三年分の涙を飲み込んで離婚を決めた私に、今さら愛してると言わないでください

まさき

文字の大きさ
1 / 12

第一章 三年目の朝

しおりを挟む
第一章 三年目の朝
 
目が覚めたとき、隣はもう空だった。
 
シーツに残るかすかな体温だけが、誠がここにいた証拠だった。私はしばらくそれに触れていたけれど、すぐに手を引いた。温もりに縋る癖をつけたら、きっともっと苦しくなる。
 
起き上がって、カーテンを開ける。三月の朝日が部屋に差し込んで、整然としたリビングを照らした。二人暮らしにしては広すぎるこのマンションを、誠が選んだのは結婚した年のことだ。「将来、子供ができたときのために」と笑っていた顔を、今でも覚えている。
 
あの頃の誠は、よく笑っていた。
 
キッチンに立って、コーヒーを二人分淹れる。それだけは、まだやめられなかった。誠の分のマグカップを出して、豆を挽いて、ドリップする。この三年間、一度も欠かしたことのない朝の儀式。たとえ昨夜も言葉を交わさなかったとしても。
 
七時十五分。玄関の鍵が開く音がした。
 
「……ただいま」
 
誠はスーツのまま帰ってきた。昨日も帰っていなかったんだ、と私は静かに思った。驚きはない。最近はそういう夜が増えていた。
 
「おかえり。コーヒー、できてるよ」
 
自分でも不思議なくらい、声は穏やかだった。誠はネクタイを緩めながらリビングに入ってきて、テーブルのマグカップを見て、少し表情を歪めた。罪悪感なのか、それとも別の何かなのか、私にはもう判断できなかった。
 
「……悪い。シャワー浴びてくる」
 
それだけ言って、彼は洗面所へ消えた。
 
私はソファに座って、自分のコーヒーを口に運んだ。温かかった。それだけが、今朝ちゃんとしていることだった。
 
誠と結婚して、三年が経つ。
 
付き合い始めたのは大学二年のときだ。同じゼミで、最初は地味な印象しかなかった。でも締め切り前夜に二人で図書館に残って、終電を逃して、コンビニのホットスナックを分け合って笑った夜から、何かが変わった。卒業後もそれぞれ別の会社に就職して、遠距離になりそうだったところを「じゃあ、一緒に住もう」と言い出したのは誠の方だった。
 
あの頃の誠なら、朝帰りなんてしなかった。
 
シャワーの音が止まって、しばらくして誠が出てきた。着替えを済ませて、テーブルのコーヒーを手に取る。一口飲んで、何も言わない。私も何も聞かない。
 
この沈黙が、いつから当たり前になったんだろう。
 
「今日も遅くなる」
 
誠が言った。視線はスマートフォンに向いたままだった。
 
「わかった」
 
私は答えた。それ以上でも、それ以下でもなく。
 
誠が出ていったあと、私はもう一度、空になった彼のマグカップを見た。口紅の跡もない、シミひとつない白いカップ。三年前に二人で選んだペアのやつだ。
 
泣こうと思えば、泣けた。でも涙は出なかった。
 
たぶん、もうずいぶん前に泣き終わっていたから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

あなたが後悔しても、私の愛はもう戻りません

藤原遊
恋愛
婚約者のアルベルトは、優しい人だった。 ただ――いつも、私より優先する存在がいただけで。 「君は分かってくれると思っていた」 その一言で、リーシェは気づいてしまう。 私は、最初から選ばれていなかったのだと。 これは、奪われた恋を取り戻す物語ではない。 後悔する彼と、もう戻らないと決めた私、 そして“私を選ぶ人”に出会うまでの、静かな恋の終わりと始まりの物語。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

愛のかたち

凛子
恋愛
プライドが邪魔をして素直になれない夫(白藤翔)。しかし夫の気持ちはちゃんと妻(彩華)に伝わっていた。そんな夫婦に訪れた突然の別れ。 ある人物の粋な計らいによって再会を果たした二人は…… 情けない男の不器用な愛。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

王太子殿下との思い出は、泡雪のように消えていく

木風
恋愛
王太子殿下の生誕を祝う夜会。 侯爵令嬢にとって、それは一生に一度の夢。 震える手で差し出された御手を取り、ほんの数分だけ踊った奇跡。 二度目に誘われたとき、心は淡い期待に揺れる。 けれど、その瞳は一度も自分を映さなかった。 殿下の視線の先にいるのは誰よりも美しい、公爵令嬢。 「ご一緒いただき感謝します。この後も楽しんで」 優しくも残酷なその言葉に、胸の奥で夢が泡雪のように消えていくのを感じた。 ※本作は「小説家になろう」「アルファポリス」「エブリスタ」にて同時掲載しております。 表紙イラストは、雪乃さんに描いていただきました。 ※イラストは描き下ろし作品です。無断転載・無断使用・AI学習等は一切禁止しております。 ©︎泡雪 / 木風 雪乃

処理中です...