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第一章 三年目の朝
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第一章 三年目の朝
目が覚めたとき、隣はもう空だった。
シーツに残るかすかな体温だけが、誠がここにいた証拠だった。私はしばらくそれに触れていたけれど、すぐに手を引いた。温もりに縋る癖をつけたら、きっともっと苦しくなる。
起き上がって、カーテンを開ける。三月の朝日が部屋に差し込んで、整然としたリビングを照らした。二人暮らしにしては広すぎるこのマンションを、誠が選んだのは結婚した年のことだ。「将来、子供ができたときのために」と笑っていた顔を、今でも覚えている。
あの頃の誠は、よく笑っていた。
キッチンに立って、コーヒーを二人分淹れる。それだけは、まだやめられなかった。誠の分のマグカップを出して、豆を挽いて、ドリップする。この三年間、一度も欠かしたことのない朝の儀式。たとえ昨夜も言葉を交わさなかったとしても。
七時十五分。玄関の鍵が開く音がした。
「……ただいま」
誠はスーツのまま帰ってきた。昨日も帰っていなかったんだ、と私は静かに思った。驚きはない。最近はそういう夜が増えていた。
「おかえり。コーヒー、できてるよ」
自分でも不思議なくらい、声は穏やかだった。誠はネクタイを緩めながらリビングに入ってきて、テーブルのマグカップを見て、少し表情を歪めた。罪悪感なのか、それとも別の何かなのか、私にはもう判断できなかった。
「……悪い。シャワー浴びてくる」
それだけ言って、彼は洗面所へ消えた。
私はソファに座って、自分のコーヒーを口に運んだ。温かかった。それだけが、今朝ちゃんとしていることだった。
誠と結婚して、三年が経つ。
付き合い始めたのは大学二年のときだ。同じゼミで、最初は地味な印象しかなかった。でも締め切り前夜に二人で図書館に残って、終電を逃して、コンビニのホットスナックを分け合って笑った夜から、何かが変わった。卒業後もそれぞれ別の会社に就職して、遠距離になりそうだったところを「じゃあ、一緒に住もう」と言い出したのは誠の方だった。
あの頃の誠なら、朝帰りなんてしなかった。
シャワーの音が止まって、しばらくして誠が出てきた。着替えを済ませて、テーブルのコーヒーを手に取る。一口飲んで、何も言わない。私も何も聞かない。
この沈黙が、いつから当たり前になったんだろう。
「今日も遅くなる」
誠が言った。視線はスマートフォンに向いたままだった。
「わかった」
私は答えた。それ以上でも、それ以下でもなく。
誠が出ていったあと、私はもう一度、空になった彼のマグカップを見た。口紅の跡もない、シミひとつない白いカップ。三年前に二人で選んだペアのやつだ。
泣こうと思えば、泣けた。でも涙は出なかった。
たぶん、もうずいぶん前に泣き終わっていたから。
目が覚めたとき、隣はもう空だった。
シーツに残るかすかな体温だけが、誠がここにいた証拠だった。私はしばらくそれに触れていたけれど、すぐに手を引いた。温もりに縋る癖をつけたら、きっともっと苦しくなる。
起き上がって、カーテンを開ける。三月の朝日が部屋に差し込んで、整然としたリビングを照らした。二人暮らしにしては広すぎるこのマンションを、誠が選んだのは結婚した年のことだ。「将来、子供ができたときのために」と笑っていた顔を、今でも覚えている。
あの頃の誠は、よく笑っていた。
キッチンに立って、コーヒーを二人分淹れる。それだけは、まだやめられなかった。誠の分のマグカップを出して、豆を挽いて、ドリップする。この三年間、一度も欠かしたことのない朝の儀式。たとえ昨夜も言葉を交わさなかったとしても。
七時十五分。玄関の鍵が開く音がした。
「……ただいま」
誠はスーツのまま帰ってきた。昨日も帰っていなかったんだ、と私は静かに思った。驚きはない。最近はそういう夜が増えていた。
「おかえり。コーヒー、できてるよ」
自分でも不思議なくらい、声は穏やかだった。誠はネクタイを緩めながらリビングに入ってきて、テーブルのマグカップを見て、少し表情を歪めた。罪悪感なのか、それとも別の何かなのか、私にはもう判断できなかった。
「……悪い。シャワー浴びてくる」
それだけ言って、彼は洗面所へ消えた。
私はソファに座って、自分のコーヒーを口に運んだ。温かかった。それだけが、今朝ちゃんとしていることだった。
誠と結婚して、三年が経つ。
付き合い始めたのは大学二年のときだ。同じゼミで、最初は地味な印象しかなかった。でも締め切り前夜に二人で図書館に残って、終電を逃して、コンビニのホットスナックを分け合って笑った夜から、何かが変わった。卒業後もそれぞれ別の会社に就職して、遠距離になりそうだったところを「じゃあ、一緒に住もう」と言い出したのは誠の方だった。
あの頃の誠なら、朝帰りなんてしなかった。
シャワーの音が止まって、しばらくして誠が出てきた。着替えを済ませて、テーブルのコーヒーを手に取る。一口飲んで、何も言わない。私も何も聞かない。
この沈黙が、いつから当たり前になったんだろう。
「今日も遅くなる」
誠が言った。視線はスマートフォンに向いたままだった。
「わかった」
私は答えた。それ以上でも、それ以下でもなく。
誠が出ていったあと、私はもう一度、空になった彼のマグカップを見た。口紅の跡もない、シミひとつない白いカップ。三年前に二人で選んだペアのやつだ。
泣こうと思えば、泣けた。でも涙は出なかった。
たぶん、もうずいぶん前に泣き終わっていたから。
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