昼は愛人、夜は妻の秘密

まさき

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不倫ごっこ

​第二話:硝子のハイヒール

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​第二話:硝子のハイヒール

​AM 10:30 喧騒のオフィス
​エレベーターの扉が開くと、そこは戦場だった。
彼女は、膝丈のタイトスカートに、鋭い針のようなハイヒールを鳴らしてフロアを歩く。
その背中に向かって、同僚の女たちがひそひそと毒を吐く。
​「……見てよ、あの歩き方。昨夜も部長と一緒だったのかしら」
「秘書のくせに、あんな高い香水つけて。誰に買ってもらったか見え見えよね」
​彼女は聞こえない振りをしながら、部長室の重い扉をノックした。
返ってきたのは、氷のように冷たい声。
​「入れ」
​入室すると、男はデスクでパソコンを叩いていた。顔も上げない。
彼女は一歩踏み出し、わざとらしくドアの鍵を指先で弾いた。カチリ、と小さな金属音が響く。
​「……部長。午前のスケジュールです」
​「そこに置け。……それから、昨日の報告書。あんな出来損ないを出すなと言ったはずだ。書き直せ」
​男がようやく顔を上げた。その瞳には、家で見せる柔和な光など微塵もない。
獲物を追い詰める肉食獣のような、鋭い眼光。
彼女はゾクリとした。その「冷徹な上司」に突き放される快感に。
​「……申し訳ございません。夜、お詫びに伺いましょうか?」
​彼女はデスクに両手をつき、男の顔を覗き込んだ。
少しだけ胸元が開くように、計算し尽くした角度で。
​「……ふん。反省しているようには見えないな」
​男は椅子を回し、彼女の腰を強引に引き寄せた。
デスクの上が乱れ、書類が床に散らばる。
​「……あ、……部長、誰か来たら……」
​「いいじゃないか。不倫なんだろう? 噂通りのことをして何が悪い」
​男の手が、彼女のストッキングの伝線をなぞるように這い上がる。
家では決して使わない、乱暴な言葉。
家では決して見せない、支配的な欲望。
​「……っ、……嫌な人。……奥様が泣いていますよ?」
​「……あんな退屈な女、どうでもいい。……今、俺の目の前にいるのは、お前だ」
​その言葉に、彼女の胸の奥が熱く疼く。
自分が自分の「代わり」を務めているという、倒錯した優越感。
二人は、鍵のかかった密室で、自分たちの「日常」を徹底的に汚し合っていた。
​PM 3:00 給湯室の火花
​「……あら、お疲れ様」
​給湯室でコーヒーを淹れていると、一人の若手社員が近づいてきた。
彼は、彼女に対してあからさまな好意を隠そうとしない数少ない男だった。
​「先輩、あまり無理しないでくださいね。部長、最近当たりが強いじゃないですか」
​「……そうかしら。仕事に厳しいだけよ」
​「いや、あれはパワハラですよ。……もし、何か困っているなら、僕が力になりますから。あんな『噂のある男』に、先輩まで汚される必要なんてない」
​彼は彼女の肩に手を置こうとした。
その時、入り口に男が立っていた。
冷たい無表情のまま、手に持ったマグカップを眺めている。
​「……仕事中に、随分と余裕があるようだな」
​「ぶ、部長……! いえ、これは……」
​若手社員が慌てて手を引く。
男はゆっくりと歩み寄り、彼女の横を通り過ぎる瞬間に、彼女にしか聞こえない低い声で吐き捨てた。
​「……安っぽい女だな。誰にでも触らせるのか」
​彼女の心臓が跳ねた。
嫉妬。
それは、家で「妻」として過ごしている時には決して得られない、毒のように甘い刺激だった。
​PM 9:00 魔法の解ける音
​駅から自宅までの帰り道。
彼女は、駅のトイレでメイクを落とし、派手な口紅を拭った。
高いヒールを脱ぎ捨てて、予備のローファーに履き替える。
左手の薬指に、冷たい銀の輪を戻した。
​「……ただいま」
​玄関を開けると、男がキッチンに立っていた。
エプロンをつけ、慣れない手つきで野菜を切っている。
​「……おかえり。遅かったな。……今日の会議、お疲れ様」
​男の声は、昼間の凶暴さを完全に失っていた。
暖かなスープの湯気とともに、優しい夫の声が響く。
​「……うん。……部長が怖くて、疲れちゃった」
​彼女は夫の背中に抱きついた。
男は包丁を置き、濡れた手を拭いてから、彼女の頭を優しく撫でる。
​「……ごめんな。あいつ、ひどい奴だな」
​「……本当に。……でも、そんな悪い部長から、私を奪ってくれるのは、あなただけでしょ?」
​男は苦笑し、彼女の額に口づけをした。
​「ああ。……夜は、俺だけの妻だ。……昼間の男には、指一本触れさせない」
​その言葉に、彼女は安堵と、わずかな寂しさを覚える。
昼間の「あの男」に、もっともっと壊されたいと願う自分。
夜の「この男」に、一生守られていたいと願う自分。
​二つの人格は、この家のドアを境に、決して交わることはない。
……はずだった。
​「……ねえ、これ」
​夕食の席で、男がスマートフォンの画面を見せてきた。
そこには、昼間の給湯室で、若手社員が彼女の肩に手を置こうとしている瞬間が、誰かによって隠し撮りされた写真が映っていた。
​「……社内の掲示板に、匿名で流されていた。……『不倫女の誘惑』っていうタイトルでな」
​食卓の空気が、一瞬で凍りつく。
「ごっこ」だったはずの遊びに、現実の亀裂が走り始めていた。
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