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第十章 冷めたコーヒー
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第十章 冷めたコーヒー
十一月になった。
誠との会話が、日に日に減っていた。おはよう、ただいま、おかえり。それだけが一日に交わす言葉の全てになりつつあった。食卓に並んで座っても、テレビを見ながら、それぞれが自分の時間を過ごした。
沈黙が苦しくなくなったのは、いつからだろう。
その朝も、誠は早く起きていた。私がキッチンに立つと、誠はすでにスーツを着て、鞄を手に持っていた。
「早いね」
「朝イチで会議がある」
「コーヒー、淹れようか」
「いい。時間ないから」
それだけ言って、誠は出ていった。
私はしばらくキッチンに立ったまま、動けなかった。コーヒーメーカーに豆をセットしかけた手が、宙に浮いたままになっていた。
結局、一人分だけ淹れた。
マグカップをふたつ出す癖は、まだ抜けていなかった。誠の分のカップをテーブルに置いて、それを眺めながらコーヒーを飲んだ。誠のカップは空のまま、冷えていった。
会社に行くと、同僚の田中さんが声をかけてきた。
「橘さん、最近顔色悪くない? ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ。ちょっと疲れてるだけ」
「無理しないでよ。残業も最近多いし」
「大丈夫」
笑って答えた。田中さんは少し心配そうな顔をしたけれど、それ以上は踏み込んでこなかった。
仕事をしながら、ふと誠のことを考えた。
最後に二人で笑ったのはいつだろう。最後に手を繋いだのはいつだろう。最後に、誠が私の名前を呼んだのはいつだろう。
思い出せなかった。
昼休みにスマートフォンを開くと、麗奈からメッセージが来ていた。
「今度のランチ、どうしますか?」
私はしばらく画面を見つめた。
返信しなかった。
初めてのことだった。いつもすぐに返していたのに。でもその日は、どうしても指が動かなかった。
夜、誠が帰ってきた。珍しく、九時前だった。
「今日は早いね」
「たまたま」
誠は鞄を置いて、ネクタイを緩めながらソファに座った。テレビをつけて、無言で画面を見ていた。私は夕食の準備を続けた。
「できたよ」
「うん」
食卓に向かい合って座って、二人で食べた。テレビの音だけが流れた。誠は料理に視線を落としたまま、黙って箸を動かした。
「おいしい?」
聞かなければよかったと思いながら、聞いた。
「ああ」
それだけだった。
食後、誠はすぐに風呂に入って、寝室に消えた。私は一人でテーブルを片付けて、食器を洗った。
朝のコーヒーカップが、まだシンクに残っていた。誠の分の、空のカップ。
洗いながら、私はふと思った。
このカップに、もうコーヒーを注ぐことはないかもしれない。
その考えが浮かんで、驚くほど静かだった。悲しくないわけじゃない。ただ、覚悟というものが、少しずつ形になり始めていた。
十一月になった。
誠との会話が、日に日に減っていた。おはよう、ただいま、おかえり。それだけが一日に交わす言葉の全てになりつつあった。食卓に並んで座っても、テレビを見ながら、それぞれが自分の時間を過ごした。
沈黙が苦しくなくなったのは、いつからだろう。
その朝も、誠は早く起きていた。私がキッチンに立つと、誠はすでにスーツを着て、鞄を手に持っていた。
「早いね」
「朝イチで会議がある」
「コーヒー、淹れようか」
「いい。時間ないから」
それだけ言って、誠は出ていった。
私はしばらくキッチンに立ったまま、動けなかった。コーヒーメーカーに豆をセットしかけた手が、宙に浮いたままになっていた。
結局、一人分だけ淹れた。
マグカップをふたつ出す癖は、まだ抜けていなかった。誠の分のカップをテーブルに置いて、それを眺めながらコーヒーを飲んだ。誠のカップは空のまま、冷えていった。
会社に行くと、同僚の田中さんが声をかけてきた。
「橘さん、最近顔色悪くない? ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ。ちょっと疲れてるだけ」
「無理しないでよ。残業も最近多いし」
「大丈夫」
笑って答えた。田中さんは少し心配そうな顔をしたけれど、それ以上は踏み込んでこなかった。
仕事をしながら、ふと誠のことを考えた。
最後に二人で笑ったのはいつだろう。最後に手を繋いだのはいつだろう。最後に、誠が私の名前を呼んだのはいつだろう。
思い出せなかった。
昼休みにスマートフォンを開くと、麗奈からメッセージが来ていた。
「今度のランチ、どうしますか?」
私はしばらく画面を見つめた。
返信しなかった。
初めてのことだった。いつもすぐに返していたのに。でもその日は、どうしても指が動かなかった。
夜、誠が帰ってきた。珍しく、九時前だった。
「今日は早いね」
「たまたま」
誠は鞄を置いて、ネクタイを緩めながらソファに座った。テレビをつけて、無言で画面を見ていた。私は夕食の準備を続けた。
「できたよ」
「うん」
食卓に向かい合って座って、二人で食べた。テレビの音だけが流れた。誠は料理に視線を落としたまま、黙って箸を動かした。
「おいしい?」
聞かなければよかったと思いながら、聞いた。
「ああ」
それだけだった。
食後、誠はすぐに風呂に入って、寝室に消えた。私は一人でテーブルを片付けて、食器を洗った。
朝のコーヒーカップが、まだシンクに残っていた。誠の分の、空のカップ。
洗いながら、私はふと思った。
このカップに、もうコーヒーを注ぐことはないかもしれない。
その考えが浮かんで、驚くほど静かだった。悲しくないわけじゃない。ただ、覚悟というものが、少しずつ形になり始めていた。
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