「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」

まさき

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第四十三話 変わった男【ソフィア視点】

第四十三話 変わった男【ソフィア視点】
 
 セイルが来てから二日目の朝だった。
 
 今回の訪問は、前回より少し長かった。一日で帰るつもりだったのか、二日になったのか、ソフィアには分からなかった。ただ、昨日の夕方に「明日も来ていいか」と聞かれて、ソフィアは頷いた。
 
 断る理由がなかった。それだけではなく、来てほしいと思っていた。そのことに、もう驚かなくなっていた。
 
 朝食の後、エミリアがこっそりソフィアに言った。
 
「昨日、セイル様と少し話した」
 
「え?」
 
「ソフィアがいない間に。薬草店に顔を出してきたから」
 
 ソフィアは少し驚いた。セイルが薬草店に。
 
「何の話を?」
 
「最初は薬草の話。ラベンダーとカモミールの違いを聞いてきた」
 
 ソフィアは思わず少し笑った。手紙に書いたことを、直接確かめに行ったらしかった。
 
「それから?」
 
 エミリアが少し間を置いた。
 
「ソフィアのことを、聞いてきた」
 
「私のことを?」
 
「ここでどんな顔をしているか、って。嬉しそうにしているときはどんなときか、って」
 
 ソフィアは黙った。
 
「私、正直に答えたよ。薬草を覚えたときと、老人と話しているときと、手紙を書いているときだって」
 
「……エミリア」
 
「だって本当のことだもん」
 
 エミリアが悪びれずに言った。ソフィアは少し顔が熱くなったが、怒る気にはなれなかった。
 
——手紙を書いているとき。
 
 エミリアはそれを、セイルへの手紙だと分かって言っている。セイルも、分かって聞いている。
 
 
 その日の昼前、セイルが来た。
 
 今日は食卓ではなく、エミリアの家の小さな庭に出た。エミリアが薬草を育てている場所で、日当たりがよく、風が穏やかだった。椅子を二つ出して、並んで座った。
 
 しばらく、他愛のない話をした。
 
 王都の話。陛下の様子。屋敷の使用人たちのこと。これまでの訪問ではほとんど出なかった話題だった。深刻な話ではなく、ただの日常の話だった。
 
 セイルは相変わらず口数が少なかった。だが、以前と違うのは、聞くことが上手くなっていた。ソフィアが何かを言うと、そこから次の問いが来た。興味を持って聞いている、ということが伝わってきた。
 
「エミリアの薬草店に行ったそうですね」
 
 ソフィアが言うと、セイルが少し間を置いた。
 
「……聞いたか」
 
「ええ。ラベンダーとカモミールの違いを確かめに行ったと」
 
「それだけではなかったが」
 
「知っています」
 
 セイルは少し目を伏せた。照れているのか、困っているのか、今のソフィアには少し分かってきていた。この人は、感情が顔に出ないのではなく、出し方を知らないのだと。
 
「嬉しそうにしているとき、知りたかったのですか」
 
「……ああ」
 
「なぜ?」
 
 セイルは少し考えた。
 
「俺がいないときのあなたを、知りたかった。俺の前でのあなたではなく」
 
 ソフィアは、その答えを受け取った。
 
 俺がいないときのあなた。五年間、屋敷でのソフィアしか見ていなかった男が、そういうことを言う。
 
「変わりましたね」
 
「そうか」
 
「ええ。王都にいた頃のあなたは、そういうことを聞かなかった。聞こうとしなかった」
 
「……分かっている」
 
「責めているわけではありません。ただ、変わったと思って」
 
 セイルは少し黙った。それから、珍しく自分から続けた。
 
「あなたがいなくなってから、初めて気づいたことがたくさんあった。屋敷の中に、あなたの痕跡がどこにでもあって……俺がいかに見ていなかったかを、毎日突きつけられた」
 
「屋敷の中に?」
 
「調度品の並べ方。廊下の花。食卓の器の選び方。全部、あなたが整えたものだった。なのに、あなたがいる間は一度も気づかなかった」
 
 ソフィアは少し目を細めた。
 
「気づいてほしかったわけでは、なかったけれど」
 
「それが問題だ」
 
 セイルが、少し低い声で言った。
 
「気づいてほしいとも思わないほど、あなたは諦めていた。それが、俺のしたことの結果だった」
 
 ソフィアは答えなかった。
 
 否定はできなかった。本当のことだから。でも、今日はそれを責める気持ちより、別の何かの方が大きかった。
 
 この人は、ちゃんと分かっている。
 
 分かった上で、こうして言葉にしている。それが、変わったということだと思った。
 
「一つ、聞いてもいいですか」
 
「どうぞ」
 
「屋敷に戻ったとき、何が一番辛かったですか」
 
 セイルは少し驚いた顔をした。こういう問いを、ソフィアがするとは思っていなかったのかもしれない。
 
 少し考えてから、答えた。
 
「……ソフィアの部屋の前を、通るたびに」
 
「部屋の前?」
 
「扉が閉まっている。中には誰もいない。それが分かっていても、通るたびに足が止まった」
 
 ソフィアは、その言葉をゆっくりと受け取った。
 
 五年間、その扉を開けに来なかった人が、今は通るたびに足が止まると言っている。
 
——遅い、とは思う。
 
 思う。でも、遅くても、変わったことは本当だった。
 
 庭の薬草が、昼の風に揺れていた。ラベンダーの香りが、ほんのりと漂った。
 
「セイル様」
 
「何だ」
 
 ソフィアは少し間を置いた。
 
「あなたのことを、少しずつ知りたいと思っています」
 
 セイルが、ソフィアを見た。
 
「五年間、知れなかった分を。これから、少しずつ」
 
 セイルは黙っていた。長い沈黙だった。
 
 それから、静かに言った。
 
「……俺も」
 
 二文字だった。でも、その二文字に、たくさんのものが詰まっていた。
 
 ソフィアは頷いた。
 
 庭のラベンダーが、また風に揺れた。穏やかな、春の午後だった。
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