「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」

まさき

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第四十話 セイル、ひとり【セイル視点】

第四十話 セイル、ひとり【セイル視点】
 
 王都に戻る前の夜、セイルは一人で町を歩いた。
 
 宿に戻っても眠れないことは分かっていた。今日の話が、まだ頭の中で動いていた。静かにしていると、考えが止まらなくなる。だから歩くことにした。
 
 夜の町は静かだった。石畳の通りに人影はなく、家々の窓から灯りが漏れている。どこかで犬が一声鳴いて、また静かになった。
 
 歩きながら、今日のことを整理した。
 
 ソフィアが言った言葉を、一つずつ。
 
 あの五年間は、私のせいではなかった。
 
 その言葉を聞いたとき、セイルの胸に来たものは、予想と違った。責められると思っていた。当然の言葉だと受け取るつもりだった。だが実際に聞いたとき、来たのは痛みではなかった。
 
 安堵、に近いものだった。
 
——なぜ安堵するのか。
 
 歩きながら、その問いを考えた。
 
 ソフィアが自分のせいだと思い続けていたとしたら、それはソフィアにとって不当なことだった。不当なものを抱えたまま、五年間いたことになる。それが今日、少し解けた。
 
 ソフィアが正しく怒れるようになったことが、安堵だった。
 
 自分への怒りを、ソフィアが持てるようになったことが。
 
 それは、ソフィアが自分を取り戻していることの証だと、セイルには思えた。
 
 
 広場のそばを通った。
 
 夜の広場は、昼とは全く違う顔をしていた。水飲み場の石が、月明かりを白く照らしていた。薔薇の株が、暗がりの中にある。昼間は緑が見えるが、今は輪郭だけだった。
 
 セイルは立ち止まって、その株を見た。
 
 ソフィアも、ここに来るのだろうか。昼間に、この薔薇の様子を見に来るのだろうか。あの老人と話しながら、何かを思うのだろうか。
 
 知らないことが、まだたくさんあった。
 
 この一ヶ月で、少しずつ話を聞いた。薔薇庭園のことも、泣かないと誓った夜のことも。だが、ソフィアがここでどんな日々を過ごしているか、まだほとんど知らない。
 
 知りたいと思った。
 
 それが今の、自分の中で一番確かな感情だった。愛しているとか、取り戻したいとか、そういう大きな言葉より前に——ただ、知りたい。この人のことを、もっと知りたい。
 
 五年間、知ろうとしなかった分を、これから少しずつ。
 
 
 宿へ向かいながら、セイルは空を見上げた。
 
 月が出ていた。丸くはないが、明るい月だった。この月を、ソフィアも今夜見ているだろうか。
 
——また、同じことを考えている。
 
 セイルは小さく息を吐いた。心配する資格はまだない、と昨夜思った。今夜もまた、同じことを考えている。
 
 変わらないものと、変わったものがある。
 
 変わらないのは、こうして一人で夜を歩いていることだ。王都でも、書斎で一人夜を過ごしていた。ひとりでいることが、長い間当たり前だった。
 
 変わったのは、ひとりでいることを、以前より重く感じるようになったことだ。
 
 重い、というのは悪い意味ではない。ひとりの重さが分かるということは、隣に誰かがいることの意味が分かってきたということだ。
 
 五年間、隣に誰かがいたのに、その重さを知らなかった。
 
 
 宿に戻って、上着を脱いだ。
 
 明日、王都へ発つ。仕事がある。やるべきことがある。また来るまでの時間を、きちんと過ごさなければならない。
 
 セイルは机の上に、小さな紙を一枚出した。
 
 何かを書こうとして、止まった。
 
 言葉が、出てこなかった。
 
 ソフィアに残していく言葉を考えていた。手紙でもなく、置き手紙でもなく、ただ、何か一言。だが、適切な言葉が見つからなかった。
 
 また来る、と言えばいい。だが、それはもう言った。
 
 待っていてくれ、とは言えない。待たせる権利が、まだ自分にあるとは思えない。
 
——ならば。
 
 セイルはしばらく紙を見ていた。それから、ゆっくりと一行だけ書いた。
 
 薔薇が咲いたら、知らせてほしい。
 
 読み返した。短すぎるかもしれない。伝わるかどうか分からない。だが、これが今の自分の本当のことだった。
 
 王都の屋敷の薔薇庭園が咲いたとき、ソフィアに見てほしい。あなたが作った庭が、今年も咲いたということを、あなたに知らせたい。そういう気持ちが、この一行に込められていた。
 
 うまく伝わらなくてもいい。
 
 本当のことだから、書いた。
 
 紙を折って、明日マリアに渡すことにした。
 
 蝋燭を消した。
 
 暗い部屋の中で、セイルは静かに目を閉じた。
 
 今夜は、眠れる気がした。
 
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