「婚約破棄された転生令嬢ですが、王城のメイド五百人に慕われるメイド長になりました。なお元婚約者は私のメイドに土下座中です」

まさき

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第3話「最底辺から、始めます」

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第3話「最底辺から、始めます」

王城への初出勤は、夜明け前だった。
 
まだ空が暗いうちに目を覚まし、凛は鏡の前に立った。
支給されたメイド服は、黒い生地に白いエプロン。
シンプルで、動きやすい。
金髪はきっちりとまとめ、ピンで留めた。
 
(悪くない)
 
鏡の中のアリアが、静かにこちらを見ていた。
令嬢の顔をしているのに、メイド服がよく似合っていた。
それがなんだかおかしくて、凛は小さく笑った。
 
屋敷を出ると、空の端がうっすらと白み始めていた。
石畳の上を、一人で歩く。
馬車も、付き人もいない。
 
(これが普通なんだよな)
 
前世では毎朝、満員電車に揺られて出勤していた。
誰も自分に気を使わない。
誰も自分を特別扱いしない。
それが当たり前の世界だった。
 
今もそれでいい。
むしろ、その方がやりやすかった。
 
 
――――
 
 
王城のメイド棟は、正門から裏手に回った先にあった。
 
木造の細長い建物で、外観はお世辞にも立派とは言えない。
けれど中に入ると、すでに大勢のメイドが動き回っていた。
廊下を足早に通り過ぎていく人。
両手に山積みのリネンを抱えて歩く人。
誰もが忙しそうで、凛のことなど見えていないようだった。
 
「あなたが新人ね」
 
突然、声をかけられた。
 
振り向くと、二十代前半くらいの女性が立っていた。
赤みがかった茶色の髪を一つにまとめ、腰に手を当てて凛を見ている。
目つきが鋭い。
品定めするような視線だった。
 
名はレナ。
新人担当のメイドだと、簡単な自己紹介があった。
 
「今日から厨房担当。皿洗いと床掃除。わかった?」
 
「わかりました」
 
「返事だけは一人前ね」
 
レナはそう言って、凛の返答も待たずに歩き出した。
ついてこい、ということらしかった。
 
 
厨房は、メイド棟の奥にあった。
 
扉を開けた瞬間、熱気と湯気が顔に当たった。
すでに朝食の準備が始まっている。
大きな竈が三つ並び、鍋が火にかかって湯が沸いている。
 
そして——。
 
シンクに、山積みになった皿があった。
 
前日の夕食分だろうか。
皿だけではなく、鍋も、カップも、調理器具も混ざっている。
その量、ざっと見て百点は超えていた。
 
「午前中に全部終わらせること」
 
レナが淡々と言った。
 
「洗い方はわかる?」
 
「やってみます」
 
「令嬢がお皿洗いって、笑えるわね」
 
背後で誰かがくすくすと笑う声がした。
厨房の隅で、二人のメイドがこちらを見ていた。
 
凛は気にしなかった。
笑いたければ笑えばいい。
今は皿の方が問題だった。
 
 
エプロンをして、袖をまくった。
 
湯を使うのかと思ったら、水だった。
しかも冷たい。
手を入れた瞬間、身体が縮こまりそうになった。
 
(冷たっ)
 
でも手を止めなかった。
一枚ずつ、丁寧に洗う。
裏も表も、縁も底も。
汚れが落ちているか指で確認して、すすいで、布で拭いて、積む。
 
黙々と、続けた。
 
 
十分も経たないうちに、指先の感覚がなくなってきた。
腰が痛い。
前屈みの姿勢が続くせいだ。
 
(前世の方がましだったかも)
 
などと思いながらも、手は動かし続けた。
ブラック企業で鍛えられた精神力の使いどころが、まさかメイドの皿洗いになるとは思っていなかったけれど。
 
「……速いわね」
 
しばらくして、レナが戻ってきた。
凛の隣に立って、洗い終わった皿の山を見ている。
 
「令嬢が皿洗いなんて一時間持たないと思ってたけど」
 
「まだ途中ですけど」
 
「それはわかってる」
 
レナは少し間を置いて、言った。
 
「やり方、少し違う。教えてあげましょうか」
 
「お願いします」
 
レナが鼻を鳴らした。
素直に頼られるとは思っていなかったようだ。
 
「汚れのひどいものを先に湯につけておくの。そうすれば後で楽になる。令嬢様はご存知ないでしょうけど」
 
「知りませんでした。ありがとうございます」
 
またレナが少し黙った。
 
「……お礼を言われるとは思わなかった」
 
「なんでですか」
 
「だって令嬢でしょ。メイドに礼を言う令嬢なんて見たことない」
 
凛は手を動かしながら、レナを見た。
 
「教えてもらったらお礼を言うのは当然じゃないですか」
 
「……そういうもの?」
 
「そういうもんですよ」
 
レナはしばらく凛の横に立っていた。
それから、何も言わずに自分も袖をまくった。
隣に並んで、皿を取り上げる。
 
「二人でやれば早く終わる。それだけよ」
 
「助かります」
 
「お礼はいい」
 
 
二人で黙々と皿を洗った。
レナが教えてくれたやり方で順番を変えると、確かに効率が上がった。
三十分もしないうちに、山積みだった皿が片付いていた。
 
 
――――
 
 
午後は床掃除だった。
 
担当は厨房と、その隣の食料庫。
渡されたのは、柄の長いモップと、小さなブラシ。
 
「隅々まで、目視確認して終わりにすること」
 
レナにそう言われて、凛は作業を始めた。
 
厨房の床は、思ったより広かった。
油跳ねのある部分は、ブラシで擦らないと落ちない。
腰を落として、力を入れて、一区画ずつ確認しながら進んだ。
 
途中、水を入れたバケツを蹴って盛大にこぼした。
 
(あ)
 
静まり返った厨房に、水の広がる音が響いた。
遠くで誰かが笑うのが聞こえた。
 
凛は溜め息を一つついて、雑巾を取りに立ち上がった。
怒りはなかった。
こういうことは、最初のうちは仕方ない。
失敗したら、直せばいい。
それだけだ。
 
黙って拭き取って、作業を再開した。
 
 
夕方、すべての作業を終えて凛がメイド棟の廊下に出ると、レナが壁に寄りかかって待っていた。
 
「終わった?」
 
「終わりました」
 
「確認する」
 
レナが厨房に入り、床を見て回った。
隅をブラシの柄で突いたり、窓際を指で触ったり。
 
しばらくして戻ってきた。
 
「……合格」
 
「よかった」
 
「初日に合格出したの、今年初めてよ」
 
凛は少し驚いた。
 
「みんな、そんなに大変なんですか」
 
「令嬢に限らず、最近は新人がすぐ辞める。一週間持てばいい方」
 
レナはそこで言葉を切った。
なにか言いたそうにして、でも言わなかった。
 
凛は聞かなかった。
今日聞くことじゃない、と思ったから。
 
「明日も同じ時間に来て」
 
「わかりました」
 
凛が踵を返しかけたとき、レナが小さな声で言った。
 
「……あんた、思ったよりやるじゃない」
 
「思ったより、というのがどの程度かわかりませんが」
 
「褒めてるのよ」
 
「ありがとうございます」
 
レナがまた鼻を鳴らした。
けれど今度は、その横顔が少しだけ柔らかかった。
 
 
帰り道、凛は王城を振り返った。
 
夕日の中に、石造りの壁が浮かんでいる。
あの建物の中に、500人のメイトがいる。
 
今日会ったのは、そのうちの何人だろう。
十人にも満たない。
 
(まだまだ、これからだ)
 
指先はまだかじかんでいた。
腰は鈍く痛んだ。
 
それでも凛は、今日初めて、少しだけ前進した気がしていた。
 
 
——500人、全員の顔を、いつか覚えてみせる。
 
 
――――
 
 
【次話予告】
 
翌朝、凛は厨房でとある光景を目にする。
仕事ができるのに、誰にも認められないメイドの姿だった。
 
「あなた、名前は?」
 
「……なんで聞くんですか」
 
——なんでって、覚えたいからに決まってるじゃないですか。
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