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第1話:救いの手、あるいは罠
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第1話:救いの手、あるいは罠
地元への転勤が決まったとき、俺が抱いたのは「懐かしさ」と「安堵」だけだった。
都会の大手商社で擦り切れるまで働いた俺にとって、故郷の金沢は穏やかな再出発の場所に思えたのだ。北陸の湿った風も、鉛色の空も、今の俺にはむしろ心地よく感じられた。
だが、生まれも育ちも東京の妻にとっては違った。
「知り合いも一人もいないし、本当に馴染めるかな……。言葉とか、浮いちゃわないかな」
段ボールだらけの新居で、妻は不安げに細い肩を震わせていた。三歳になる娘も、環境の変化を察してか、どこか元気がなかった。俺はそんな家族を抱きしめながら、「大丈夫だ、すぐに慣れるよ」と、自分にも言い聞かせるように繰り返すしかなかった。
そんな妻が、幼稚園の入園式を数日後に控えたある日、弾んだ足取りで帰宅した。
「ねえ、すごく親切な人がいたの! 近くの公園で子供同士が仲良くなって。この辺りのスーパーのこととか、幼稚園の準備のこと、全部教えてくれるって」
その時の妻の、救われたような明るい笑顔。俺はただ「そいつは良かった」と、心から安堵していた。転勤族の妻にとって、孤独を埋めてくれる「最初の友人」がどれほど大きな存在かを知っていたから。
それが、巧妙に仕組まれた「罠」の入り口だとは、露ほども思わずに。
四月。重く湿った春の雪がようやく消え、園庭の桜がようやくほころび始めた入園式当日。
真新しいスーツに身を包んだ俺は、緊張で顔を強張らせた娘の手を引き、妻と共に正門をくぐった。受付を済ませ、講堂へ向かおうとしたその時だ。
「あ、いたいた! ――さん!」
妻が嬉しそうに手を振り、一人の女性へ駆け寄っていく。
上品にまとめられた栗色の髪、落ち着いた紺色のワンピース。園の保護者として相応しい、控えめながらも気品のある佇まい。その女性が、振り返って微笑んだ。
「お疲れ様。やっぱり、この制服、娘さんにすごく似合ってるわ」
その声を聞いた瞬間、俺の全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
脳の奥底に封印していた記憶の扉が、音を立てて吹き飛ぶ。
間違いない。
高校時代、放課後の教室で、夕暮れの河川敷で、誰よりも近くにいた彼女だ。
大学進学を機に始まった遠距離。最初は毎晩のようにしていた長電話が、二日に一度になり、週に一度になり……。いつしか着信があっても「後でかけ直そう」と放置し、そのまま画面を閉じるようになった。
喧嘩もしていない。別れ話もしていない。
ただ、お互いに「連絡する」という労力を惜しんだ結果、日常から音もなくフェードアウトしていった「自然消滅」。
謝罪の一言も、区切りの言葉も交わさないまま、俺は都会での新しい恋に上書きして、彼女のことを「終わった過去」として処理したつもりだった。
「パパ、こちらが公園で仲良くしてもらった――さん。すごく親切なのよ」
妻が誇らしげに俺を紹介する。
彼女はゆっくりと視線を俺に向けた。その瞳は、驚くほど澄んでいた。かつて俺を「好きだよ」と言って見つめていた、あの頃のままの三白眼。
「初めまして。いつも奥様にはお世話になっております」
彼女は、完璧な「ママ友」の礼儀正しさで深く頭を下げた。
初対面のふり。
だが出された右手の指先が、ほんの少しだけ震えているのを、俺は見逃さなかった。いや、震えていたのは俺の方だったのかもしれない。
「……初めまして。主人の、です」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
隣で笑う妻は、夫と親友の間に流れる、氷点下の緊張感に全く気づいていない。それどころか、二人を繋げられた喜びで顔を輝かせている。
「本当に助かっているんです。彼女、この辺りの出身なんですって。パパと同郷ね」
「そうなの? それは奇遇だわ。……パパさん、これからよろしくお願いしますね。引っ越してきたばかりで不安でしょうけど、私、この街のことなら『何でも』知っていますから」
彼女が浮かべた微笑は、聖母のように慈悲深く、同時に、逃げ場を塞ぐ蛇のように冷ややかだった。
「何でも知っている」という言葉が、鋭いナイフとなって俺の心臓をなぞる。
俺が都会でどんな大学生活を送り、どんな会社に入り、どんな経緯で今の妻と出会い、そして何を忘れて生きてきたか。彼女はそれをすべて、妻の口から引き出した上で、この場所に立っているのではないか。
自然消滅。
それは終わったのではなく、ただ放置されただけの、腐敗した約束だったのだ。
娘が俺の手をぎゅっと握り直した。その温もりが、今の自分の「幸せ」を象徴しているようで、余計に怖くなった。
「ねえ、式が終わったら、三人で少しお茶でもしない?」
妻の無邪気な提案に、彼女は俺の目をじっと見つめながら、優雅に頷いた。
「ええ、ぜひ。――パパさんも、それでいいわよね?」
俺の返事など、最初から決まっている。
名前すら呼べない地獄へのカウントダウンが、今、始まった。
地元への転勤が決まったとき、俺が抱いたのは「懐かしさ」と「安堵」だけだった。
都会の大手商社で擦り切れるまで働いた俺にとって、故郷の金沢は穏やかな再出発の場所に思えたのだ。北陸の湿った風も、鉛色の空も、今の俺にはむしろ心地よく感じられた。
だが、生まれも育ちも東京の妻にとっては違った。
「知り合いも一人もいないし、本当に馴染めるかな……。言葉とか、浮いちゃわないかな」
段ボールだらけの新居で、妻は不安げに細い肩を震わせていた。三歳になる娘も、環境の変化を察してか、どこか元気がなかった。俺はそんな家族を抱きしめながら、「大丈夫だ、すぐに慣れるよ」と、自分にも言い聞かせるように繰り返すしかなかった。
そんな妻が、幼稚園の入園式を数日後に控えたある日、弾んだ足取りで帰宅した。
「ねえ、すごく親切な人がいたの! 近くの公園で子供同士が仲良くなって。この辺りのスーパーのこととか、幼稚園の準備のこと、全部教えてくれるって」
その時の妻の、救われたような明るい笑顔。俺はただ「そいつは良かった」と、心から安堵していた。転勤族の妻にとって、孤独を埋めてくれる「最初の友人」がどれほど大きな存在かを知っていたから。
それが、巧妙に仕組まれた「罠」の入り口だとは、露ほども思わずに。
四月。重く湿った春の雪がようやく消え、園庭の桜がようやくほころび始めた入園式当日。
真新しいスーツに身を包んだ俺は、緊張で顔を強張らせた娘の手を引き、妻と共に正門をくぐった。受付を済ませ、講堂へ向かおうとしたその時だ。
「あ、いたいた! ――さん!」
妻が嬉しそうに手を振り、一人の女性へ駆け寄っていく。
上品にまとめられた栗色の髪、落ち着いた紺色のワンピース。園の保護者として相応しい、控えめながらも気品のある佇まい。その女性が、振り返って微笑んだ。
「お疲れ様。やっぱり、この制服、娘さんにすごく似合ってるわ」
その声を聞いた瞬間、俺の全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
脳の奥底に封印していた記憶の扉が、音を立てて吹き飛ぶ。
間違いない。
高校時代、放課後の教室で、夕暮れの河川敷で、誰よりも近くにいた彼女だ。
大学進学を機に始まった遠距離。最初は毎晩のようにしていた長電話が、二日に一度になり、週に一度になり……。いつしか着信があっても「後でかけ直そう」と放置し、そのまま画面を閉じるようになった。
喧嘩もしていない。別れ話もしていない。
ただ、お互いに「連絡する」という労力を惜しんだ結果、日常から音もなくフェードアウトしていった「自然消滅」。
謝罪の一言も、区切りの言葉も交わさないまま、俺は都会での新しい恋に上書きして、彼女のことを「終わった過去」として処理したつもりだった。
「パパ、こちらが公園で仲良くしてもらった――さん。すごく親切なのよ」
妻が誇らしげに俺を紹介する。
彼女はゆっくりと視線を俺に向けた。その瞳は、驚くほど澄んでいた。かつて俺を「好きだよ」と言って見つめていた、あの頃のままの三白眼。
「初めまして。いつも奥様にはお世話になっております」
彼女は、完璧な「ママ友」の礼儀正しさで深く頭を下げた。
初対面のふり。
だが出された右手の指先が、ほんの少しだけ震えているのを、俺は見逃さなかった。いや、震えていたのは俺の方だったのかもしれない。
「……初めまして。主人の、です」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
隣で笑う妻は、夫と親友の間に流れる、氷点下の緊張感に全く気づいていない。それどころか、二人を繋げられた喜びで顔を輝かせている。
「本当に助かっているんです。彼女、この辺りの出身なんですって。パパと同郷ね」
「そうなの? それは奇遇だわ。……パパさん、これからよろしくお願いしますね。引っ越してきたばかりで不安でしょうけど、私、この街のことなら『何でも』知っていますから」
彼女が浮かべた微笑は、聖母のように慈悲深く、同時に、逃げ場を塞ぐ蛇のように冷ややかだった。
「何でも知っている」という言葉が、鋭いナイフとなって俺の心臓をなぞる。
俺が都会でどんな大学生活を送り、どんな会社に入り、どんな経緯で今の妻と出会い、そして何を忘れて生きてきたか。彼女はそれをすべて、妻の口から引き出した上で、この場所に立っているのではないか。
自然消滅。
それは終わったのではなく、ただ放置されただけの、腐敗した約束だったのだ。
娘が俺の手をぎゅっと握り直した。その温もりが、今の自分の「幸せ」を象徴しているようで、余計に怖くなった。
「ねえ、式が終わったら、三人で少しお茶でもしない?」
妻の無邪気な提案に、彼女は俺の目をじっと見つめながら、優雅に頷いた。
「ええ、ぜひ。――パパさんも、それでいいわよね?」
俺の返事など、最初から決まっている。
名前すら呼べない地獄へのカウントダウンが、今、始まった。
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