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第9話:名前のない告白
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第9話:名前のない告白
バラバラに引き裂かれたアルバムの破片が、足元のフローリングで白く浮いている。
かつての自分の笑顔を踏みつけなければ、妻の前に進むことさえできなかった。部屋の空気は密度を増し、呼吸をするたびに肺が焼けるように痛む。
「……パパ、答えて。お願いだから」
妻の声が、暗いリビングに震えながら落ちた。
俺はゆっくりと膝をつき、床に散らばった写真の欠片を一枚、拾い上げた。そこには、俺を信じてこの街についてきた妻が、まだ何も知らずに微笑んでいた「昨日まで」の残像があった。
「……本当だ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、汚濁に満ちていた。
「……え?」
「彼女が言っていることは、すべて本当だ。俺は十数年前、彼女との間に子供ができたかもしれないと知りながら……怖くなって、すべてを捨てて逃げた。君と出会ったときも、結婚したときも、俺はその過去を無かったことにして、自分だけが幸せになろうとしていたんだ」
言い終えた瞬間、妻が視界から消えた。
泣き崩れたのではない。彼女は力なくソファに倒れ込み、まるで魂を抜かれた抜け殻のように、空虚な目で天井を見つめていた。その絶望の深さが、俺の胸を鋭利なナイフで抉る。
「……じゃあ、今までの時間は何だったの? 私たちが築いてきた家庭は、あなたの嘘の上に作られた、ただの砂の城だったの?」
「……すまない。本当に、すまない……」
「謝らないで! 謝られたら、私が今まで信じてきたあなたの優しさまで、全部嘘になっちゃうじゃない!」
妻の叫びが、閉ざされた家の中に響き渡る。その音に怯えたのか、奥の部屋で寝ていた娘が「ママ……?」と弱々しく声を上げた。
俺は反射的に立ち上がろうとしたが、自分の汚れきった足では、あの子の純粋な世界に触れてはいけないと、本能がブレーキをかけた。
その時、静寂を切り裂くように、俺のスマートフォンが激しく震えた。
画面に表示されたのは、彼女――ユキの名前ではない。彼女の夫からだった。
『今すぐ、市境の河川敷にある「あの場所」へ来い。妻が、君の息子を連れて消えた』
血の気が一気に引いた。
あの場所。高校時代、俺と彼女が最後の日々を過ごし、そして俺が彼女を捨てた、あの河川敷。
俺は呆然と立ち尽くす妻をその場に残し、一言もかけられぬまま、夜の闇へと飛び出した。
雨は止んでいたが、濡れたアスファルトが街灯を乱反射させ、視界を歪ませる。
車を走らせながら、俺の脳裏には彼女の夫が放った言葉がリフレインしていた。『私の息子は、私に似ていない』。あの子が俺の血を引いているという確信。そして、それを奪われた男の、静かな狂気。
河川敷に到着すると、そこには一台の黒いセダンが停まっていた。
ヘッドライトが照らす先、増水した川の縁に、二人の影が立っている。
彼女が、怯える息子を強く抱きしめ、激流を見つめていた。その隣で、彼女の夫が拳を握り締め、何事かを叫んでいる。
「ユキ! やめるんだ! そんなことをしても、何も変わらない!」
「いいえ、変わるわ! この子が死ねば、あの人の過去は永遠に『未完成』のまま残るのよ! 私と同じように、一生癒えない傷として!」
彼女の声は、夜の風に乗って金切り声のように響いた。
俺は車を飛び出し、ぬかるんだ土手を駆け下りた。
「ユキ! やめろ! 俺が悪かった! 全部俺のせいだ、だからその子を放してくれ!」
俺の声に、彼女がゆっくりと振り返った。
ライトに照らされたその顔は、この世のものとは思えないほど美しく、そして完全に壊れていた。
「……やっと来たのね、ダイスケ。ねえ、見て。この子の目。あなたの、大嫌いな、逃げ出す時の目とそっくりでしょう?」
彼女は笑っていた。
俺が十数年前に捨てた「責任」という名の爆弾を、今まさに、俺の目の前で爆発させようとしている。
彼女の夫が俺に気づき、憎しみに満ちた目で睨みつける。
「お前のせいだ。お前がすべてを壊したんだ!」
濁流の音がすべてをかき消していく。
俺は一歩、また一歩と彼女に近づこうとした。だが、彼女が息子を連れて川の方へ踏み出すたびに、俺の心臓は止まりそうになる。
名前のない季節の終焉。
俺が選ぶべき「代償」は、もう決まっていた。
バラバラに引き裂かれたアルバムの破片が、足元のフローリングで白く浮いている。
かつての自分の笑顔を踏みつけなければ、妻の前に進むことさえできなかった。部屋の空気は密度を増し、呼吸をするたびに肺が焼けるように痛む。
「……パパ、答えて。お願いだから」
妻の声が、暗いリビングに震えながら落ちた。
俺はゆっくりと膝をつき、床に散らばった写真の欠片を一枚、拾い上げた。そこには、俺を信じてこの街についてきた妻が、まだ何も知らずに微笑んでいた「昨日まで」の残像があった。
「……本当だ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、汚濁に満ちていた。
「……え?」
「彼女が言っていることは、すべて本当だ。俺は十数年前、彼女との間に子供ができたかもしれないと知りながら……怖くなって、すべてを捨てて逃げた。君と出会ったときも、結婚したときも、俺はその過去を無かったことにして、自分だけが幸せになろうとしていたんだ」
言い終えた瞬間、妻が視界から消えた。
泣き崩れたのではない。彼女は力なくソファに倒れ込み、まるで魂を抜かれた抜け殻のように、空虚な目で天井を見つめていた。その絶望の深さが、俺の胸を鋭利なナイフで抉る。
「……じゃあ、今までの時間は何だったの? 私たちが築いてきた家庭は、あなたの嘘の上に作られた、ただの砂の城だったの?」
「……すまない。本当に、すまない……」
「謝らないで! 謝られたら、私が今まで信じてきたあなたの優しさまで、全部嘘になっちゃうじゃない!」
妻の叫びが、閉ざされた家の中に響き渡る。その音に怯えたのか、奥の部屋で寝ていた娘が「ママ……?」と弱々しく声を上げた。
俺は反射的に立ち上がろうとしたが、自分の汚れきった足では、あの子の純粋な世界に触れてはいけないと、本能がブレーキをかけた。
その時、静寂を切り裂くように、俺のスマートフォンが激しく震えた。
画面に表示されたのは、彼女――ユキの名前ではない。彼女の夫からだった。
『今すぐ、市境の河川敷にある「あの場所」へ来い。妻が、君の息子を連れて消えた』
血の気が一気に引いた。
あの場所。高校時代、俺と彼女が最後の日々を過ごし、そして俺が彼女を捨てた、あの河川敷。
俺は呆然と立ち尽くす妻をその場に残し、一言もかけられぬまま、夜の闇へと飛び出した。
雨は止んでいたが、濡れたアスファルトが街灯を乱反射させ、視界を歪ませる。
車を走らせながら、俺の脳裏には彼女の夫が放った言葉がリフレインしていた。『私の息子は、私に似ていない』。あの子が俺の血を引いているという確信。そして、それを奪われた男の、静かな狂気。
河川敷に到着すると、そこには一台の黒いセダンが停まっていた。
ヘッドライトが照らす先、増水した川の縁に、二人の影が立っている。
彼女が、怯える息子を強く抱きしめ、激流を見つめていた。その隣で、彼女の夫が拳を握り締め、何事かを叫んでいる。
「ユキ! やめるんだ! そんなことをしても、何も変わらない!」
「いいえ、変わるわ! この子が死ねば、あの人の過去は永遠に『未完成』のまま残るのよ! 私と同じように、一生癒えない傷として!」
彼女の声は、夜の風に乗って金切り声のように響いた。
俺は車を飛び出し、ぬかるんだ土手を駆け下りた。
「ユキ! やめろ! 俺が悪かった! 全部俺のせいだ、だからその子を放してくれ!」
俺の声に、彼女がゆっくりと振り返った。
ライトに照らされたその顔は、この世のものとは思えないほど美しく、そして完全に壊れていた。
「……やっと来たのね、ダイスケ。ねえ、見て。この子の目。あなたの、大嫌いな、逃げ出す時の目とそっくりでしょう?」
彼女は笑っていた。
俺が十数年前に捨てた「責任」という名の爆弾を、今まさに、俺の目の前で爆発させようとしている。
彼女の夫が俺に気づき、憎しみに満ちた目で睨みつける。
「お前のせいだ。お前がすべてを壊したんだ!」
濁流の音がすべてをかき消していく。
俺は一歩、また一歩と彼女に近づこうとした。だが、彼女が息子を連れて川の方へ踏み出すたびに、俺の心臓は止まりそうになる。
名前のない季節の終焉。
俺が選ぶべき「代償」は、もう決まっていた。
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