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第7話:侵食の代償
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第7話:侵食の代償
倉庫の扉の向こうで、アイドリングの音が雨音に混じって低く響いている。
俺の心臓は、壊れた時計のように不規則なリズムを刻んでいた。目の前には、勝ち誇ったような笑みを浮かべる彼女。そして扉の向こうには、何も知らないはずの彼女の夫。
「……待ってくれ。分かった、君の言う通りにする。だから、今は」
俺の声は、情けないほどに掠れていた。彼女は満足そうに目を細めると、ゆっくりと俺のネクタイを整え直した。その手つきは、まるで行ってらっしゃいと夫を送り出す妻のように慈しみに満ちていて、それが何よりも恐ろしかった。
「いい子ね。……じゃあ、外では『偶然会ったママ友』に戻りましょうか」
彼女が重い扉を押し開ける。
灰色の空から降り注ぐ雨の中に、見覚えのある黒いセダンが停まっていた。運転席から、彼女の夫が傘を差して降りてくる。
「おや、――さん。こんなところで奇遇ですね」
男の声は、雨の中でも驚くほど明瞭に響いた。俺の喉は、鉛を流し込まれたように固まって動かない。
「ええ。たまたま道で会ったから、雨宿りをさせてもらっていたの。パパさん、急いでいたみたいだけど」
彼女は何事もなかったかのように、男の傘の中へ滑り込んだ。男は俺を一瞥し、それから自分の妻の肩を抱き寄せた。その親密な仕草が、今の俺には「お前のものは、すでに俺たちが握っている」という無言の誇示に見えて仕方がなかった。
「……失礼します」
俺は逃げるように自分の車に乗り込み、アクセルを踏んだ。バックミラーの中で、寄り添う二人の影が雨に霞んで消えていく。彼らは共犯者なのか、それとも彼女が夫すらも欺いているのか。今の俺には、どちらも同じ地獄に思えた。
自宅に戻ると、家の中は妙に静まり返っていた。
寝込んでいたはずの妻が、リビングのソファに深く腰掛けていた。部屋の明かりは点いておらず、テレビの砂嵐のような薄暗い光だけが彼女の横顔を照らしている。
「……おかえり。遅かったのね」
妻の声には、いつもの温もりがなかった。
「ああ。少し仕事が長引いて。体調は、もういいのか?」
「ええ。彼女がね、お見舞いに来てくれたの。あなたが娘を迎えに行っている間に」
心臓が凍りついた。彼女は、俺と倉庫で会う直前に、この家に来ていたのか。
妻の手元には、小さな紙袋が置かれていた。
「これ、彼女が『パパさんも懐かしがると思って』って置いていったんだけど」
妻が袋の中から取り出したのは、一冊の古いアルバムだった。俺の胸の奥で、嫌な汗が吹き出す。それは、俺が実家に置いてきたはずの、高校時代の写真集だった。なぜ彼女がそれを持っているのか。
「……懐かしいわね。あなた、地元ではこんなに楽しそうに笑っていたのね」
妻がページをめくる。そこには、俺と彼女が隣り合って笑う姿こそないものの、俺の後ろに、あるいは集合写真の端に、必ず彼女の姿が写り込んでいた。
「ねえ、パパ。この人、彼女よね? ――さんだよね?」
妻の指が、写真の中の若き日の彼女をなぞる。
「……ああ。同じ学校だったからな。でも、それだけだ。話したこともほとんどない」
口から出たのは、あまりに稚拙な嘘だった。
「ふうん。……でも不思議ね。この写真、彼女が持っていたんですって。あなたが忘れていったから、ずっと預かっていたのよって」
妻の視線が、ゆっくりと俺を射抜いた。その瞳には、今まで見たこともないような深い不信が溜まっていた。
「忘れていった? ……俺が?」
「そう。あなたの部屋で。……あなたの、実家の部屋でね」
その瞬間、俺は理解した。彼女は単に過去をバラしに来たのではない。
俺の両親、実家、そして今の妻。彼女は俺が気づかないうちに、俺の人生のあらゆる「根」に毒を回していたのだ。
「彼女、こうも言っていたわ。『自然消滅なんて、残酷なことはしたくないわよね』って。……どういう意味? パパ」
妻の手が、アルバムの表紙を強く握りしめる。
暗いリビングに、俺の荒い呼吸だけが響く。外では、雨が止む気配もなく、すべてを泥濘へと変えていく。
俺が守ろうとしていた砂の城が、足元から崩れ始めていた。
倉庫の扉の向こうで、アイドリングの音が雨音に混じって低く響いている。
俺の心臓は、壊れた時計のように不規則なリズムを刻んでいた。目の前には、勝ち誇ったような笑みを浮かべる彼女。そして扉の向こうには、何も知らないはずの彼女の夫。
「……待ってくれ。分かった、君の言う通りにする。だから、今は」
俺の声は、情けないほどに掠れていた。彼女は満足そうに目を細めると、ゆっくりと俺のネクタイを整え直した。その手つきは、まるで行ってらっしゃいと夫を送り出す妻のように慈しみに満ちていて、それが何よりも恐ろしかった。
「いい子ね。……じゃあ、外では『偶然会ったママ友』に戻りましょうか」
彼女が重い扉を押し開ける。
灰色の空から降り注ぐ雨の中に、見覚えのある黒いセダンが停まっていた。運転席から、彼女の夫が傘を差して降りてくる。
「おや、――さん。こんなところで奇遇ですね」
男の声は、雨の中でも驚くほど明瞭に響いた。俺の喉は、鉛を流し込まれたように固まって動かない。
「ええ。たまたま道で会ったから、雨宿りをさせてもらっていたの。パパさん、急いでいたみたいだけど」
彼女は何事もなかったかのように、男の傘の中へ滑り込んだ。男は俺を一瞥し、それから自分の妻の肩を抱き寄せた。その親密な仕草が、今の俺には「お前のものは、すでに俺たちが握っている」という無言の誇示に見えて仕方がなかった。
「……失礼します」
俺は逃げるように自分の車に乗り込み、アクセルを踏んだ。バックミラーの中で、寄り添う二人の影が雨に霞んで消えていく。彼らは共犯者なのか、それとも彼女が夫すらも欺いているのか。今の俺には、どちらも同じ地獄に思えた。
自宅に戻ると、家の中は妙に静まり返っていた。
寝込んでいたはずの妻が、リビングのソファに深く腰掛けていた。部屋の明かりは点いておらず、テレビの砂嵐のような薄暗い光だけが彼女の横顔を照らしている。
「……おかえり。遅かったのね」
妻の声には、いつもの温もりがなかった。
「ああ。少し仕事が長引いて。体調は、もういいのか?」
「ええ。彼女がね、お見舞いに来てくれたの。あなたが娘を迎えに行っている間に」
心臓が凍りついた。彼女は、俺と倉庫で会う直前に、この家に来ていたのか。
妻の手元には、小さな紙袋が置かれていた。
「これ、彼女が『パパさんも懐かしがると思って』って置いていったんだけど」
妻が袋の中から取り出したのは、一冊の古いアルバムだった。俺の胸の奥で、嫌な汗が吹き出す。それは、俺が実家に置いてきたはずの、高校時代の写真集だった。なぜ彼女がそれを持っているのか。
「……懐かしいわね。あなた、地元ではこんなに楽しそうに笑っていたのね」
妻がページをめくる。そこには、俺と彼女が隣り合って笑う姿こそないものの、俺の後ろに、あるいは集合写真の端に、必ず彼女の姿が写り込んでいた。
「ねえ、パパ。この人、彼女よね? ――さんだよね?」
妻の指が、写真の中の若き日の彼女をなぞる。
「……ああ。同じ学校だったからな。でも、それだけだ。話したこともほとんどない」
口から出たのは、あまりに稚拙な嘘だった。
「ふうん。……でも不思議ね。この写真、彼女が持っていたんですって。あなたが忘れていったから、ずっと預かっていたのよって」
妻の視線が、ゆっくりと俺を射抜いた。その瞳には、今まで見たこともないような深い不信が溜まっていた。
「忘れていった? ……俺が?」
「そう。あなたの部屋で。……あなたの、実家の部屋でね」
その瞬間、俺は理解した。彼女は単に過去をバラしに来たのではない。
俺の両親、実家、そして今の妻。彼女は俺が気づかないうちに、俺の人生のあらゆる「根」に毒を回していたのだ。
「彼女、こうも言っていたわ。『自然消滅なんて、残酷なことはしたくないわよね』って。……どういう意味? パパ」
妻の手が、アルバムの表紙を強く握りしめる。
暗いリビングに、俺の荒い呼吸だけが響く。外では、雨が止む気配もなく、すべてを泥濘へと変えていく。
俺が守ろうとしていた砂の城が、足元から崩れ始めていた。
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