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不倫ごっこ
第1話目 境界線の断層
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境界線の断層
PM 1:30 硝子張りの密室
オフィスビルの最上階。遮光カーテンが半分だけ引かれた部長室は、外の喧騒を拒絶した沈黙に包まれていた。
「……資料、ここに置いておきます」
彼女はデスクの端に書類を滑らせた。事務的な、冷たさすら感じる声。
男は椅子に深く背を預け、眼鏡のブリッジを指先で押し上げたまま、彼女を凝視する。
「それだけか?」
「……はい。午後の会議の準備がありますので、失礼します」
背を向けてドアへ向かおうとする彼女の、細い手首が掴まれた。
強い力で引き戻され、彼女の背中がデスクの角に当たる。
「っ……、ここは会社です。誰か来たら……」
「鍵は閉めた。……それに、外の連中はどうせ噂している。俺とお前は、ただならぬ仲だと。……不倫という名の、甘い蜜を吸い合っているとな」
男の指先が、彼女のブラウスの第一ボタンに触れる。
彼女は拒むように胸元を押さえたが、その瞳には抗いきれない熱が宿っていた。
「……最低。……部長という立場を利用して、部下を弄ぶなんて」
「ああ、最低だな。……だが、お前もそれを望んでいる。愛人という『特別な地位』に、酔いしれているんだろう?」
男は彼女の耳たぶを甘く噛んだ。
彼女の肩が小さく震える。
「……そうよ。……奥様には見せない顔を、私だけが知っている。……昼間のあなたは、私のもの」
「そうだ。……今は、夫でも何でもない。ただの男だ」
二人の影が、デスクの上で重なり、溶けていく。
外では電話のベルが鳴り、同僚たちの事務的な会話が飛び交っている。
その日常のすぐ隣で、二人は背徳という名の偽装を楽しんでいた。
PM 7:00 帰路の他人
駅の改札を出て、スーパーの角を曲がる。
五分先を歩く男の背中を、彼女は一定の距離を保って見つめていた。
道行く人々は、この二人が同じ家に帰るなどとは夢にも思わないだろう。
彼女は手に持った買い物袋を軽く揺らし、自分の指にある「何もついていない」左手を見つめた。
(……昼間の私は、彼を奪っている気分になれる。……でも)
夜の帳が下りるにつれ、彼女の心から「愛人」の刺々しさが消えていく。
PM 8:30 家庭という名の聖域
カチャリ、と家の鍵を開ける。
リビングには、昼間の殺伐とした空気は微塵も残っていない。
「おかえり。……お風呂、沸いてるよ」
キッチンから声をかけた彼女は、エプロンを締め、髪をゆるく纏めていた。
男は上着を脱ぎ、ネクタイを丁寧に解いてソファに置く。
「ああ。……今日は、少し疲れたな」
男が背後から彼女の腰に手を回す。
それは、昼間の執務室で見せた強引な手つきとは似ても似つかない、壊れ物を扱うような優しさだった。
「お疲れ様。……お肉、安かったから。あなたの好きな生姜焼きにしたわ」
「……ありがとう。……やっぱり、ここの飯が一番落ち着く」
男は彼女の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
香水ではない、洗剤と家庭の匂い。
「……ねえ。……昼間のこと、怒ってる?」
彼女が手を止めて尋ねる。
男は少しだけ身体を離し、困ったように笑った。
「……何を。……俺たちが、ああいう『遊び』を混ぜないと、この生活に耐えられないことを分かっているのは、俺の方だ」
「……だって。……そうでもしないと、私が『ただの妻』で終わってしまう気がして。……あなたが外で、本当に誰かを作ってしまうんじゃないかって、怖くて」
「馬鹿だな。……夜にお前が待っているから、俺は昼間、鬼になれるんだ」
男は彼女の左手を取り、引き出しから取り出した銀色の輪を、その薬指に静かに滑らせた。
家庭内限定の、真実の証。
「……おかえりなさい。……私の、旦那様」
「……ああ。……ただいま」
AM 2:00 溶け合う境界
深夜、寝室。
二人は毛布の中で、肌を寄せ合っていた。
「……明日も、また『部長』と『秘書』ね」
彼女が囁く。
男は彼女の髪を指で梳きながら、静かに頷いた。
「……ああ。……明日は大きな商談がある。……しっかりサポートしてくれよ、愛人さん」
「……ふふ。……こっぴどく叱ってあげます、奥様を放っておく悪い部長さんを」
二人は笑い合い、そして深い口づけを交わした。
昼と夜。
偽りと真実。
その境界線が曖昧になる瞬間にだけ、二人は本当の「自分たち」を感じることができる。
外は雨が降り始めていた。
明日になれば、またあの硝子張りの檻の中で、二人は「赤の他人」として、激しく惹かれ合う演技を始めるのだ。
PM 1:30 硝子張りの密室
オフィスビルの最上階。遮光カーテンが半分だけ引かれた部長室は、外の喧騒を拒絶した沈黙に包まれていた。
「……資料、ここに置いておきます」
彼女はデスクの端に書類を滑らせた。事務的な、冷たさすら感じる声。
男は椅子に深く背を預け、眼鏡のブリッジを指先で押し上げたまま、彼女を凝視する。
「それだけか?」
「……はい。午後の会議の準備がありますので、失礼します」
背を向けてドアへ向かおうとする彼女の、細い手首が掴まれた。
強い力で引き戻され、彼女の背中がデスクの角に当たる。
「っ……、ここは会社です。誰か来たら……」
「鍵は閉めた。……それに、外の連中はどうせ噂している。俺とお前は、ただならぬ仲だと。……不倫という名の、甘い蜜を吸い合っているとな」
男の指先が、彼女のブラウスの第一ボタンに触れる。
彼女は拒むように胸元を押さえたが、その瞳には抗いきれない熱が宿っていた。
「……最低。……部長という立場を利用して、部下を弄ぶなんて」
「ああ、最低だな。……だが、お前もそれを望んでいる。愛人という『特別な地位』に、酔いしれているんだろう?」
男は彼女の耳たぶを甘く噛んだ。
彼女の肩が小さく震える。
「……そうよ。……奥様には見せない顔を、私だけが知っている。……昼間のあなたは、私のもの」
「そうだ。……今は、夫でも何でもない。ただの男だ」
二人の影が、デスクの上で重なり、溶けていく。
外では電話のベルが鳴り、同僚たちの事務的な会話が飛び交っている。
その日常のすぐ隣で、二人は背徳という名の偽装を楽しんでいた。
PM 7:00 帰路の他人
駅の改札を出て、スーパーの角を曲がる。
五分先を歩く男の背中を、彼女は一定の距離を保って見つめていた。
道行く人々は、この二人が同じ家に帰るなどとは夢にも思わないだろう。
彼女は手に持った買い物袋を軽く揺らし、自分の指にある「何もついていない」左手を見つめた。
(……昼間の私は、彼を奪っている気分になれる。……でも)
夜の帳が下りるにつれ、彼女の心から「愛人」の刺々しさが消えていく。
PM 8:30 家庭という名の聖域
カチャリ、と家の鍵を開ける。
リビングには、昼間の殺伐とした空気は微塵も残っていない。
「おかえり。……お風呂、沸いてるよ」
キッチンから声をかけた彼女は、エプロンを締め、髪をゆるく纏めていた。
男は上着を脱ぎ、ネクタイを丁寧に解いてソファに置く。
「ああ。……今日は、少し疲れたな」
男が背後から彼女の腰に手を回す。
それは、昼間の執務室で見せた強引な手つきとは似ても似つかない、壊れ物を扱うような優しさだった。
「お疲れ様。……お肉、安かったから。あなたの好きな生姜焼きにしたわ」
「……ありがとう。……やっぱり、ここの飯が一番落ち着く」
男は彼女の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
香水ではない、洗剤と家庭の匂い。
「……ねえ。……昼間のこと、怒ってる?」
彼女が手を止めて尋ねる。
男は少しだけ身体を離し、困ったように笑った。
「……何を。……俺たちが、ああいう『遊び』を混ぜないと、この生活に耐えられないことを分かっているのは、俺の方だ」
「……だって。……そうでもしないと、私が『ただの妻』で終わってしまう気がして。……あなたが外で、本当に誰かを作ってしまうんじゃないかって、怖くて」
「馬鹿だな。……夜にお前が待っているから、俺は昼間、鬼になれるんだ」
男は彼女の左手を取り、引き出しから取り出した銀色の輪を、その薬指に静かに滑らせた。
家庭内限定の、真実の証。
「……おかえりなさい。……私の、旦那様」
「……ああ。……ただいま」
AM 2:00 溶け合う境界
深夜、寝室。
二人は毛布の中で、肌を寄せ合っていた。
「……明日も、また『部長』と『秘書』ね」
彼女が囁く。
男は彼女の髪を指で梳きながら、静かに頷いた。
「……ああ。……明日は大きな商談がある。……しっかりサポートしてくれよ、愛人さん」
「……ふふ。……こっぴどく叱ってあげます、奥様を放っておく悪い部長さんを」
二人は笑い合い、そして深い口づけを交わした。
昼と夜。
偽りと真実。
その境界線が曖昧になる瞬間にだけ、二人は本当の「自分たち」を感じることができる。
外は雨が降り始めていた。
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