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最終話:自然消滅の果て
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最終話:自然消滅の果て
激流が牙を剥き、岸辺を削り取っていく。
増水した犀川の濁った水音は、すべてを拒絶する断末魔のようだった。
ヘッドライトの白い光の中で、ユキは息子を抱きしめたまま、危うい足取りで川の縁に立っていた。
「ユキ! お願いだ、戻ってくれ!」
俺の叫びは、風にかき消される。彼女の夫が、俺を突き飛ばすようにして前に出た。
「お前の出る幕じゃない! ユキ、僕だ、僕を見てくれ。その子は僕の息子だ。誰が何を言おうと、僕たちが育ててきた子じゃないか!」
男の必死な訴えに、ユキの体が微かに揺れた。
彼女はゆっくりと、俺と、そして自分の夫を交互に見つめた。その瞳には、かつて俺が愛した光はなく、ただ底知れない虚無だけが沈んでいる。
「……ねえ、知ってる? この子が初めて喋った言葉は、『パパ』だったわ。でも、それを聞いた時、私は心の底から絶望したの。――どっちのパパに向かって、この子は笑っているんだろうって」
彼女の指が、怯えて泣きじゃくる息子の頬をなぞる。
「私はね、あなたを許さないために生きてきたの。ダイスケ、あなたが新しい幸せを築くたびに、私の呪いが深まるように。……でも、疲れたわ。もう、誰の顔も、自分の顔さえも、鏡で見たくないの」
ユキが、ふっと力を抜いた。
その瞬間、彼女の体が闇に吸い込まれるように傾く。
「やめろ――!」
俺と、彼女の夫が同時に地を蹴った。
ぬかるんだ土手に足を取られながら、俺の手が届くよりも早く、彼女の夫がユキの腕を掴んだ。だが、その勢いで三人の体は崩れるように濁流へと投げ出された。
凄まじい水音。
俺が手を伸ばした先にあったのは、激流に飲み込まれる直前、放り出された小さな子供の体だった。俺は必死に手を伸ばし、あの子の服を掴んで土手へと引きずり上げた。
だが。
ユキと、彼女を離さなかった夫の姿は、一瞬にして黒い水底へと消えていった。
「ユキ! ……ユキ!!」
俺の咆哮だけが、雨上がりの夜空に虚しく響いた。
助け出された息子が、俺の腕の中で「パパ、パパ……」と泣き叫んでいる。それが俺を呼んでいるのか、濁流に消えたあの男を呼んでいるのか、俺には分からなかった。
それから、三年が経った。
俺は今、金沢を離れ、海沿いの小さな街で一人で暮らしている。
あの夜の出来事は、痛ましい事故として処理された。妻とは、あの日を境に二度と修復することはできなかった。彼女は娘を連れて東京の実家に戻り、俺たちの離婚は静かに、それこそ「自然消滅」するように成立した。
ユキの息子は、彼女の親戚に引き取られたと聞いている。
俺は毎月、匿名で多額の養育費を送り続けているが、あの子に会いに行く権利も、父親だと名乗る資格も俺にはない。俺にできるのは、あの子が俺に似ていないことを、ただ祈り続けることだけだ。
職を失い、家族を失い、俺の手元には何も残らなかった。
いや、たった一つだけ、消えないものがある。
たまに、街の喫茶店でカフェオレを頼むことがある。
運ばれてきたカップに砂糖を落とすと、琥珀色の粒が音もなく溶けていく。その光景を見るたびに、俺の耳元で、彼女の声が蘇る。
『形があったものが、跡形もなく混ざり合って、なかったことになるなんて。本当は、消えたわけじゃなくて、そこにあるのにね』
俺たちは、終わらせることを恐れて、ただ放置し続けた。
そのツケは、想像もしなかった形で俺たちの人生を食いつぶし、誰も幸せにしない結末を用意していた。
ふと、窓の外を見る。
遠くで、若いカップルが楽しそうに笑いながら歩いている。彼らもいつか、言葉にできない「沈黙」を抱えるのだろうか。
俺は冷めきったカップを見つめ、最後の一口を飲み干した。
甘すぎるはずのその味は、どこまでも苦く、喉の奥にこびりついて離れなかった。
(完)
激流が牙を剥き、岸辺を削り取っていく。
増水した犀川の濁った水音は、すべてを拒絶する断末魔のようだった。
ヘッドライトの白い光の中で、ユキは息子を抱きしめたまま、危うい足取りで川の縁に立っていた。
「ユキ! お願いだ、戻ってくれ!」
俺の叫びは、風にかき消される。彼女の夫が、俺を突き飛ばすようにして前に出た。
「お前の出る幕じゃない! ユキ、僕だ、僕を見てくれ。その子は僕の息子だ。誰が何を言おうと、僕たちが育ててきた子じゃないか!」
男の必死な訴えに、ユキの体が微かに揺れた。
彼女はゆっくりと、俺と、そして自分の夫を交互に見つめた。その瞳には、かつて俺が愛した光はなく、ただ底知れない虚無だけが沈んでいる。
「……ねえ、知ってる? この子が初めて喋った言葉は、『パパ』だったわ。でも、それを聞いた時、私は心の底から絶望したの。――どっちのパパに向かって、この子は笑っているんだろうって」
彼女の指が、怯えて泣きじゃくる息子の頬をなぞる。
「私はね、あなたを許さないために生きてきたの。ダイスケ、あなたが新しい幸せを築くたびに、私の呪いが深まるように。……でも、疲れたわ。もう、誰の顔も、自分の顔さえも、鏡で見たくないの」
ユキが、ふっと力を抜いた。
その瞬間、彼女の体が闇に吸い込まれるように傾く。
「やめろ――!」
俺と、彼女の夫が同時に地を蹴った。
ぬかるんだ土手に足を取られながら、俺の手が届くよりも早く、彼女の夫がユキの腕を掴んだ。だが、その勢いで三人の体は崩れるように濁流へと投げ出された。
凄まじい水音。
俺が手を伸ばした先にあったのは、激流に飲み込まれる直前、放り出された小さな子供の体だった。俺は必死に手を伸ばし、あの子の服を掴んで土手へと引きずり上げた。
だが。
ユキと、彼女を離さなかった夫の姿は、一瞬にして黒い水底へと消えていった。
「ユキ! ……ユキ!!」
俺の咆哮だけが、雨上がりの夜空に虚しく響いた。
助け出された息子が、俺の腕の中で「パパ、パパ……」と泣き叫んでいる。それが俺を呼んでいるのか、濁流に消えたあの男を呼んでいるのか、俺には分からなかった。
それから、三年が経った。
俺は今、金沢を離れ、海沿いの小さな街で一人で暮らしている。
あの夜の出来事は、痛ましい事故として処理された。妻とは、あの日を境に二度と修復することはできなかった。彼女は娘を連れて東京の実家に戻り、俺たちの離婚は静かに、それこそ「自然消滅」するように成立した。
ユキの息子は、彼女の親戚に引き取られたと聞いている。
俺は毎月、匿名で多額の養育費を送り続けているが、あの子に会いに行く権利も、父親だと名乗る資格も俺にはない。俺にできるのは、あの子が俺に似ていないことを、ただ祈り続けることだけだ。
職を失い、家族を失い、俺の手元には何も残らなかった。
いや、たった一つだけ、消えないものがある。
たまに、街の喫茶店でカフェオレを頼むことがある。
運ばれてきたカップに砂糖を落とすと、琥珀色の粒が音もなく溶けていく。その光景を見るたびに、俺の耳元で、彼女の声が蘇る。
『形があったものが、跡形もなく混ざり合って、なかったことになるなんて。本当は、消えたわけじゃなくて、そこにあるのにね』
俺たちは、終わらせることを恐れて、ただ放置し続けた。
そのツケは、想像もしなかった形で俺たちの人生を食いつぶし、誰も幸せにしない結末を用意していた。
ふと、窓の外を見る。
遠くで、若いカップルが楽しそうに笑いながら歩いている。彼らもいつか、言葉にできない「沈黙」を抱えるのだろうか。
俺は冷めきったカップを見つめ、最後の一口を飲み干した。
甘すぎるはずのその味は、どこまでも苦く、喉の奥にこびりついて離れなかった。
(完)
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