地元に転勤したら、妻の親友(ママ友)が元カノだった〜絶対にバレてはいけない秘密の再会〜

まさき

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第3話:隣り合う深淵

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第3話:隣り合う深淵

 カフェでの別れ際、彼女が残した囁きは、数日経っても俺の耳の奥にこびりついて離れなかった。
 仕事をしていても、娘と遊んでいても、ふとした瞬間にあの琥珀色の角砂糖が溶けていく光景が脳裏をよぎる。俺が都会で手に入れた「ブラックコーヒーを飲む自分」という薄っぺらな虚飾を、彼女はいとも簡単に剥ぎ取ってみせたのだ。
 そんな折、またしても妻が「嬉しいニュース」を運んできた。
「パパ、聞いて! 今日の送りで彼女の旦那さんとお会いしたんだけど、なんとパパと同じ会社なんですって」
 持っていたペンが、乾いた音を立てて床に落ちた。
 俺の勤務先はこの地元でも名が知れた企業の支店だが、まさかそんな偶然があるのか。いや、これは偶然などではない。彼女が意図的に手繰り寄せた「必然」なのではないか。
「支店は違うみたいだけど、今度ぜひ家族同士で食事しましょうって誘われちゃった。もう、本当に縁があるわよね」
 妻は運命的な出会いを無邪気に喜んでいる。だが、俺にとってはそれは「縁」などという生易しいものではなかった。
 自然消滅という形で、俺が彼女の人生から逃げ出した報い。それが、目に見えない網の目のように、俺の生活をじわじわと包囲し始めている。
 週末、指定されたのは犀川のせせらぎが遠くに聞こえる、地元でも格式高い割烹料理店だった。
 手入れの行き届いた打ち水が光る石畳。重厚な門構えをくぐると、お香の香りが鼻をくすぐる。その静謐な空気が、かえって俺の心臓に不吉な鼓動を刻ませた。
「お待たせしました」
 仲居に案内された個室の障子が開くと、そこには彼女と、いかにも「地元のエリート」といった風貌の男が座っていた。
 彼女は、入園式の時よりもさらに控えめで、献身的な妻の顔をしていた。薄墨色の着物が、彼女の白すぎる肌をより一層際立たせている。
「主人の、です。いつも妻がお世話になっております」
 隣に座る男が、鷹揚に、それでいて力強く手を差し出してきた。
 俺はその手を握り返しながら、男の隣で静かに微笑む彼女に視線をやった。彼女は一度も俺と目を合わせようとしない。ただ、甲斐甲斐しく夫のグラスにビールを注いでいる。その指先の無駄のない動き、わずかに傾けた首の角度。すべてが「完璧な妻」を演じるための記号に見え、俺の胃の奥がチリりと焼けるように痛んだ。
「いやあ、妻からお聞きしましたよ。優秀な方が本社から戻ってこられたと。これからは仕事でも、プライベートでも、長いお付き合いになりそうだ」
 男の声は朗らかだが、どこか独占欲の強さを感じさせた。地元の名士の息子だろうか。彼の自信に満ちた喋り方が、この街に根を張れずに逃げ出した過去を持つ俺の劣等感を逆撫でする。
 宴が進むにつれ、運ばれてくる繊細な料理の味など、俺には全く分からなかった。妻と男は共通の知人や地元の話題で盛り上がり、俺と彼女は必然的に、沈黙の壁を共有することになる。
 男が妻に向かって、武勇伝のように語り始めた。
「彼女、高校の頃はもっとおてんばだったんですよ。僕が根気強く口説き落として、ようやく今があるんです。当時は別の、頼りない男を追いかけてたみたいですけどね」
 男の豪快な笑い声が、個室の静寂を切り裂く。彼女が困ったように、でも愛らしそうに俯いた。
「やめてください、そんな昔の話……。今はもう、忘れてしまいましたから」
 彼女のその言葉が、俺の喉に苦い熱いものをこみ上げさせた。「忘れた」と言いながら、彼女の伏せられた睫毛が微かに震えている。
 男の話が事実なら、彼女は俺と自然消滅した直後、あるいは時期を重ねるようにして、今の夫と出会っていたことになる。あるいは、俺が連絡を絶ってフェードアウトしていく間、彼女はこの男にどんな顔をして抱かれていたのか。
 不意に、テーブルの下で何かが俺の膝に触れた。
 彼女の足だった。
 彼女は、顔色一つ変えずに夫の話に相槌を打ちながら、テーブルの下で、着物の裾から覗く足先を俺の膝に押し当て、執拗になぞり始めた。
 俺は全身が強張った。呼吸をすることさえ忘れるほどの緊張が走る。
 目の前では、俺の妻が「パパも高校の頃は結構モテたのよ」なんて、愚かにも彼女の夫に笑いかけている。その清廉で無垢な光景のすぐ裏側で、俺の肌をじりじりと焼くような彼女の体温。
「パパ、顔色が悪いわよ? お酒、強すぎたかしら」
 妻の心配そうな声に、俺は無理やり喉を鳴らした。
「……いや、少し、部屋が暑いだけだ。大丈夫だよ」
 その瞬間、彼女が初めて俺を正面から見た。
 その瞳に宿っていたのは、哀しみでも未練でも、ましてや誘惑でもなかった。俺を自分の支配下に引き戻し、少しずつ、丁寧に壊していくことを愉しんでいるような、冷酷な歓喜。
「お酒、お注ぎしますね。……これ、すごく美味しいですよ?」
 彼女は俺にしか聞こえないほどの囁き声で言いながら、徳利を差し出してきた。その際、わざとらしく俺の指先に触れた彼女の手は、驚くほど冷たかった。まるで、あの日俺が無視し続けた、彼女の心の欠片のように。
 俺たちが終わらせたつもりでいた、名前のない季節。
 それは今、雪解け水のように冷たく、そして激しく、俺が築き上げた今の幸せを、根底から押し流そうとしていた。
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