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第四十一話 王都への道【セイル視点】
第四十一話 王都への道【セイル視点】
朝、発つ前にマリアを呼んだ。
エミリアの家の扉をマリアが開けた。昨日と同じ顔だった。静かで、測るような目。だがこの一ヶ月で、その目の中に少しだけ別のものが混じり始めていると、セイルには感じられた。
「これを」
昨夜書いた紙を、マリアに渡した。
マリアは受け取って、一度だけ目を落とした。内容を読んだかどうかは分からない。だが、受け取ったことは確かだった。
「ソフィアに」
「はい」
それだけだった。
マリアが扉を閉める前に、一度だけ振り返った。
「旦那様」
「何だ」
マリアは少し間を置いた。それから、静かに言った。
「ソフィア様は、王都にいた頃より、よく笑われます」
セイルは何も言わなかった。
「それだけです」
扉が閉まった。
セイルはしばらく、閉まった扉の前に立っていた。
——よく笑う。
初めてこの町に来た夜、扉越しに聞こえた笑い声を思い出した。あの声が、今のソフィアの声だった。屋敷では一度も聞いたことのなかった声。
マリアが言いたかったのは、それだけではないと分かった。
ソフィアはここで、自分の声を取り戻した。それを壊さないようにしてほしい、という意味が、あの短い言葉に込められていた。五年間ソフィアのそばにいた侍女の、静かな釘刺しだった。
受け取った、とセイルは思った。
馬を走らせながら、街道を王都へ向かった。
今回の旅は、前回とは少し違った。来るときより帰るときが重かった前回と違い、今回は——来るときも帰るときも、同じ重さがあった。
それが何を意味するのか、少し考えた。
来るときに重さがある、というのは、向かう先に大切なものがあるということだ。帰るときに重さがある、というのは、置いてきたものがあるということだ。
どちらも、一ヶ月前にはなかった感覚だった。
一ヶ月前、初めてこの町に向かったとき、セイルを動かしていたのは焦りに近いものだった。このままではいけない、という追い立てられる感覚。だが今は違う。焦りではなく、向かいたいから向かう。帰らなければならないから帰るが、置いてきたものの重さを持って帰る。
それが、前進だと思った。
宿場町で馬を休ませながら、セイルは簡単な食事を取った。
向かいの席に、旅の商人が座った。四十代ほどの、人のよさそうな男だった。目が合って、軽く頷いた。
「王都へ向かわれますか」
「ああ」
「あちらからいらしたので。この辺りの方ではないかと思いまして」
セイルは短く答えた。普段なら、これ以上話が続くことはなかった。だが、男はもう一言続けた。
「あの町は、いいところですな。小さいけれど、温かい。うちの妻の出身でして、年に一度通るんですよ」
「そうか」
「ああいう町に家族がいると、帰り道が全然違いますな。来るときより帰るときの方が、足が重くて」
男は笑いながら言った。冗談めかした口調だったが、本当のことが滲んでいた。
セイルは黙って聞いていた。
——来るときより帰るときの方が、足が重い。
今の自分とは逆だ、とセイルは思った。自分は来るときも帰るときも、同じ重さだった。
だがいつか、帰るときの方が重くなる日が来るかもしれない。それはつまり、あの町に、自分にとって大切なものが確かに根付いたということだ。
まだ、その段階ではない。
でも、向かっている方向は、その先にあると思った。
王都が近づいてきた頃、セイルは馬の速度を少し落とした。
急ぐ理由はなかった。仕事はある。やるべきことはある。だが、今日中に着ければいい。
街道の脇に、野の花が咲いていた。
白と黄色の、小さな花だった。先日この町でソフィアに渡したものと、同じ種類だった。
馬を止めた。
少しの間、その花を見た。
渡したとき、言葉が上手く出なかった。今日は遅くなった、町の外れで咲いていたから、それだけしか言えなかった。でも、ソフィアは受け取ってくれた。
花瓶に挿して、窓に飾ってくれた。
それだけのことが、今でも胸に残っていた。
セイルは馬を進めた。花は摘まなかった。今日は一人の旅だ。渡す相手がいない。
——次に来るときは。
何を持っていくか、少しだけ考えた。野の花でもいい。別のものでもいい。大事なのは、何を持っていくかではなく、ちゃんと手で渡すことだと、今は思っていた。
言葉と一緒に。
王都の門が見えてきた。夕暮れの光が、石造りの門を橙色に染めていた。
セイルは門へ向かって、まっすぐ馬を走らせた。
帰るべき場所があって、向かうべき場所がある。
それで今は、十分だった。
朝、発つ前にマリアを呼んだ。
エミリアの家の扉をマリアが開けた。昨日と同じ顔だった。静かで、測るような目。だがこの一ヶ月で、その目の中に少しだけ別のものが混じり始めていると、セイルには感じられた。
「これを」
昨夜書いた紙を、マリアに渡した。
マリアは受け取って、一度だけ目を落とした。内容を読んだかどうかは分からない。だが、受け取ったことは確かだった。
「ソフィアに」
「はい」
それだけだった。
マリアが扉を閉める前に、一度だけ振り返った。
「旦那様」
「何だ」
マリアは少し間を置いた。それから、静かに言った。
「ソフィア様は、王都にいた頃より、よく笑われます」
セイルは何も言わなかった。
「それだけです」
扉が閉まった。
セイルはしばらく、閉まった扉の前に立っていた。
——よく笑う。
初めてこの町に来た夜、扉越しに聞こえた笑い声を思い出した。あの声が、今のソフィアの声だった。屋敷では一度も聞いたことのなかった声。
マリアが言いたかったのは、それだけではないと分かった。
ソフィアはここで、自分の声を取り戻した。それを壊さないようにしてほしい、という意味が、あの短い言葉に込められていた。五年間ソフィアのそばにいた侍女の、静かな釘刺しだった。
受け取った、とセイルは思った。
馬を走らせながら、街道を王都へ向かった。
今回の旅は、前回とは少し違った。来るときより帰るときが重かった前回と違い、今回は——来るときも帰るときも、同じ重さがあった。
それが何を意味するのか、少し考えた。
来るときに重さがある、というのは、向かう先に大切なものがあるということだ。帰るときに重さがある、というのは、置いてきたものがあるということだ。
どちらも、一ヶ月前にはなかった感覚だった。
一ヶ月前、初めてこの町に向かったとき、セイルを動かしていたのは焦りに近いものだった。このままではいけない、という追い立てられる感覚。だが今は違う。焦りではなく、向かいたいから向かう。帰らなければならないから帰るが、置いてきたものの重さを持って帰る。
それが、前進だと思った。
宿場町で馬を休ませながら、セイルは簡単な食事を取った。
向かいの席に、旅の商人が座った。四十代ほどの、人のよさそうな男だった。目が合って、軽く頷いた。
「王都へ向かわれますか」
「ああ」
「あちらからいらしたので。この辺りの方ではないかと思いまして」
セイルは短く答えた。普段なら、これ以上話が続くことはなかった。だが、男はもう一言続けた。
「あの町は、いいところですな。小さいけれど、温かい。うちの妻の出身でして、年に一度通るんですよ」
「そうか」
「ああいう町に家族がいると、帰り道が全然違いますな。来るときより帰るときの方が、足が重くて」
男は笑いながら言った。冗談めかした口調だったが、本当のことが滲んでいた。
セイルは黙って聞いていた。
——来るときより帰るときの方が、足が重い。
今の自分とは逆だ、とセイルは思った。自分は来るときも帰るときも、同じ重さだった。
だがいつか、帰るときの方が重くなる日が来るかもしれない。それはつまり、あの町に、自分にとって大切なものが確かに根付いたということだ。
まだ、その段階ではない。
でも、向かっている方向は、その先にあると思った。
王都が近づいてきた頃、セイルは馬の速度を少し落とした。
急ぐ理由はなかった。仕事はある。やるべきことはある。だが、今日中に着ければいい。
街道の脇に、野の花が咲いていた。
白と黄色の、小さな花だった。先日この町でソフィアに渡したものと、同じ種類だった。
馬を止めた。
少しの間、その花を見た。
渡したとき、言葉が上手く出なかった。今日は遅くなった、町の外れで咲いていたから、それだけしか言えなかった。でも、ソフィアは受け取ってくれた。
花瓶に挿して、窓に飾ってくれた。
それだけのことが、今でも胸に残っていた。
セイルは馬を進めた。花は摘まなかった。今日は一人の旅だ。渡す相手がいない。
——次に来るときは。
何を持っていくか、少しだけ考えた。野の花でもいい。別のものでもいい。大事なのは、何を持っていくかではなく、ちゃんと手で渡すことだと、今は思っていた。
言葉と一緒に。
王都の門が見えてきた。夕暮れの光が、石造りの門を橙色に染めていた。
セイルは門へ向かって、まっすぐ馬を走らせた。
帰るべき場所があって、向かうべき場所がある。
それで今は、十分だった。
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