地元に転勤したら、妻の親友(ママ友)が元カノだった〜絶対にバレてはいけない秘密の再会〜

まさき

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第2話:沈黙の乾杯

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幼稚園のすぐ裏手にある、蔦の絡まる古い蔵を改装したカフェ。
 天井で回る真鍮製のシーリングファンが、俺の焦燥を煽るようにゆっくりと、重たい空気をかき混ぜている。焙煎された豆の香ばしい匂いと、雨上がりの土の匂いが混ざり合い、妙に鼻についた。
 
「ここ、奥にお座敷があるから子供連れでも安心なのよ」
 彼女は慣れた手つきで、娘のために木製のおもちゃや絵本を広げて見せた。その所作の一つひとつに淀みがなく、どこまでも優しく、洗練された母親そのものだ。
 俺の隣で、妻は「本当に、何から何まで助かっちゃう。引越したばかりで、どこに何があるかも分からなかったから」と、すっかり彼女に心酔している様子だった。
 重厚な一枚板のテーブルを挟んで、俺の正面に彼女が座る。
 かつて、地元の古びたファミレスで向かい合って座り、ドリンクバーのメロンソーダで何時間も、青臭い将来を語り合った。あの頃の彼女は、もっとよく笑い、もっと幼く、そして――今の俺が見るのが耐えられないほど、まっすぐに俺を求めていた。
「パパさんは、ブラックコーヒーでいいですか?」
 彼女がメニューをこちらへ向けながら、ふと顔を上げた。
 その瞬間、俺は肺から空気が抜けるような感覚に襲われた。彼女の細い指先が、メニューにある「深煎りブラック」の文字を的確に指している。
 俺は学生時代、コーヒーが苦手だった。彼女だけが知っているはずだ。俺がいつも、彼女に「子供っぽい」とからかわれながら、甘すぎるほどのカフェオレにガムシロップを二つも入れて頼んでいたことを。
「あ、主人はブラック派なの。ねえ、パパ?」
 妻が横から無邪気に口を出す。都会の荒波に揉まれ、徹夜続きの仕事をこなすうちに、俺は眠気を覚ますための道具としてブラックを飲むようになった。それは俺にとって、弱さを隠すための「大人の鎧」だった。
 彼女の三白眼が、微かに、愉しげに細められる。
「……ええ。ブラックで。お願いします」
 俺の答えを聞いて、彼女は満足そうに微笑んだ。
「そう。大人になると、いろいろと味覚も変わるものね。……それとも、無理をして新しい自分に合わせているのかしら。昔の自分を、すっかり忘れて」
 その一言に、心臓が大きく跳ねた。
 都会に染まり、自分を捨て、謝罪もなく過去を切り捨てた俺への、静かだが鋭い皮肉。
 だが、妻はそれを単なる世間話として受け流し、「本当にそうよね、昔の自分が見たらびっくりしちゃうわよ」と屈託なく笑っている。その無垢な笑顔が、今の俺には救いであると同時に、もっとも残酷な毒に感じられた。
 やがて、運ばれてきた飲み物。
 彼女は自分の紅茶を一口啜ると、不意にバッグの中から、銀色の小さなケースを取り出した。
「これ、主人が出張先で見つけてきた砂糖なんですけど。すごく香りが良くて、お気に入りなの。奥様もいかが?」
 妻が「わあ、素敵!」とそれを受け取り、蓋を開ける。
 彼女が差し出したのは、不揃いな形をした、透き通った琥珀色の角砂糖だった。
 その形。その色。
 かつて、俺たちが「自然消滅」という名の終止符を打つ直前の、最後のデート。あの気まずい沈黙が流れる駅前の喫茶店で、彼女が会話を繋ぐ代わりに、指先でずっといじっていたものと全く同じだった。
 彼女は俺の目を見つめながら、その角砂糖を一つ、自分のカップにゆっくりと落とした。
 ポチャン、と小さな音が、静かな店内に不自然なほど大きく響く。
「こうして溶けて消えていくのを見てると、なんだか不思議な気持ちにならない? 確固たる形があったものが、跡形もなく混ざり合って、最初からなかったことになるなんて。本当は、消えたわけじゃなくて、そこにあるのにね」
 それは、俺たちが「自然消滅」という言葉で蓋をした、あの煮え切らない関係そのものを指しているようだった。
 連絡しなくなったあの日、俺は彼女からの最後の短いメールを開かなかった。既読をつけることすら怖かった。彼女もまた、俺に追い打ちをかけるような拒絶の言葉を投げてはこなかった。
 お互いに、波風を立てず、ただ溶けて消えるのを待っていた。
 だが、彼女の瞳は今、はっきりと告げている。――「混ざり合って、消えてなんていない」と。
「……消えたんじゃなくて、形を変えただけですよ。味は、確実に残る」
 喉の奥に張り付いたような声で、俺はそう返した。
 彼女の瞳に、獲物を見つけた猛禽類のような鋭い光が宿る。
「パパ、今日なんだか哲学的ね? 引越しの疲れかしら」
 妻の呑気な声が、凍りついた空気を強引に溶かしていく。
「でも、本当に――さんと会えてよかった。地元に帰ってきて、パパもなんだか、昔の柔らかい顔に戻ったみたい」
 昔の顔。
 その顔を、今、目の前の彼女がどんな思いで見つめているのか。
 彼女は静かにカップを置いた。陶器が擦れる音が、俺の神経を逆撫でする。
「そうね。……でも、戻りたくても、どうしても戻れないこともあるわよね。例えば、あの日、別の道を選んでいたらなんて……そんな後悔をしたところで、現実は変わらないけれど」
 彼女の視線が、俺の手元にあるプラチナの結婚指輪に一瞬だけ落ちた。
 その目は、寂しさでも未練でもない。これから始まる「復讐」あるいは「精算」を確信している、静かな狂気を孕んだ目だった。
「さて、そろそろ行きましょうか。子供たちも飽きちゃったみたいだし、夕食の準備もあるし」
 彼女が立ち上がり、伝票を手に取る。
 妻が慌てて「ここは私たちが!」と止めるが、彼女は「いいのよ、歓迎会代わりだと思って」と優雅な所作で制した。
 会計を済ませ、薄暗い店を出る間際のことだ。
 妻が娘の脱げかけた靴を履かせようと、入口の陰で屈み込んだ一瞬。
 
 彼女が俺の耳元を掠めるように通り過ぎながら、熱を帯びた、吐息のような声で囁いた。
「……ねえ。本当は今でも、カフェオレの方が好きでしょ? 私のことも、本当は――」
 最後まで言葉にされる前に、彼女は身を引いた。耳を打つ熱に、俺の背筋は総毛立ち、足元が崩れるような錯覚に陥る。
 彼女はそのまま、何事もなかったかのように妻の隣で「また明日、園のバス停でね」と、軽やかに手を振った。
 春の長い夕暮れ。
 真っ赤に染まった空の下で、俺は自分が取り返しのつかない迷路――かつて自ら放棄したはずの過去という地獄に、再び足を踏み入れたことを確信した。
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