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彼女の部屋は、空っぽではなかった
彼女の部屋は、空っぽではなかった
妻の部屋に、二度目に入ったのは昼前のことだった。
午前中の領地報告を途中で切り上げた。担当の文官が驚いた顔をしていたが、ヴァルクは構わなかった。報告書は手元にある。数字は後で自分で確認できる。
今は、あの部屋に戻りたかった。
なぜそう思うのかは、自分でもわからなかった。
ただ、朝に一度入ったとき、何かを見落とした気がしてならなかった。整然とした部屋。消えた衣装。残された本。それだけだと思っていたのに。
扉を開ける。
部屋の中は、朝と変わらなかった。カーテンが閉まったままで、薄暗い。ヴァルクはカーテンを開けた。秋の光が差し込んで、部屋の隅まで照らした。
書架の前に立つ。
薬草学の本が数冊。植物図鑑。北方の地理誌。どれも使い込まれた様子で、背表紙が少し色あせている。妻が自分で買い集めたものだろう。
――こんな本を読んでいたのか。
知らなかった。五年間、同じ屋敷に住んでいながら、妻が何を読んでいるか、一度も気にしたことがなかった。
化粧台の前に立つ。台の上は何もない。引き出しを開けると、それも空だった。小物類は全て持ち出したようだ。
窓際の小さな机の前に立つ。引き出しを開ける。
空だった。
もう一度、部屋を見回す。
何もない。残されたのは本だけだ。それ以外に、妻の痕跡は——
ふと、視線が棚に止まった。
*
棚は部屋の隅にある、背の低い飾り棚だ。小物や花瓶を置くための棚で、普段は何が乗っているかを気にしたこともなかった。
その上に、小さな木箱があった。
縦横ともに手のひらに収まるほどの箱だ。蓋には花の彫刻があり、長年撫でられたのか、その輪郭は滑らかに擦り減っていた。
ヴァルクは箱を手に取った。
軽い。中に何かが入っているが、さほど重いものではない。鍵はかかっていなかった。
朝、この部屋を確認したときには気づかなかった。見落としたのか、それとも意識が向かなかったのか。
意図的に残されたものだ、と直感した。
衣装も小物も持ち出したのに、この箱だけを棚の上に置いていった。見つけてほしかったのか。あるいは、置いていかなければならない理由があったのか。
ヴァルクは箱を持ったまま、窓際の椅子に腰を下ろした。
蓋に手をかけた。
開けていいものか、一瞬迷った。妻の私物だ。中を見ることは、踏み込みすぎかもしれない。
しかし妻はもういない。離縁状に署名して、夜明け前に出ていった。この箱を残して。
ヴァルクは蓋を開けた。
*
中には二つのものが入っていた。
一つは小さな石。透明に近い薄青色の、親指の爪ほどの魔法石だ。革袋から出されているのか、石だけがそこにある。
もう一つは、薄く折りたたまれた紙。
ヴァルクはまず石を手に取った。
指先に乗せて、光にかざす。薄青の色が、秋の日差しの中でかすかに輝いた。
魔法石だ。ありふれたものではない。北方でも滅多に見かけない、特殊な色合いをしている。
なぜ妻がこれを持っていたのか。
疑問が浮かんだ瞬間、ヴァルクの指先が止まった。
この色を、知っている。
薄青。透明に近い。親指の爪ほどの大きさ。
二十二年前、雪の森で見た石だ。
あの日、少女がヴァルクに渡した護符。「貴方の方が、ずっと危ない場所にいるから」と言って、小さな手で差し出したもの。あの日からずっと大切にしていたはずの護符が、北の遠征で荷物ごと失われたのが、十五年前のことだ。
失ったと思っていた。
なぜ、ここにある。
ヴァルクは石を箱に戻し、折りたたまれた紙に手を伸ばした。
紙を広げる。
子供の文字だった。線が太く、字間がばらばらで、ところどころ滲んでいる。それでも一文字一文字、懸命に書いた跡がある。
読み始めた瞬間、ヴァルクの背筋に、冷たいものが走った。
日付があった。二十二年前の冬の日付だ。
そして書き出しの一文。
「きょう、もりでおとこのこをたすけました」
ヴァルクは紙を持つ手が、わずかに震えるのを感じた。
読み続けた。
雪が降っていたこと。魔物が出たこと。転んだこと。年上の少年が助けてくれたこと。護符を渡したこと。名前を聞かなかったこと。
そして最後の一行。
「あの日、雪の中で貴方をたすけたのは、わたしでした」
ヴァルクは紙から目を離せなかった。
この手記を書いたのは誰か。答えはすでに、目の前にある。
署名があった。
幼い筆跡で、こう書かれていた。
「イリス・フェルナ」
―― 次話「世界が、音を立てて崩れた」
妻の部屋に、二度目に入ったのは昼前のことだった。
午前中の領地報告を途中で切り上げた。担当の文官が驚いた顔をしていたが、ヴァルクは構わなかった。報告書は手元にある。数字は後で自分で確認できる。
今は、あの部屋に戻りたかった。
なぜそう思うのかは、自分でもわからなかった。
ただ、朝に一度入ったとき、何かを見落とした気がしてならなかった。整然とした部屋。消えた衣装。残された本。それだけだと思っていたのに。
扉を開ける。
部屋の中は、朝と変わらなかった。カーテンが閉まったままで、薄暗い。ヴァルクはカーテンを開けた。秋の光が差し込んで、部屋の隅まで照らした。
書架の前に立つ。
薬草学の本が数冊。植物図鑑。北方の地理誌。どれも使い込まれた様子で、背表紙が少し色あせている。妻が自分で買い集めたものだろう。
――こんな本を読んでいたのか。
知らなかった。五年間、同じ屋敷に住んでいながら、妻が何を読んでいるか、一度も気にしたことがなかった。
化粧台の前に立つ。台の上は何もない。引き出しを開けると、それも空だった。小物類は全て持ち出したようだ。
窓際の小さな机の前に立つ。引き出しを開ける。
空だった。
もう一度、部屋を見回す。
何もない。残されたのは本だけだ。それ以外に、妻の痕跡は——
ふと、視線が棚に止まった。
*
棚は部屋の隅にある、背の低い飾り棚だ。小物や花瓶を置くための棚で、普段は何が乗っているかを気にしたこともなかった。
その上に、小さな木箱があった。
縦横ともに手のひらに収まるほどの箱だ。蓋には花の彫刻があり、長年撫でられたのか、その輪郭は滑らかに擦り減っていた。
ヴァルクは箱を手に取った。
軽い。中に何かが入っているが、さほど重いものではない。鍵はかかっていなかった。
朝、この部屋を確認したときには気づかなかった。見落としたのか、それとも意識が向かなかったのか。
意図的に残されたものだ、と直感した。
衣装も小物も持ち出したのに、この箱だけを棚の上に置いていった。見つけてほしかったのか。あるいは、置いていかなければならない理由があったのか。
ヴァルクは箱を持ったまま、窓際の椅子に腰を下ろした。
蓋に手をかけた。
開けていいものか、一瞬迷った。妻の私物だ。中を見ることは、踏み込みすぎかもしれない。
しかし妻はもういない。離縁状に署名して、夜明け前に出ていった。この箱を残して。
ヴァルクは蓋を開けた。
*
中には二つのものが入っていた。
一つは小さな石。透明に近い薄青色の、親指の爪ほどの魔法石だ。革袋から出されているのか、石だけがそこにある。
もう一つは、薄く折りたたまれた紙。
ヴァルクはまず石を手に取った。
指先に乗せて、光にかざす。薄青の色が、秋の日差しの中でかすかに輝いた。
魔法石だ。ありふれたものではない。北方でも滅多に見かけない、特殊な色合いをしている。
なぜ妻がこれを持っていたのか。
疑問が浮かんだ瞬間、ヴァルクの指先が止まった。
この色を、知っている。
薄青。透明に近い。親指の爪ほどの大きさ。
二十二年前、雪の森で見た石だ。
あの日、少女がヴァルクに渡した護符。「貴方の方が、ずっと危ない場所にいるから」と言って、小さな手で差し出したもの。あの日からずっと大切にしていたはずの護符が、北の遠征で荷物ごと失われたのが、十五年前のことだ。
失ったと思っていた。
なぜ、ここにある。
ヴァルクは石を箱に戻し、折りたたまれた紙に手を伸ばした。
紙を広げる。
子供の文字だった。線が太く、字間がばらばらで、ところどころ滲んでいる。それでも一文字一文字、懸命に書いた跡がある。
読み始めた瞬間、ヴァルクの背筋に、冷たいものが走った。
日付があった。二十二年前の冬の日付だ。
そして書き出しの一文。
「きょう、もりでおとこのこをたすけました」
ヴァルクは紙を持つ手が、わずかに震えるのを感じた。
読み続けた。
雪が降っていたこと。魔物が出たこと。転んだこと。年上の少年が助けてくれたこと。護符を渡したこと。名前を聞かなかったこと。
そして最後の一行。
「あの日、雪の中で貴方をたすけたのは、わたしでした」
ヴァルクは紙から目を離せなかった。
この手記を書いたのは誰か。答えはすでに、目の前にある。
署名があった。
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―― 次話「世界が、音を立てて崩れた」
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