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第5話:血の色の沈黙
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第5話:血の色の沈黙
彼女を自宅に送り届け、泥のように重い体を引きずって自分の家へ戻った後も、車内に残った彼女の香水の匂いが鼻を突いて離れなかった。エアコンの送風口から、湿り気を帯びたあの青臭い花の香りが、いつまでも追いかけてくる。
「……おかえり。遅かったのね、雨ひどかった?」
寝室から這い出してきた妻が、青白い顔で俺を迎える。その無垢な瞳、俺を微塵も疑わない優しさに触れるたび、俺の心臓は鋭利なナイフで削られるような痛みを覚えた。
『妊娠したかもしれない』
助手席で彼女が、まるでもともとそこにあった事実を読み上げるかのように吐き捨てた言葉が、鼓膜の裏で何度も、不快なノイズを伴って再生される。
そんなはずはない。あの時、俺たちは確かに若かったが、分別がなかったわけじゃない。いや、本当にそうだろうか。最後の方の俺は、都会での華やかな生活、新しい人間関係、そして輝かしい未来に浮き立ち、地元に残した彼女を「過去の遺物」あるいは「重荷」だとしか感じていなかった。適当な言葉でなだめ、連絡を絶つ機会を虎視眈々と伺っていた俺に、彼女が放った最後の一撃。それを俺は、読みもせずにゴミ箱へ捨てたのだ。自分の手さえ汚れなければ、無かったことにできると信じて。
「パパ? どうしたの、そんなに固まって。雨に濡れて風邪でも引いた?」
「……いや、なんでもない。ちょっと考え事をしてただけだよ。娘を風呂に入れてくる」
俺は娘を抱き上げ、逃げるように浴室へ向かった。
湯気の中で、娘の屈託のない笑い声が響く。この子の笑顔を守るためなら何でもする。そう誓ったはずなのに、俺の過去が、この子の存在そのものを、今の家庭の土台から根こそぎ揺るがそうとしている。シャワーの音にかき消されながら、俺は自分の浅はかさを呪うしかなかった。
翌日、俺は逃げ場のない職場でさらなる試練に直面した。
「ああ、――さん。ちょっといいかな。昨日ぶりだね」
声をかけてきたのは、昨夜の割烹料理店で向かい合った、彼女の夫だった。同じ会社の別支店にいるはずの彼が、なぜか俺のデスクの横に、完璧に仕立てられたスーツ姿で立っている。
「本日から一週間、こちらの支店と合同プロジェクトの打ち合わせで詰めることになったんだ。君のような優秀な人間と肩を並べて仕事ができるのは、光栄だよ」
男の笑顔は、相変わらず地元の成功者らしい自信に満ち溢れていた。
会議室での打ち合わせ中、彼は驚くほど有能で、俺の細かなミスをさりげなくフォローさえしてみせた。その完璧な「仕事仲間」としての振る舞いが、かえって俺を追い詰める。
もし、彼女の息子が俺の血を引いているのだとしたら。この男は、自分の息子ではない子供を、自分の跡継ぎとして疑いもせず育てていることになる。あるいは――すべてを知った上で、俺を観察しているのか。
「……ところで、――さん。一つ、聞いてもいいかな」
午後の休憩中、給湯室で男がコーヒーを片手に俺の横に並んだ。窓の外は、昨日から続く雨が、景色を灰色の絵具で塗りつぶしている。
「うちの妻が、あなたにずいぶん感謝していましたよ。昨日の雨の中、わざわざ車で送っていただいたそうで。助かったと言っていました」
「いえ、当然のことをしたまでです。同じ園の保護者ですから」
「彼女、少し変わっていてね。地元を出た人間のことはあまり好まないんだが、昨夜は珍しく、あなたの学生時代の話を少しだけしてくれたよ。……『昔の彼に、少し雰囲気が似ている』なんてね。面白い偶然もあるものだ」
背筋に氷を直接押し当てられたような衝撃が走り、持っていた紙コップが微かに震える。
男の目は笑っているが、その奥にある光は猛禽類のように冷徹だった。彼女はどこまで夫に話しているのか。俺を試しているのか、それとも夫婦で共謀して、俺をこの街の底に沈めようとしているのか。
「……そうですか。光栄ですね」
俺は震える手で、苦味ばかりが際立つブラックコーヒーを無理やり喉に流し込んだ。
その日の夜、スマートフォンのバイブレーションが、静まり返ったリビングに不気味に響いた。
画面に表示されたのは、登録のない番号。だが、送り主が誰かは、開く前から本能が察していた。
『明日、幼稚園の裏にある古い倉庫に来て。午後二時。一人で。来なかったら、奥様にあのメールを転送するわ。もう、逃がさない』
添付されていた画像を見て、俺は息を呑んだ。
それは、十数年前のあの日、俺が既読をつけずに放置し、機種変更と共に消し去ったはずのメールのスクリーンショットだった。
日付、時刻、そして『妊娠したかもしれない』という血のような赤い文字。
それは、俺がどれだけ都会で着飾り、名前を伏せ、新しい人生を築いたつもりでいても、決して消し去ることのできない「罪」の証拠そのものだった。
外では、今日も冷たい雨が降り続いている。
金沢の雨は、すべてを洗い流してはくれない。隠していた過去の汚れを、時間をかけてじわじわと浮かび上がらせ、逃げ道を塞いでいく。
俺は暗闇の中で、隣で眠る家族の無防備な寝息を聞きながら、明日という審判の日が来るのを、ただ震えて待つことしかできなかった。
彼女を自宅に送り届け、泥のように重い体を引きずって自分の家へ戻った後も、車内に残った彼女の香水の匂いが鼻を突いて離れなかった。エアコンの送風口から、湿り気を帯びたあの青臭い花の香りが、いつまでも追いかけてくる。
「……おかえり。遅かったのね、雨ひどかった?」
寝室から這い出してきた妻が、青白い顔で俺を迎える。その無垢な瞳、俺を微塵も疑わない優しさに触れるたび、俺の心臓は鋭利なナイフで削られるような痛みを覚えた。
『妊娠したかもしれない』
助手席で彼女が、まるでもともとそこにあった事実を読み上げるかのように吐き捨てた言葉が、鼓膜の裏で何度も、不快なノイズを伴って再生される。
そんなはずはない。あの時、俺たちは確かに若かったが、分別がなかったわけじゃない。いや、本当にそうだろうか。最後の方の俺は、都会での華やかな生活、新しい人間関係、そして輝かしい未来に浮き立ち、地元に残した彼女を「過去の遺物」あるいは「重荷」だとしか感じていなかった。適当な言葉でなだめ、連絡を絶つ機会を虎視眈々と伺っていた俺に、彼女が放った最後の一撃。それを俺は、読みもせずにゴミ箱へ捨てたのだ。自分の手さえ汚れなければ、無かったことにできると信じて。
「パパ? どうしたの、そんなに固まって。雨に濡れて風邪でも引いた?」
「……いや、なんでもない。ちょっと考え事をしてただけだよ。娘を風呂に入れてくる」
俺は娘を抱き上げ、逃げるように浴室へ向かった。
湯気の中で、娘の屈託のない笑い声が響く。この子の笑顔を守るためなら何でもする。そう誓ったはずなのに、俺の過去が、この子の存在そのものを、今の家庭の土台から根こそぎ揺るがそうとしている。シャワーの音にかき消されながら、俺は自分の浅はかさを呪うしかなかった。
翌日、俺は逃げ場のない職場でさらなる試練に直面した。
「ああ、――さん。ちょっといいかな。昨日ぶりだね」
声をかけてきたのは、昨夜の割烹料理店で向かい合った、彼女の夫だった。同じ会社の別支店にいるはずの彼が、なぜか俺のデスクの横に、完璧に仕立てられたスーツ姿で立っている。
「本日から一週間、こちらの支店と合同プロジェクトの打ち合わせで詰めることになったんだ。君のような優秀な人間と肩を並べて仕事ができるのは、光栄だよ」
男の笑顔は、相変わらず地元の成功者らしい自信に満ち溢れていた。
会議室での打ち合わせ中、彼は驚くほど有能で、俺の細かなミスをさりげなくフォローさえしてみせた。その完璧な「仕事仲間」としての振る舞いが、かえって俺を追い詰める。
もし、彼女の息子が俺の血を引いているのだとしたら。この男は、自分の息子ではない子供を、自分の跡継ぎとして疑いもせず育てていることになる。あるいは――すべてを知った上で、俺を観察しているのか。
「……ところで、――さん。一つ、聞いてもいいかな」
午後の休憩中、給湯室で男がコーヒーを片手に俺の横に並んだ。窓の外は、昨日から続く雨が、景色を灰色の絵具で塗りつぶしている。
「うちの妻が、あなたにずいぶん感謝していましたよ。昨日の雨の中、わざわざ車で送っていただいたそうで。助かったと言っていました」
「いえ、当然のことをしたまでです。同じ園の保護者ですから」
「彼女、少し変わっていてね。地元を出た人間のことはあまり好まないんだが、昨夜は珍しく、あなたの学生時代の話を少しだけしてくれたよ。……『昔の彼に、少し雰囲気が似ている』なんてね。面白い偶然もあるものだ」
背筋に氷を直接押し当てられたような衝撃が走り、持っていた紙コップが微かに震える。
男の目は笑っているが、その奥にある光は猛禽類のように冷徹だった。彼女はどこまで夫に話しているのか。俺を試しているのか、それとも夫婦で共謀して、俺をこの街の底に沈めようとしているのか。
「……そうですか。光栄ですね」
俺は震える手で、苦味ばかりが際立つブラックコーヒーを無理やり喉に流し込んだ。
その日の夜、スマートフォンのバイブレーションが、静まり返ったリビングに不気味に響いた。
画面に表示されたのは、登録のない番号。だが、送り主が誰かは、開く前から本能が察していた。
『明日、幼稚園の裏にある古い倉庫に来て。午後二時。一人で。来なかったら、奥様にあのメールを転送するわ。もう、逃がさない』
添付されていた画像を見て、俺は息を呑んだ。
それは、十数年前のあの日、俺が既読をつけずに放置し、機種変更と共に消し去ったはずのメールのスクリーンショットだった。
日付、時刻、そして『妊娠したかもしれない』という血のような赤い文字。
それは、俺がどれだけ都会で着飾り、名前を伏せ、新しい人生を築いたつもりでいても、決して消し去ることのできない「罪」の証拠そのものだった。
外では、今日も冷たい雨が降り続いている。
金沢の雨は、すべてを洗い流してはくれない。隠していた過去の汚れを、時間をかけてじわじわと浮かび上がらせ、逃げ道を塞いでいく。
俺は暗闇の中で、隣で眠る家族の無防備な寝息を聞きながら、明日という審判の日が来るのを、ただ震えて待つことしかできなかった。
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