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第1話
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人間の本質は緊急事態が起きてそれまでのメッキという綺麗事の自己演出が自然に解かれてしまい顕わになっていく。この物語は不満足な人生に甘んじている主人公とバカップル、自分の人生に文句だらけの清掃員の4人が夜中のエレベーターという密室に閉じ込められてしまう為に起こる喜悲劇である。
誰の言い分けに同調しますか?さあ貴方もお読みくださいませ。
年が明けて間もない、金曜日の夜。美奈子はオフィスでひとり残業をしていた。得意先への見積書のケタを間違えて課長から大目玉をくらい、今日はさんざんな一日だった。月曜日の朝一番にやり直した書類を提出しなければならない。会社は土日は休みだから、休日出勤が嫌なら今こうして残業するしかないのだ。
「入社して十年以上たつのに、なんて私はトロいんだろう」誰もいないデスクでパソコンの画面をにらみつつ、美奈子は自虐的につぶやいた。
「電卓で手書きの頃はこんな間違いしなかったのに。エクセルなんて便利なようで、ひとつ入力が狂ったら全部パァだわ」
ふいに背後に人の気配を感じて、奈美子はあわてて振り返った。物騒な世の中である。強盗や痴漢がいつ何時に出没するやもしれぬ。いざという時の為のデスクの片隅にある自前の防犯用グッズに手を伸ばしながら、彼女は安堵の息をついた。幾つかのデスクを隔てたオフィスに入り口に立っていたのは、よく見かける掃除のおばさんだった。灰色の作業着の上下を身につけ、ビニール手袋をした両手はゴミ袋とバケツでふさがっている。
「す、すみません。お仕事の邪魔しちゃって、ゴミだけ回収させてください」大柄で肥えた図体に合わないか細い声だった。おばさんはフロアを一巡し終わると、「どうも」と言い残し、すぐ美奈子の視線から消えた。
美奈子の勤める会社は東京都心の四十階を越えるビルの十九階と二十階にあり、経理・総務・営業・販促・商品開発などの各部署ごとにフロアが分かれている。老舗の和菓子の製造卸しで着実に工場や販路を全国に広げ、バブル後の不況にも負けず、まずまずの業績をおさめている。
「あ~あ、もう会社やめたいなあ」美奈子は椅子の背もたれによりかかり、大きな伸びをした。
「ほんとはいい人見つけて、もっと早く寿退社したぁったのに」同期のめぼしい男性社員は今や殆ど既婚か彼女持ちである。入社以来ひそかに憧れていた営業の三峰俊郎もまだ独身ではあるが、艶っぽい噂の絶えない男で、最近は受け付けの若い女の子と交際しているらしい。美奈子自身も男性から言い寄られた経験があるにはあるが、ふたまわり近く年上でしかもバツ2のおじさんとか逆にずっと年下の新入社員だったりで、恋愛や結婚の対象には結局ならなった。
「帯に長したすきに短しとはいうけど、頃合いのいいのがなんで現れないんだろう。今さら遅いけど三峰さんに告白しとけばよかったなあ。でも私みたいに平凡な女なんてダメだろうけど」ぶつぶつ独り言をつぶやきながら、美奈子は仕事の続きにとりかかった。人気のない経理部のフロアは薄気味悪く、どこからも物音一つ聞こえてこない。巨大なビル全体がしんと静まりかえっているようだった。
急に不安になり美奈子は大慌てで仕事をすませ、ようやくオフィスをあとにしたのが九時少し前である。帰りがけにデスクの上の防犯用グッズを上着のポケットに突っ込み、足早でエレベータに向かった。
このビルのエレベータは便宜性や節電の為なのか、最上階まで昇るものと一階から二十階専用のものが廊下を境に三つずつ設けられている。経理部は十九階にあるので、ふだん美奈子が利用しているのは二十階止まりのエレベータである。
エレベータの前にはさっきの掃除のおばさんが立っていた。作業着の両手に大きなゴミ袋とバケツを持ちモップを脇にはさんだまま、あとから来た美奈子に会釈を返した。疲労のせいだろうか、目の下のクマが濃く、どこか暗い投げやりな表情である。いつも、こんなに遅くまで掃除をしているのだろうか。と、いきなりチーンと音が鳴り響き、真ん中のエレベータの扉が開いた。
驚いたことに、中には思いがけない先客がいた。交際中と噂されている三峰俊郎と受け付け嬢だった。二人は部署のある二十階から下りてきたのだ。美奈子は一瞬ひるんだが、何食わぬ顔で乗り込んでいく。掃除のおばさんは突っ立たまま動かない。
「乗らないんですか」快活な口調で俊郎が声をかける。
「生ゴミが臭うからどうぞお先に」おばさんは遠慮しているのだ。
「いいんですよ。気にしないで早く乗って」
「そうよ、ぜんぜん平気よ」受け付け嬢が身を乗り出して手をこまねき、おばさんは恐縮した様子で入ってくる。エレベータは扉を閉じ、四人を乗せてゆっくりと下降しはじめた。
「すみませんねえ」おばさんは扉を背にして振り向き、ペコペコと頭を下げた。奥の隅に俊郎と受け付け嬢が、もう片方の隅に美奈子が立っている。大きいなゴミ袋とバケツやモップをかかえた肥満体のおばさんは、入り口付近を占拠していた。
誰の言い分けに同調しますか?さあ貴方もお読みくださいませ。
年が明けて間もない、金曜日の夜。美奈子はオフィスでひとり残業をしていた。得意先への見積書のケタを間違えて課長から大目玉をくらい、今日はさんざんな一日だった。月曜日の朝一番にやり直した書類を提出しなければならない。会社は土日は休みだから、休日出勤が嫌なら今こうして残業するしかないのだ。
「入社して十年以上たつのに、なんて私はトロいんだろう」誰もいないデスクでパソコンの画面をにらみつつ、美奈子は自虐的につぶやいた。
「電卓で手書きの頃はこんな間違いしなかったのに。エクセルなんて便利なようで、ひとつ入力が狂ったら全部パァだわ」
ふいに背後に人の気配を感じて、奈美子はあわてて振り返った。物騒な世の中である。強盗や痴漢がいつ何時に出没するやもしれぬ。いざという時の為のデスクの片隅にある自前の防犯用グッズに手を伸ばしながら、彼女は安堵の息をついた。幾つかのデスクを隔てたオフィスに入り口に立っていたのは、よく見かける掃除のおばさんだった。灰色の作業着の上下を身につけ、ビニール手袋をした両手はゴミ袋とバケツでふさがっている。
「す、すみません。お仕事の邪魔しちゃって、ゴミだけ回収させてください」大柄で肥えた図体に合わないか細い声だった。おばさんはフロアを一巡し終わると、「どうも」と言い残し、すぐ美奈子の視線から消えた。
美奈子の勤める会社は東京都心の四十階を越えるビルの十九階と二十階にあり、経理・総務・営業・販促・商品開発などの各部署ごとにフロアが分かれている。老舗の和菓子の製造卸しで着実に工場や販路を全国に広げ、バブル後の不況にも負けず、まずまずの業績をおさめている。
「あ~あ、もう会社やめたいなあ」美奈子は椅子の背もたれによりかかり、大きな伸びをした。
「ほんとはいい人見つけて、もっと早く寿退社したぁったのに」同期のめぼしい男性社員は今や殆ど既婚か彼女持ちである。入社以来ひそかに憧れていた営業の三峰俊郎もまだ独身ではあるが、艶っぽい噂の絶えない男で、最近は受け付けの若い女の子と交際しているらしい。美奈子自身も男性から言い寄られた経験があるにはあるが、ふたまわり近く年上でしかもバツ2のおじさんとか逆にずっと年下の新入社員だったりで、恋愛や結婚の対象には結局ならなった。
「帯に長したすきに短しとはいうけど、頃合いのいいのがなんで現れないんだろう。今さら遅いけど三峰さんに告白しとけばよかったなあ。でも私みたいに平凡な女なんてダメだろうけど」ぶつぶつ独り言をつぶやきながら、美奈子は仕事の続きにとりかかった。人気のない経理部のフロアは薄気味悪く、どこからも物音一つ聞こえてこない。巨大なビル全体がしんと静まりかえっているようだった。
急に不安になり美奈子は大慌てで仕事をすませ、ようやくオフィスをあとにしたのが九時少し前である。帰りがけにデスクの上の防犯用グッズを上着のポケットに突っ込み、足早でエレベータに向かった。
このビルのエレベータは便宜性や節電の為なのか、最上階まで昇るものと一階から二十階専用のものが廊下を境に三つずつ設けられている。経理部は十九階にあるので、ふだん美奈子が利用しているのは二十階止まりのエレベータである。
エレベータの前にはさっきの掃除のおばさんが立っていた。作業着の両手に大きなゴミ袋とバケツを持ちモップを脇にはさんだまま、あとから来た美奈子に会釈を返した。疲労のせいだろうか、目の下のクマが濃く、どこか暗い投げやりな表情である。いつも、こんなに遅くまで掃除をしているのだろうか。と、いきなりチーンと音が鳴り響き、真ん中のエレベータの扉が開いた。
驚いたことに、中には思いがけない先客がいた。交際中と噂されている三峰俊郎と受け付け嬢だった。二人は部署のある二十階から下りてきたのだ。美奈子は一瞬ひるんだが、何食わぬ顔で乗り込んでいく。掃除のおばさんは突っ立たまま動かない。
「乗らないんですか」快活な口調で俊郎が声をかける。
「生ゴミが臭うからどうぞお先に」おばさんは遠慮しているのだ。
「いいんですよ。気にしないで早く乗って」
「そうよ、ぜんぜん平気よ」受け付け嬢が身を乗り出して手をこまねき、おばさんは恐縮した様子で入ってくる。エレベータは扉を閉じ、四人を乗せてゆっくりと下降しはじめた。
「すみませんねえ」おばさんは扉を背にして振り向き、ペコペコと頭を下げた。奥の隅に俊郎と受け付け嬢が、もう片方の隅に美奈子が立っている。大きいなゴミ袋とバケツやモップをかかえた肥満体のおばさんは、入り口付近を占拠していた。
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