどういう感情を持っていいのかと戸惑った刹那、O侯爵夫人の瞳がぎろりと動いて、激しい嫌悪の視線が投げ付けられた。
咄嗟のことで平静を保てず、アレクサンドラは礼儀作法に託(かこつ)けて目を完全に伏せた。
責められても、と思う。
結婚の申し込みはニコライの方から行われたし、アレクサンドラはそれを受ける以外の選択肢は用意されていなかった。
それなのに皇后の座を、ニコライを奪ったように思われても、詫びるのは自分を貶めるのに等しいし、相手を宥める効果もない。
かといって黙殺すればきっと火に油を注ぐ。
どうするべきかと惑ううち、ニコライが「おや、皆様お揃いで」と戻って来た。
途端に、N侯爵夫人は「まあこれはこれは公爵」と露骨に態度を変え、娘夫人は瞳を煌めかせて、O侯爵など眼中にないかのように、なよやかな仕草で小首を傾げた。
その品のない調子の良さに呆れながら、この場の突破口を簡単に開いたニコライに比べて、私は何ができているのだろう、と本格的に物思いに耽(ふけ)り始めた。
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