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第6話:審判の場所
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第6話:審判の場所
幼稚園の裏手、鬱蒼とした木々に囲まれた場所に、その古いレンガ造りの倉庫はある。かつては園の備品置き場だったのだろうが、今は使われている気配もなく、ただ雨に打たれて黒ずんでいた。
午後二時。俺は会社の外回りを装い、泥に足を取られながらその重い扉を押し開けた。
キィ、と錆びついた音が静寂を切り裂く。
薄暗い内部には、埃とカビの匂いが充満していた。高い窓から差し込む僅かな光の中に、彼女は立っていた。紺色のレインコートを羽織り、こちらを振り返るその表情には、ママ友としての柔和な微笑みなど欠片も残っていない。
「……来たわね。逃げ出すかと思ったけれど」
彼女の声は、雨音に混じって低く響いた。
「メールの件……本当なのか。あの息子は、俺の……」
俺の声は情けないほど震えていた。彼女はゆっくりと歩み寄り、俺の目の前で足を止めた。至近距離で見つめ合うと、彼女の瞳の奥に、かつての自分を置き去りにされた女の、剥き出しの執念が渦巻いているのが分かった。
「本当だったら、どうするの? 今の幸せな家庭を捨てて、私と一緒に地獄へ落ちてくれる?」
「……そんなこと、できるわけないだろう。俺には今の生活があるんだ。妻も、娘も……」
「そうよね。あなたはいつもそう。自分の足元が危なくなると、一番綺麗な言い訳を探して逃げる」
彼女は冷笑を浮かべ、ポケットから古ぼけたスマートフォンを取り出した。画面には、あの忌まわしいメールの履歴が映し出されている。
「あの日、私はこの場所であなたを待っていた。……妊娠したかもって送った後、一度だけでも声が聞きたくて。でも、あなたは来なかった。電話も繋がらなくなった。……自然消滅? 笑わせないで。あなたは私の存在そのものを、指先一つで消去したのよ」
彼女の言葉が、杭のように俺の胸に打ち込まれる。俺は何も言い返せなかった。都会での華やかな未来を夢見ていた当時の俺にとって、彼女からの「重い告白」は、邪魔な足枷でしかなかったのだ。
「……金か。金が欲しいのか」
最低な言葉だと自覚しながらも、俺は口にしていた。今の生活を守るためなら、いくらでも払うつもりだった。だが、彼女は弾かれたように笑い出した。その笑い声は次第に狂気を帯び、誰もいない倉庫内に反響する。
「お金? そんなもので私の十数年が買えると思っているの? ……私が欲しいのはね、あなたが一番大切にしているものを、私と同じように壊すことよ」
彼女は一歩、また一歩と距離を詰め、俺のネクタイに手をかけた。その指先は驚くほど強く、逃げることを許さない。
「あなたの奥様、本当に素敵ね。何も知らずに私を信じ切って、昨夜も電話で相談してきたわ。『主人が最近、心ここにあらずで心配なの』って。……ねえ、今ここで彼女に電話してあげようか? あなたが昔、どんなに卑怯な方法で私を捨てたか」
「やめてくれ……!」
俺は彼女の手を振り払おうとしたが、彼女はそれを逆手に取り、俺の腕を強く掴んだ。
「決めて。私の息子を『自分の子供』として認知して、一生私の影に怯えて暮らすか。……それとも、今すぐ奥様にすべてを話して、その手で今の家庭を壊すか」
究極の選択。どちらを選んでも、俺の人生は元には戻らない。
その時、倉庫の外で車のエンジン音が聞こえた。
彼女が不敵な笑みを浮かべる。
「あ、主人が迎えに来たみたい。……ねえ、彼にも挨拶していく? 『君の息子は、実は僕の子供なんだ』って」
心臓が止まるかと思った。彼女の夫――あの有能で自信に満ちた男が、この場所に向かっている。
俺は冷や汗でシャツが張り付くのを感じながら、薄暗い倉庫の出口を見つめた。
雨音はさらに激しさを増し、俺の思考をかき乱す。
「……時間はあげないわ。今、ここで答えなさい」
彼女の指が、スマートフォンの通話ボタンにかけられる。
俺たちが終わらせたはずの、名前のない季節。その代償を払う刻限が、ついに来てしまったのだ。
幼稚園の裏手、鬱蒼とした木々に囲まれた場所に、その古いレンガ造りの倉庫はある。かつては園の備品置き場だったのだろうが、今は使われている気配もなく、ただ雨に打たれて黒ずんでいた。
午後二時。俺は会社の外回りを装い、泥に足を取られながらその重い扉を押し開けた。
キィ、と錆びついた音が静寂を切り裂く。
薄暗い内部には、埃とカビの匂いが充満していた。高い窓から差し込む僅かな光の中に、彼女は立っていた。紺色のレインコートを羽織り、こちらを振り返るその表情には、ママ友としての柔和な微笑みなど欠片も残っていない。
「……来たわね。逃げ出すかと思ったけれど」
彼女の声は、雨音に混じって低く響いた。
「メールの件……本当なのか。あの息子は、俺の……」
俺の声は情けないほど震えていた。彼女はゆっくりと歩み寄り、俺の目の前で足を止めた。至近距離で見つめ合うと、彼女の瞳の奥に、かつての自分を置き去りにされた女の、剥き出しの執念が渦巻いているのが分かった。
「本当だったら、どうするの? 今の幸せな家庭を捨てて、私と一緒に地獄へ落ちてくれる?」
「……そんなこと、できるわけないだろう。俺には今の生活があるんだ。妻も、娘も……」
「そうよね。あなたはいつもそう。自分の足元が危なくなると、一番綺麗な言い訳を探して逃げる」
彼女は冷笑を浮かべ、ポケットから古ぼけたスマートフォンを取り出した。画面には、あの忌まわしいメールの履歴が映し出されている。
「あの日、私はこの場所であなたを待っていた。……妊娠したかもって送った後、一度だけでも声が聞きたくて。でも、あなたは来なかった。電話も繋がらなくなった。……自然消滅? 笑わせないで。あなたは私の存在そのものを、指先一つで消去したのよ」
彼女の言葉が、杭のように俺の胸に打ち込まれる。俺は何も言い返せなかった。都会での華やかな未来を夢見ていた当時の俺にとって、彼女からの「重い告白」は、邪魔な足枷でしかなかったのだ。
「……金か。金が欲しいのか」
最低な言葉だと自覚しながらも、俺は口にしていた。今の生活を守るためなら、いくらでも払うつもりだった。だが、彼女は弾かれたように笑い出した。その笑い声は次第に狂気を帯び、誰もいない倉庫内に反響する。
「お金? そんなもので私の十数年が買えると思っているの? ……私が欲しいのはね、あなたが一番大切にしているものを、私と同じように壊すことよ」
彼女は一歩、また一歩と距離を詰め、俺のネクタイに手をかけた。その指先は驚くほど強く、逃げることを許さない。
「あなたの奥様、本当に素敵ね。何も知らずに私を信じ切って、昨夜も電話で相談してきたわ。『主人が最近、心ここにあらずで心配なの』って。……ねえ、今ここで彼女に電話してあげようか? あなたが昔、どんなに卑怯な方法で私を捨てたか」
「やめてくれ……!」
俺は彼女の手を振り払おうとしたが、彼女はそれを逆手に取り、俺の腕を強く掴んだ。
「決めて。私の息子を『自分の子供』として認知して、一生私の影に怯えて暮らすか。……それとも、今すぐ奥様にすべてを話して、その手で今の家庭を壊すか」
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その時、倉庫の外で車のエンジン音が聞こえた。
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「……時間はあげないわ。今、ここで答えなさい」
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