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第4話:降り止まない雨の密室
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第4話:降り止まない雨の密室
その日は、朝から重く垂れ込めた雲が街を覆っていた。
予報通りの雨。金沢特有の、地を這うような冷たい雨だ。追い打ちをかけるように、朝食の席で「妻」が真っ青な顔をして倒れ込んだ。慣れない土地での疲れが、一気に噴き出したのだろう。
「……ごめん、パパ。今日の娘のお迎え、お願いしてもいい?」
震える声で懇願する妻をベッドへ運び、俺は胃のあたりが縮み上がるような不安を抱えながら会社へ向かった。
夕方。定時を待たずに早退し、俺は娘の通う幼稚園の駐車場に車を停めた。
ワイパーが忙しなく雨を弾く音だけが、車内に響く。園の入り口には、色とりどりの傘を差した母親たちが集まっていた。俺はその中に「彼女」の姿を探さないように、必死でハンドルを握る手に力を込めた。
だが、現実は残酷だった。
娘の手を引いて正門から出てきた俺の前に、透き通ったビニール傘を差した彼女が、まるで待ち構えていたかのようなタイミングで現れたのだ。
「あら、パパさん。今日は奥様、いらっしゃらないの?」
彼女は、いつもの完璧なママ友の微笑を浮かべていた。だが、その瞳は雨に濡れたアスファルトのように暗く、俺の動揺を見透かしている。
「妻が少し、体調を崩しまして。……今日は失礼します」
逃げるように車へ向かおうとした俺の背中に、彼女の静かな声が突き刺さった。
「雨、すごいですね。……私、今日、車を修理に出していて。バスで帰ろうと思ってたんですけど、この雨じゃ子供が可哀想で」
その言葉に、俺は立ち止まってしまった。
ここで断れば、後で妻にどんな報告が行くか分からない。「冷たい旦那さんね」と一言言われるだけで、妻は傷つくだろう。彼女は、俺が「良き夫」であろうとすればするほど、断れない選択肢を突きつけてくる。
「……送りますよ。乗ってください」
観念して後部座席のドアを開ける。だが、彼女は娘をチャイルドシートの隣に座らせると、当然のような顔をして助手席に乗り込んできた。
車内という狭い密室に、彼女の髪から漂う湿った香水の匂いが充満する。高校時代、放課後の図書室で嗅いだ、あの少し青臭い花の香り。
「すみません、助かっちゃった。……ねえ、パパさん。この車、新しいのね。奥様が言ってたわ、あなたのこだわりなんですって」
彼女は車内をゆっくりと見渡しながら、ダッシュボードに置かれた家族写真に指を這わせた。その細い指先が、写真の中の妻の顔を隠すように止まる。
「……何か?」
「いいえ。ただ、あなたが『選んだ』ものは、いつも綺麗だなと思って」
車を走らせると、雨足はさらに強まった。
信号待ちで停車するたび、沈黙が重くのしかかる。後部座席では、娘が彼女の息子と無邪気にお喋りをしている。子供たちの笑い声が、かえってフロントシートの緊張感を際立たせた。
「あのさ」
不意に、彼女が声を潜めた。
「……何だ」
「どうして、聞かないの? あの時、私が最後に送ったメールの内容」
ハンドルを握る俺の指が、白くなるほど強張った。
自然消滅。俺たちはそう呼んでいるが、正確には違う。俺が連絡を絶って一ヶ月が過ぎた頃、彼女から最後の一通が届いたのだ。俺はその通知を見た瞬間に、携帯の電源を切った。読めば、自分が積み上げてきた都会での新しい生活が崩れる気がして、そのまま機種変更をして逃げた。
「……もう、終わったことだ」
「終わってないわ。私は、あのメールの返信を待つために、この街に留まったんだもの」
彼女の声から、ママ友の仮面が剥がれ落ちる。
バックミラーに映る彼女の目は、剥き出しの刃のように鋭かった。
「『妊娠したかもしれない』。……そう送ったのよ、私は」
脳内が真っ白になった。
心臓が嫌な音を立てて跳ね、視界がぐらりと揺れる。
「……嘘だろ」
「嘘かどうか、確かめるチャンスをあなたは捨てた。逃げたのよ、私からも、自分が行ったことからも。……ねえ、後ろに座っている私の息子、よく見てみて。誰に似てる?」
信号が青に変わった。だが、俺はアクセルを踏むことができなかった。
後ろを振り返る勇気など、今の俺にはない。
雨音だけが激しく屋根を叩き、密室の温度を奪っていく。
「自然消滅なんて、便利な言葉で片付けさせない。あなたが無視した十数年分、じっくり時間をかけて、思い出させてあげる」
彼女は再び、優雅なママ友の微笑を作った。
「あ、次の角を右です。主人が、家で待っていますから」
俺の家庭を、仕事関係を、そして過去を。
彼女はすべてを掌の上に乗せて、ゆっくりと握りつぶそうとしていた。
雨は、まだ降り止む気配を見せなかった。
その日は、朝から重く垂れ込めた雲が街を覆っていた。
予報通りの雨。金沢特有の、地を這うような冷たい雨だ。追い打ちをかけるように、朝食の席で「妻」が真っ青な顔をして倒れ込んだ。慣れない土地での疲れが、一気に噴き出したのだろう。
「……ごめん、パパ。今日の娘のお迎え、お願いしてもいい?」
震える声で懇願する妻をベッドへ運び、俺は胃のあたりが縮み上がるような不安を抱えながら会社へ向かった。
夕方。定時を待たずに早退し、俺は娘の通う幼稚園の駐車場に車を停めた。
ワイパーが忙しなく雨を弾く音だけが、車内に響く。園の入り口には、色とりどりの傘を差した母親たちが集まっていた。俺はその中に「彼女」の姿を探さないように、必死でハンドルを握る手に力を込めた。
だが、現実は残酷だった。
娘の手を引いて正門から出てきた俺の前に、透き通ったビニール傘を差した彼女が、まるで待ち構えていたかのようなタイミングで現れたのだ。
「あら、パパさん。今日は奥様、いらっしゃらないの?」
彼女は、いつもの完璧なママ友の微笑を浮かべていた。だが、その瞳は雨に濡れたアスファルトのように暗く、俺の動揺を見透かしている。
「妻が少し、体調を崩しまして。……今日は失礼します」
逃げるように車へ向かおうとした俺の背中に、彼女の静かな声が突き刺さった。
「雨、すごいですね。……私、今日、車を修理に出していて。バスで帰ろうと思ってたんですけど、この雨じゃ子供が可哀想で」
その言葉に、俺は立ち止まってしまった。
ここで断れば、後で妻にどんな報告が行くか分からない。「冷たい旦那さんね」と一言言われるだけで、妻は傷つくだろう。彼女は、俺が「良き夫」であろうとすればするほど、断れない選択肢を突きつけてくる。
「……送りますよ。乗ってください」
観念して後部座席のドアを開ける。だが、彼女は娘をチャイルドシートの隣に座らせると、当然のような顔をして助手席に乗り込んできた。
車内という狭い密室に、彼女の髪から漂う湿った香水の匂いが充満する。高校時代、放課後の図書室で嗅いだ、あの少し青臭い花の香り。
「すみません、助かっちゃった。……ねえ、パパさん。この車、新しいのね。奥様が言ってたわ、あなたのこだわりなんですって」
彼女は車内をゆっくりと見渡しながら、ダッシュボードに置かれた家族写真に指を這わせた。その細い指先が、写真の中の妻の顔を隠すように止まる。
「……何か?」
「いいえ。ただ、あなたが『選んだ』ものは、いつも綺麗だなと思って」
車を走らせると、雨足はさらに強まった。
信号待ちで停車するたび、沈黙が重くのしかかる。後部座席では、娘が彼女の息子と無邪気にお喋りをしている。子供たちの笑い声が、かえってフロントシートの緊張感を際立たせた。
「あのさ」
不意に、彼女が声を潜めた。
「……何だ」
「どうして、聞かないの? あの時、私が最後に送ったメールの内容」
ハンドルを握る俺の指が、白くなるほど強張った。
自然消滅。俺たちはそう呼んでいるが、正確には違う。俺が連絡を絶って一ヶ月が過ぎた頃、彼女から最後の一通が届いたのだ。俺はその通知を見た瞬間に、携帯の電源を切った。読めば、自分が積み上げてきた都会での新しい生活が崩れる気がして、そのまま機種変更をして逃げた。
「……もう、終わったことだ」
「終わってないわ。私は、あのメールの返信を待つために、この街に留まったんだもの」
彼女の声から、ママ友の仮面が剥がれ落ちる。
バックミラーに映る彼女の目は、剥き出しの刃のように鋭かった。
「『妊娠したかもしれない』。……そう送ったのよ、私は」
脳内が真っ白になった。
心臓が嫌な音を立てて跳ね、視界がぐらりと揺れる。
「……嘘だろ」
「嘘かどうか、確かめるチャンスをあなたは捨てた。逃げたのよ、私からも、自分が行ったことからも。……ねえ、後ろに座っている私の息子、よく見てみて。誰に似てる?」
信号が青に変わった。だが、俺はアクセルを踏むことができなかった。
後ろを振り返る勇気など、今の俺にはない。
雨音だけが激しく屋根を叩き、密室の温度を奪っていく。
「自然消滅なんて、便利な言葉で片付けさせない。あなたが無視した十数年分、じっくり時間をかけて、思い出させてあげる」
彼女は再び、優雅なママ友の微笑を作った。
「あ、次の角を右です。主人が、家で待っていますから」
俺の家庭を、仕事関係を、そして過去を。
彼女はすべてを掌の上に乗せて、ゆっくりと握りつぶそうとしていた。
雨は、まだ降り止む気配を見せなかった。
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