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第九章 エレベーターの沈黙
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第九章 エレベーターの沈黙
誠の職場に近いカフェで仕事の打ち合わせがあったのは、十月の終わりのことだった。
私は小さな広告代理店に勤めていた。クライアントとの打ち合わせが終わったのが夕方五時過ぎで、せっかくだから誠を誘って一緒に帰ろうと思った。事前に連絡もせず、サプライズのつもりだった。久しぶりに二人で夕食でも、と。
誠の会社が入っているビルのエントランスに入って、受付に声をかけた。少し待つと、誠から折り返しの電話が来た。
「どうした、こんなところで」
「近くで打ち合わせがあって。一緒に帰れるかなと思って」
短い沈黙があった。
「……今日は難しいかもしれない。もう少しかかりそうで」
「そっか。じゃあ待ってようか?」
「いや、先に帰っててくれ。遅くなるから」
わかった、と答えて電話を切った。
エントランスを出ようとしたとき、エレベーターのドアが開いた。
誠が出てきた。
隣に、麗奈がいた。
二人は並んで笑っていた。誠がこんな顔で笑うのを、いつぶりに見ただろうと思った。肩の力が抜けて、目が細くなって、子供みたいな笑顔。私の前では、もう随分見ていなかった顔だった。
二人は私に気づいていなかった。
私は動けなかった。声をかけることも、隠れることも、どちらもできなかった。ただ立ったまま、二人が話しながら歩いていくのを見ていた。
麗奈が誠の腕に軽く触れた。誠は避けなかった。
それだけだった。それだけのことだった。
でも足元が崩れるような感覚があった。
二人は別の出口から出ていった。私はしばらくエントランスに立ったまま、動けなかった。周りにいた人たちが不思議そうに私を見て、通り過ぎていった。
どのくらいそうしていたのかわからない。
気づいたら外に出ていた。秋の夜風が冷たかった。
スマートフォンを握ったまま、誠に電話をかけようとして、やめた。何を聞くのか。何を言うのか。何も言葉が出てこなかった。
電車に乗って、窓に映る自分の顔を見た。
泣いていなかった。泣けなかった。ただ、何かが終わったような静けさが胸の中にあった。
家に帰って、夕食を作った。誠の分も作った。
十一時過ぎに誠が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
それだけだった。私は何も言わなかった。誠も何も言わなかった。
夜中、眠れないまま天井を見上げながら、私はひとつだけ決めた。
もう少しだけ、待ってみよう。
それが正しい選択かどうかは、わからなかった。ただそのとき私にできることは、それだけだった。
誠の職場に近いカフェで仕事の打ち合わせがあったのは、十月の終わりのことだった。
私は小さな広告代理店に勤めていた。クライアントとの打ち合わせが終わったのが夕方五時過ぎで、せっかくだから誠を誘って一緒に帰ろうと思った。事前に連絡もせず、サプライズのつもりだった。久しぶりに二人で夕食でも、と。
誠の会社が入っているビルのエントランスに入って、受付に声をかけた。少し待つと、誠から折り返しの電話が来た。
「どうした、こんなところで」
「近くで打ち合わせがあって。一緒に帰れるかなと思って」
短い沈黙があった。
「……今日は難しいかもしれない。もう少しかかりそうで」
「そっか。じゃあ待ってようか?」
「いや、先に帰っててくれ。遅くなるから」
わかった、と答えて電話を切った。
エントランスを出ようとしたとき、エレベーターのドアが開いた。
誠が出てきた。
隣に、麗奈がいた。
二人は並んで笑っていた。誠がこんな顔で笑うのを、いつぶりに見ただろうと思った。肩の力が抜けて、目が細くなって、子供みたいな笑顔。私の前では、もう随分見ていなかった顔だった。
二人は私に気づいていなかった。
私は動けなかった。声をかけることも、隠れることも、どちらもできなかった。ただ立ったまま、二人が話しながら歩いていくのを見ていた。
麗奈が誠の腕に軽く触れた。誠は避けなかった。
それだけだった。それだけのことだった。
でも足元が崩れるような感覚があった。
二人は別の出口から出ていった。私はしばらくエントランスに立ったまま、動けなかった。周りにいた人たちが不思議そうに私を見て、通り過ぎていった。
どのくらいそうしていたのかわからない。
気づいたら外に出ていた。秋の夜風が冷たかった。
スマートフォンを握ったまま、誠に電話をかけようとして、やめた。何を聞くのか。何を言うのか。何も言葉が出てこなかった。
電車に乗って、窓に映る自分の顔を見た。
泣いていなかった。泣けなかった。ただ、何かが終わったような静けさが胸の中にあった。
家に帰って、夕食を作った。誠の分も作った。
十一時過ぎに誠が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
それだけだった。私は何も言わなかった。誠も何も言わなかった。
夜中、眠れないまま天井を見上げながら、私はひとつだけ決めた。
もう少しだけ、待ってみよう。
それが正しい選択かどうかは、わからなかった。ただそのとき私にできることは、それだけだった。
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