「三年間、誕生日のたびに記録していたら、彼氏より先に幸せになれました」 ──全部、メモしてたんで。

まさき

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第十八話「振り返らなかった」

第十八話「振り返らなかった」

 三月三十一日。
 最終出社日だった。
 
 
 朝、目が覚めたのは六時だった。
 アラームより十五分早かった。
 
 
 凛はしばらく、天井を見つめた。
 
 
 今日で、終わりだ。
 
 
 特別な感慨はなかった。ただ、静かに、その事実を受け取った。
 
 
 シャワーを浴びて、コーヒーを淹れた。
 いつもの朝と、同じだった。
 
 
 ただ一つだけ、違うことがあった。
 
 
 凛はクローゼットを開けて、今日着るものを選んだ。
 白いブラウスと、ネイビーのタイトスカート。
 
 
 いつもの組み合わせだった。
 
 
 最初の日も、これだった。
 だから最後の日も、これにした。
 
 
 鏡の前で、髪を整えた。
 いつもの微笑みの練習をした。
 
 
 でも今日は、練習しなくても、自然に笑えた。
 
 
 出社した。
 
 
 デスクに着くと、小さなものが置いてあった。
 さくらからだった。小さな封筒に、手書きのメッセージカードが入っていた。
 
 
 凛さんへ。三年間、ありがとうございました。凛さんみたいな人になれるよう、頑張ります。いつかまた、一緒に仕事ができる日を楽しみにしています。——田中さくら
 
 
 凛はそのカードを、しばらく手に持っていた。
 
 
 目の奥が、少し熱くなった。
 
 
 泣かなかった。
 でも、熱くなった。
 
 
 封筒をバッグの内ポケットに入れた。
 大事に、持って帰ろうと思った。
 
 
 午前中は、最後の業務をこなした。
 残っている引き継ぎの細かい確認。メールの整理。共有フォルダのファイル名の統一。
 
 
 どれも小さな作業だったけれど、凛は一つひとつ、丁寧にやった。
 
 
 昼休み、城島部長に呼ばれた。
 
 
 部長室に入ると、城島部長は立って待っていた。
 
 
「瀬川さん、今日はお疲れ様です」
 
 
「ありがとうございます」
 
 
 城島部長は、デスクの上から小さな袋を取り出して、凛に渡した。
 
 
「はなむけです。大したものじゃないけれど」
 
 
「ありがとうございます」
 
 
 凛は袋を受け取った。
 
 
「瀬川さん、一つ言っていいですか」
 
 
「はい」
 
 
 城島部長は凛を見た。
 
 
「朝倉から、あなたのことをよく聞いていました。仕事ぶりのことも、人としてのことも」
 
 
「……そうですか」
 
 
「あなたは、ここにいる間、静かに、でも確実に、仕事をしてくれた。それは私が着任する前からそうだったと、朝倉が言っていました」
 
 
 凛はしばらく、城島部長を見た。
 
 
 颯が、そんなことを話していたのか。
 
 
「次の職場でも、同じようにやれます。あなたならできる」
 
 
「ありがとうございます」
 
 
 頭を下げた。
 
 
 部長室を出て、廊下を歩きながら、凛は少し目を細めた。
 
 
 朝倉から、あなたのことをよく聞いていました。
 
 
 颯が、城島部長に凛のことを話していた。
 
 
 仕事ぶりのことも、人としてのことも。
 
 
 いつから話していたのだろう。どんなふうに話していたのだろう。
 
 
 わからなかった。でも、ちゃんと見ていてくれていたのだということは、わかった。
 
 
 午後、最後の業務を終えた。
 
 
 定時になった。
 
 
 凛はデスクの上を、最後にもう一度確認した。
 引き出しは空っぽだった。パソコンのデスクトップも、きれいに整理されていた。
 
 
 何も残っていなかった。
 
 
 それでいい、と思った。
 
 
 バッグを持って、立ち上がった。
 
 
 さくらが、デスクの前に立っていた。目が赤かった。
 
 
「凛さん」
 
 
「うん」
 
 
「本当に、ありがとうございました」
 
 
「こちらこそ。さくらちゃんがいてくれてよかった」
 
 
 さくらは涙をこらえながら、深く頭を下げた。
 
 
 凛も、頭を下げた。
 
 
 山本部長が来て、握手をしてくれた。
 
 
「お疲れ様。また飲みに来い」
 
 
「はい、ぜひ」
 
 
 他の同僚たちとも、一人ひとり挨拶をした。
 
 
 颯は、最後に来た。
 
 
 みんなが少し離れたタイミングで、静かに凛の前に立った。
 
 
「お疲れ様でした」
 
 
「お疲れ様でした。お世話になりました」
 
 
 颯は少し間を置いた。
 
 
「連絡、待っています」
 
 
 凛は颯を見た。
 
 
 颯はいつも通りの表情だった。でも、目が、少し違う気がした。
 
 
「はい。必ず」
 
 
 颯は小さく頷いた。
 
 
 それだけだった。
 
 
 凛はフロアを出た。
 
 
 エレベーターに乗って、一階に降りた。
 
 
 ロビーを歩いて、自動ドアを抜けた。
 
 
 外の空気が、冷たかった。
 
 
 三月三十一日の夕方の空気は、まだ少し冬の名残があった。でも、遠くの空は、春の色をしていた。
 
 
 凛はしばらく、そこに立っていた。
 
 
 振り返らなかった。
 
 
 振り返らなくても、ちゃんと覚えているから。
 
 
 歩き始めた。
 
 
 駅に向かいながら、凛はスマートフォンを取り出した。
 メモアプリを開いた。
 
 
 2025.3.31 最終出社日。さくらからカードをもらった。城島部長から「朝倉があなたのことをよく話していた」と聞いた。颯から「連絡、待っています」と言われた。
 
 
 一行、付け加えた。
 
 
 三年間、ここで働いた。悪くなかった。
 
 
 保存して、画面を閉じた。
 
 
 悪くなかった。
 
 
 三年間で積み上げてきたものは、全部、今の凛の中にある。
 記録は、ちゃんと残っている。
 それだけで、十分だった。
 
 
 電車に乗った。
 
 
 いつもと同じ路線で、いつもと同じ方向だった。でも、明日からは、違う駅で降りる。
 
 
 凛は窓の外を見た。
 
 
 夕暮れの東京が、流れていった。
 オレンジ色の光が、ビルのガラスに反射していた。
 
 
 きれいだった。
 
 
 本当に、きれいだった。
 
 
 凛は目を閉じた。
 
 
 明日から、新しい場所で働く。
 新しい人たちと、新しい仕事をする。
 
 
 怖くないか、と自分に聞いてみた。
 
 
 少し、怖い。
 
 
 でも、準備はできている。
 
 
 記録は今日も、静かに積み重なっていく。
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