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【第0章】越えてしまった夜
0-5 約束の日まで
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0-5 約束の日まで
非常階段で交わした、あまりに危うい約束のあと。
僕はそのまま真っすぐ帰路につくことができなかった。
駐車場へ向かう足取りは、いつもと同じビジネスシューズの音を響かせているはずなのに、どこか地に着いていないような現実感のなさがつきまとう。
運転席に座り、エンジンをかける指先が、微かに、けれどはっきりと落ち着きを失っていた。
何かが決定的に変わった、という感覚があった。
元に戻ることのできない川を、今夜渡ってしまった。
その自覚が、じわじわと全身に染み渡っていく。
――平日の、午後二時。
彼女が捻り出した、空白の時間。
僕が強引に踏み込んだ、二人だけの密約。
その事実を反芻するだけで、胸の奥がじりじりと焦がれるような熱を帯びる。
「不倫」という言葉の輪郭が、これほどまでに具体的で、これほどまでに熱いものだとは知らなかった。
その言葉を頭の中で転がすたびに、
罪悪感と高揚感が、
まるで競り合うように交互に押し寄せてくる。
どちらが勝っているのかは、まだ分からない。
ただ、負けているのが罪悪感の方だということだけは、
はっきりと分かっていた。
不安がないと言えば嘘になる。
破滅への恐怖は、常に足元に影のように張り付いている。
それでも、それ以上に――。
職場の「先輩と後輩」という仮面を脱ぎ捨て、プライベートな空間で彼女と向き合えるという事実が、狂おしいほどに、純粋に、嬉しかった。
嬉しい、という感情が、
こんなにも罪深いものだとは知らなかった。
なぜ、彼女はあの誘いを受けてくれたのか。
その理由は、今も分からない。
ほんの気まぐれか。
断りきれない流れだったのか。
あるいは、彼女も僕と同じ熱を抱えているのか。
答えは出ない。
それでもいい。
どんな理由であれ、
彼女は「来る」と言った。
それ以上を求めることは、
今の僕にはできなかったし、
する必要もなかった。
今はただ、「会える」という結果だけが、僕の世界のすべてを支配していた。
その夜、家に帰っても、意識の半分はどこか別の場所に置き忘れてきたようだった。
妻と並んで、テレビのバラエティ番組の音を聞きながら、温かい食事を口に運ぶ。
いつもと同じ時間が、穏やかに、平和に流れている。
妻の声が、耳に届いている。
笑うべき場面で、ちゃんと笑えている。
返事もしている。
けれど、それはすべて、長年かけて積み上げてきた習慣がこなしているだけで、
僕の意識は、まったく別の場所で動き続けていた。
こんなに近くにいながら、
こんなにも遠い場所にいる自分が、
酷く奇妙で、そして酷く快かった。
非常階段で見せた、彼女の寂しげな横顔。
感情を押し殺したような、淡々とした声。
「分かりました」と言った、あの数秒間の沈黙。
あれは、どんな気持ちの表れだったのか。
拒絶の代わりの諦めか。
それとも、僕を求める衝動の裏返しなのか。
考え始めればキリがない。
けれど考えずにはいられなかった。
あの沈黙の間、彼女の胸の中に何があったのか。
それを知りたくてたまらない気持ちと、
知ってしまうのが怖い気持ちが、
ぐるぐると絡み合って解けなかった。
けれど、彼女が自ら「有給を取る日」を差し出してくれたという事実が、すべての疑念を甘美な期待で上書きしていく。
その日から当日までの数日間。
時間は、いつもより残酷なほどゆっくりと流れているように感じられた。
仕事中、意味もなくカレンダーの数字をなぞる。
会議中、何度も時計を確認し、一分の進みの遅さに溜息をつく。
スマホを手に取っては、何も通知がないことに安堵し、同時に物足りなさを覚えてポケットに戻す。
この矛盾が、可笑しくてたまらなかった。
連絡が来れば、ドタキャンかもしれないと恐れる。
連絡がなければ、存在を忘れられたような寂しさを覚える。
どちらに転んでも落ち着かない。
それがもどかしく、同時に、生きているという感覚を鮮明にさせた。
彼女からは、特別な連絡は一度もなかった。
業務上の、必要最低限のメール。
廊下ですれ違う際も、軽く会釈を交わすだけ。
いつもと変わらない、徹底して事務的なやり取り。
それなのに。
その、あまりに徹底された「変わらなさ」が、逆に僕たちの約束に生々しい現実味を与えていた。
誰にも見えない、オフィスの喧騒の裏側で、あの約束は確かに脈打っている。
彼女がメールを送ってくるたびに、
僕はその文面の裏側を読もうとしていた。
用件だけが書かれた、感情の見えない言葉の羅列。
それが業務上の必要から来るのか、
意図的な距離の維持から来るのか、
どちらとも判断できないまま、
僕は何度も画面を読み返した。
車での通勤中。
信号待ちのたびに、ふと気が緩むと口元が緩みそうになる。
――会える。二人きりで。
その事実だけで、肺に溜まった澱が消え、呼吸が少しだけ軽くなる。
これほど信号待ちが愛おしいと感じたことは、今まで一度もなかった。
日常の何でもない瞬間が、
この期待のせいで、
妙に色鮮やかに輝いて見えた。
昼休み。
妻が今朝、丁寧に作ってくれた弁当をデスクで広げる。
いつもと同じおかず。
いつもと同じ、慣れ親しんだ味。
妻は今朝も、早起きして作ってくれた。
それだけで、充分に優しい人だと分かる。
分かっているのに、
その温かさが、今日は胸に刺さった。
咀嚼しながら、僕の思考はまったく別の場所に飛んでいた。
郊外の、広い立体駐車場。
午後二時の、少し傾きかけた太陽。
何度も、何度も、頭の中でシミュレーションを繰り返す。
スロープを上がってくる彼女の車。
静まり返った駐車場で目が合う、その一瞬。
最初に、どんな言葉を交わすべきか。
あるいは、言葉なんていらないのか。
そのひとつひとつが、まだ起きてもいないことなのに、すでに確かな悦びとして僕の中に積み重なっていく。
その悦びが積み重なるたびに、
弁当箱の中の、妻の丁寧な仕事が目に入った。
卵焼きの、きれいな形。
隙間なく詰められた、慣れた手つきの痕跡。
その二つが、同じ視界の中に並んでいる。
僕はそれをどちらも、
ただ眺め続けた。
もちろん、不安がゼロなわけじゃない。
当日、急な用事が入るかもしれない。
ドタキャンされるかもしれない。
あるいは、待ち合わせ場所に彼女が現れず、僕一人が馬鹿みたいに取り残されるかもしれない。
何事もなかったような冷めた顔で、「やっぱり間違いでした」と突き放されるかもしれない。
それでも。
それでも、その絶望を考慮してもなお、「会える」という喜びの方が、はっきりと勝利を収めていた。
その勝利が、
自分の中のまともな部分を、
少しずつ削っていくような気もしていた。
でも止まれなかった。
数日前までは、ただの同僚だった。
信頼し合える、少しだけ親しい存在。
今はもう――。
秘密の約束を分かち合った共犯者になっている。
それだけで、見慣れたはずの日常の景色が、少しだけ鮮やかに、危うく歪んで見えた。
当日が近づくにつれて、その感覚はより濃密に身体の芯まで侵食していく。
平日の午後。
業務でも、偶然でもない。
意図的に作られた空白の時間。
彼女が用意し、僕が踏み込んだ約束。
――もうすぐ、僕はあの場所に立つ。
その一歩が、どこへ向かう出口なのかは分からない。
いや、正確には。
分かっているのに、分からないふりをしている。
その方が、踏み出せるから。
ただ一つだけ、確かなのは。
その破滅への入り口を、今の僕は心の底から楽しみにしているということだけだった。
第0章 完結
非常階段で交わした、あまりに危うい約束のあと。
僕はそのまま真っすぐ帰路につくことができなかった。
駐車場へ向かう足取りは、いつもと同じビジネスシューズの音を響かせているはずなのに、どこか地に着いていないような現実感のなさがつきまとう。
運転席に座り、エンジンをかける指先が、微かに、けれどはっきりと落ち着きを失っていた。
何かが決定的に変わった、という感覚があった。
元に戻ることのできない川を、今夜渡ってしまった。
その自覚が、じわじわと全身に染み渡っていく。
――平日の、午後二時。
彼女が捻り出した、空白の時間。
僕が強引に踏み込んだ、二人だけの密約。
その事実を反芻するだけで、胸の奥がじりじりと焦がれるような熱を帯びる。
「不倫」という言葉の輪郭が、これほどまでに具体的で、これほどまでに熱いものだとは知らなかった。
その言葉を頭の中で転がすたびに、
罪悪感と高揚感が、
まるで競り合うように交互に押し寄せてくる。
どちらが勝っているのかは、まだ分からない。
ただ、負けているのが罪悪感の方だということだけは、
はっきりと分かっていた。
不安がないと言えば嘘になる。
破滅への恐怖は、常に足元に影のように張り付いている。
それでも、それ以上に――。
職場の「先輩と後輩」という仮面を脱ぎ捨て、プライベートな空間で彼女と向き合えるという事実が、狂おしいほどに、純粋に、嬉しかった。
嬉しい、という感情が、
こんなにも罪深いものだとは知らなかった。
なぜ、彼女はあの誘いを受けてくれたのか。
その理由は、今も分からない。
ほんの気まぐれか。
断りきれない流れだったのか。
あるいは、彼女も僕と同じ熱を抱えているのか。
答えは出ない。
それでもいい。
どんな理由であれ、
彼女は「来る」と言った。
それ以上を求めることは、
今の僕にはできなかったし、
する必要もなかった。
今はただ、「会える」という結果だけが、僕の世界のすべてを支配していた。
その夜、家に帰っても、意識の半分はどこか別の場所に置き忘れてきたようだった。
妻と並んで、テレビのバラエティ番組の音を聞きながら、温かい食事を口に運ぶ。
いつもと同じ時間が、穏やかに、平和に流れている。
妻の声が、耳に届いている。
笑うべき場面で、ちゃんと笑えている。
返事もしている。
けれど、それはすべて、長年かけて積み上げてきた習慣がこなしているだけで、
僕の意識は、まったく別の場所で動き続けていた。
こんなに近くにいながら、
こんなにも遠い場所にいる自分が、
酷く奇妙で、そして酷く快かった。
非常階段で見せた、彼女の寂しげな横顔。
感情を押し殺したような、淡々とした声。
「分かりました」と言った、あの数秒間の沈黙。
あれは、どんな気持ちの表れだったのか。
拒絶の代わりの諦めか。
それとも、僕を求める衝動の裏返しなのか。
考え始めればキリがない。
けれど考えずにはいられなかった。
あの沈黙の間、彼女の胸の中に何があったのか。
それを知りたくてたまらない気持ちと、
知ってしまうのが怖い気持ちが、
ぐるぐると絡み合って解けなかった。
けれど、彼女が自ら「有給を取る日」を差し出してくれたという事実が、すべての疑念を甘美な期待で上書きしていく。
その日から当日までの数日間。
時間は、いつもより残酷なほどゆっくりと流れているように感じられた。
仕事中、意味もなくカレンダーの数字をなぞる。
会議中、何度も時計を確認し、一分の進みの遅さに溜息をつく。
スマホを手に取っては、何も通知がないことに安堵し、同時に物足りなさを覚えてポケットに戻す。
この矛盾が、可笑しくてたまらなかった。
連絡が来れば、ドタキャンかもしれないと恐れる。
連絡がなければ、存在を忘れられたような寂しさを覚える。
どちらに転んでも落ち着かない。
それがもどかしく、同時に、生きているという感覚を鮮明にさせた。
彼女からは、特別な連絡は一度もなかった。
業務上の、必要最低限のメール。
廊下ですれ違う際も、軽く会釈を交わすだけ。
いつもと変わらない、徹底して事務的なやり取り。
それなのに。
その、あまりに徹底された「変わらなさ」が、逆に僕たちの約束に生々しい現実味を与えていた。
誰にも見えない、オフィスの喧騒の裏側で、あの約束は確かに脈打っている。
彼女がメールを送ってくるたびに、
僕はその文面の裏側を読もうとしていた。
用件だけが書かれた、感情の見えない言葉の羅列。
それが業務上の必要から来るのか、
意図的な距離の維持から来るのか、
どちらとも判断できないまま、
僕は何度も画面を読み返した。
車での通勤中。
信号待ちのたびに、ふと気が緩むと口元が緩みそうになる。
――会える。二人きりで。
その事実だけで、肺に溜まった澱が消え、呼吸が少しだけ軽くなる。
これほど信号待ちが愛おしいと感じたことは、今まで一度もなかった。
日常の何でもない瞬間が、
この期待のせいで、
妙に色鮮やかに輝いて見えた。
昼休み。
妻が今朝、丁寧に作ってくれた弁当をデスクで広げる。
いつもと同じおかず。
いつもと同じ、慣れ親しんだ味。
妻は今朝も、早起きして作ってくれた。
それだけで、充分に優しい人だと分かる。
分かっているのに、
その温かさが、今日は胸に刺さった。
咀嚼しながら、僕の思考はまったく別の場所に飛んでいた。
郊外の、広い立体駐車場。
午後二時の、少し傾きかけた太陽。
何度も、何度も、頭の中でシミュレーションを繰り返す。
スロープを上がってくる彼女の車。
静まり返った駐車場で目が合う、その一瞬。
最初に、どんな言葉を交わすべきか。
あるいは、言葉なんていらないのか。
そのひとつひとつが、まだ起きてもいないことなのに、すでに確かな悦びとして僕の中に積み重なっていく。
その悦びが積み重なるたびに、
弁当箱の中の、妻の丁寧な仕事が目に入った。
卵焼きの、きれいな形。
隙間なく詰められた、慣れた手つきの痕跡。
その二つが、同じ視界の中に並んでいる。
僕はそれをどちらも、
ただ眺め続けた。
もちろん、不安がゼロなわけじゃない。
当日、急な用事が入るかもしれない。
ドタキャンされるかもしれない。
あるいは、待ち合わせ場所に彼女が現れず、僕一人が馬鹿みたいに取り残されるかもしれない。
何事もなかったような冷めた顔で、「やっぱり間違いでした」と突き放されるかもしれない。
それでも。
それでも、その絶望を考慮してもなお、「会える」という喜びの方が、はっきりと勝利を収めていた。
その勝利が、
自分の中のまともな部分を、
少しずつ削っていくような気もしていた。
でも止まれなかった。
数日前までは、ただの同僚だった。
信頼し合える、少しだけ親しい存在。
今はもう――。
秘密の約束を分かち合った共犯者になっている。
それだけで、見慣れたはずの日常の景色が、少しだけ鮮やかに、危うく歪んで見えた。
当日が近づくにつれて、その感覚はより濃密に身体の芯まで侵食していく。
平日の午後。
業務でも、偶然でもない。
意図的に作られた空白の時間。
彼女が用意し、僕が踏み込んだ約束。
――もうすぐ、僕はあの場所に立つ。
その一歩が、どこへ向かう出口なのかは分からない。
いや、正確には。
分かっているのに、分からないふりをしている。
その方が、踏み出せるから。
ただ一つだけ、確かなのは。
その破滅への入り口を、今の僕は心の底から楽しみにしているということだけだった。
第0章 完結
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