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第1話
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六月上旬の昼下がり。美智子は東京から車を運転して、神奈川県の葉山に住む伯父の洋館を訪れた。伯母の葬式以来だから、約五年ぶりの訪問になる。
梅雨のさなかのそぼ降る雨に濡れた蔦がからまるレンガ造りの建物は、昔と変わらず、いかめしく豪奢な外観を現わしていた。
門前に車を停め、昨夜の電話で伯父に言われた通りクラクションを二回鳴らす。すぐに扉が大きく開き、笑顔で飛び出してくる伯父の姿が目に映る。長身で贅肉のない身体に半袖のダンガリーシャツと白いチノパンという出で立ちは、彼を五十三歳という実際の年齢よりも若々しく快活に見せていた。
美智子は車を塀の脇に寄せて、路上に降り、傍までやってきた伯父に会釈をした。
「お久しぶりです」
「いやあ、本当に来てくれたんだね」
「ご無沙汰してすみませんでした」
深々と頭を下げた美智子に、伯父は慌てて「雨が降ってるから、さ、早く中に入って」と大袈裟な手振りをして促した。
ヨットハーバーのある海岸から程近い、皇室の御用邸や高級な別荘が立ち並ぶ辺り一帯は、青々とした樹木がいたる所に生い茂っている。
近辺に歓楽街はなく幹線道路からも離れているので、観光客の喧騒や暴走族のバイクの騒音に悩まされることはない。ゆったりと間隔を置いた隣近所は人の気配や生活の匂いが感じられずただ細かい雨音がするばかりで、ひっそりと静まり返っていた。
美智子は伯父にエスコートされて、門を潜り金色の虎の顔を彫刻した古風なノッカーがある扉の奥に足を踏み入れた。天井の煌びやかなシャンデリアが薄暗い館内を青白く照らし、一階のだだっ広い床そして二階に通じるゆったりとした階段に、以前はなかった紅色の絨毯がびっしりと敷き詰められていた。
透かし模様の衝立ての手前にずっしりとした舶来品のレトロな、大理石のキャビネットがある。階段を見つめていた美智子の視線がふいにキャビネットに移り花瓶に生けられている赤紫色の花に目が釘づけになる。気品漂うあでやかな、それはカトレアだった。花瓶の隣のフォトスタンドで微笑んでいる伯母の絹子が、生前もっとも好んだ花であった。
美智子の脳裏に思い出したくなかった、忌まわしい光景が一気に甦ってくる。背筋に鳥肌が立ち、足元がぐらりと崩れそうになる。
「大丈夫かい?」
こめかみを押さえ立ちすくんでしまった美智子を、伯父が心配そうな顔で覗き込んでいた。白髪は増えたが、野性味を帯びた端正な顔立は昔のままだった。
「あ、ごめんなさい。つい思い出してしまって」
「そうだろうね、君にはさぞショックだったと思うよ、絹子があんな風に・・階段から転げ落ちて死んでしまったんだから。そういう場所に無理に呼んで悪かったね」
警察の検分では、不注意による階段転落ということで事故処理されていた。
「いいえ、そんな。私こそ一周忌にも欠席してしまってごめんなさい」
「いいんだよ。君も仕事をしているんだから、いろいろと都合があるさ。でも、そろそろ独身生活にピリオドを打つ気はないのかい?早く僕を、いや皆を安心させてくれよ」
伯父は冗談っぽくそう言い、眼光の鋭い両目を細めて、柔和な笑みを浮かべた。それから、お姫さま奥へどうぞと、中世の騎士のお辞儀に似たしぐさをして、衝立ての向こうのやはり紅色の絨毯が敷かれているリビングに美智子を案内した。
「お茶を入れるから、ここでくつろいでいておくれ。今日は通いの家政婦さんが休みだから不自由かけるかもしれないけど、気兼ねはしないでくれよ。今夜は一泊していけるんだよね」
上質の黒皮のソファに腰を下ろし、はいと答えながら、美智子は後悔している自分の心に気づいていた。再びこの館に来るべきではなかったのだ。サイドテーブルにも絹子の写真やカトレアの花が見られ、それらが目に痛く、また、絹子が生きている頃に彼女の趣味によって選ばれたルネッサンス風な重厚な調度やゴブラン織のファブリックに囲まれると胸が圧迫されるような息苦しさを覚えるのだった。まるで今もなお絹子がこの館で暮らしているような錯覚に美智子はとらわれていた。
カウンター付きの近代的なシステムキッチンとリビングは横長に伸びた形で一続きになっていた。パキラやレインボーの観葉植物を仕切りに、絨毯敷きからフローリングの床に変わり、遊び心あふれる絵が描かれた輸入物の白い丸テーブルと四脚の同色のチェアーが、壁一面が硝子張りになった窓際にダイニングテーブルとして置かれている。
対面キッチンでお茶の準備に取り掛かっている伯父の上半身が、美智子の視界をかすめた。伯父は美智子の母親の兄で、若い頃ゲームソフト事業で成功し一代で財を築いた実業家だ。堅実経営を貫きパソコン関連の仕事でまずまずの成果を上げている。独身時代あまたの浮き名を流していた彼がとつぜん結婚したのは、美智子が成人式を迎えた八年前の事だった。
四十代半ばの彼が二十も年下の女と入籍をしたというニュースは、親戚一同はもちろんのこと周囲を仰天させたのだが、内輪のお披露目パーティーではもっと驚かされることになった。伯父の結婚相手の女、絹子が想像を絶する美人だったからである。彼女に出会う前、口さがない親戚の連中は中傷めいたことを好き放題言っていた。
「財産目当ての女だよ、まちがいなく」
「そうじゃなかったら、そんな年の離れた結婚するものですか」
「コンパニオンをしていたらしいけどどこの馬の骨かわかったもんじゃない」
「入籍する前にせめて一言相談してくれたら、忠告もできたのにねえ」
などと。
しかし、そんな彼らも絹子の姿を見たとたん神々しいばかりの美しさにたじろぎ言葉を失ってしまった。実際、美智子本人もその一人である。世の中には綺麗な部類の女は数多くいるが、絹子のような比類なき美人に出会ったことは後にも先にもない。中肉中背で、ことさらに目が大きいとか鼻が高いわけではないけれど顔全体のパーツのバランスがよく、とりわけ美しいのは色合いのコントラストであった。艶のあるセミロングの黒髪、内側から光ってるかに見える白い皮膚。それが地色の赤い唇。そして何よりも魅惑的なのはアーモンド形をした黒目がちの瞳だ。神秘な輝きにみちた潤んだ目で見つめられると、誰もが魂を吸い取られそうな気分になったにちがいない。彼女の超越した美には皆ただひれ伏すことしかできなかったのだ。
梅雨のさなかのそぼ降る雨に濡れた蔦がからまるレンガ造りの建物は、昔と変わらず、いかめしく豪奢な外観を現わしていた。
門前に車を停め、昨夜の電話で伯父に言われた通りクラクションを二回鳴らす。すぐに扉が大きく開き、笑顔で飛び出してくる伯父の姿が目に映る。長身で贅肉のない身体に半袖のダンガリーシャツと白いチノパンという出で立ちは、彼を五十三歳という実際の年齢よりも若々しく快活に見せていた。
美智子は車を塀の脇に寄せて、路上に降り、傍までやってきた伯父に会釈をした。
「お久しぶりです」
「いやあ、本当に来てくれたんだね」
「ご無沙汰してすみませんでした」
深々と頭を下げた美智子に、伯父は慌てて「雨が降ってるから、さ、早く中に入って」と大袈裟な手振りをして促した。
ヨットハーバーのある海岸から程近い、皇室の御用邸や高級な別荘が立ち並ぶ辺り一帯は、青々とした樹木がいたる所に生い茂っている。
近辺に歓楽街はなく幹線道路からも離れているので、観光客の喧騒や暴走族のバイクの騒音に悩まされることはない。ゆったりと間隔を置いた隣近所は人の気配や生活の匂いが感じられずただ細かい雨音がするばかりで、ひっそりと静まり返っていた。
美智子は伯父にエスコートされて、門を潜り金色の虎の顔を彫刻した古風なノッカーがある扉の奥に足を踏み入れた。天井の煌びやかなシャンデリアが薄暗い館内を青白く照らし、一階のだだっ広い床そして二階に通じるゆったりとした階段に、以前はなかった紅色の絨毯がびっしりと敷き詰められていた。
透かし模様の衝立ての手前にずっしりとした舶来品のレトロな、大理石のキャビネットがある。階段を見つめていた美智子の視線がふいにキャビネットに移り花瓶に生けられている赤紫色の花に目が釘づけになる。気品漂うあでやかな、それはカトレアだった。花瓶の隣のフォトスタンドで微笑んでいる伯母の絹子が、生前もっとも好んだ花であった。
美智子の脳裏に思い出したくなかった、忌まわしい光景が一気に甦ってくる。背筋に鳥肌が立ち、足元がぐらりと崩れそうになる。
「大丈夫かい?」
こめかみを押さえ立ちすくんでしまった美智子を、伯父が心配そうな顔で覗き込んでいた。白髪は増えたが、野性味を帯びた端正な顔立は昔のままだった。
「あ、ごめんなさい。つい思い出してしまって」
「そうだろうね、君にはさぞショックだったと思うよ、絹子があんな風に・・階段から転げ落ちて死んでしまったんだから。そういう場所に無理に呼んで悪かったね」
警察の検分では、不注意による階段転落ということで事故処理されていた。
「いいえ、そんな。私こそ一周忌にも欠席してしまってごめんなさい」
「いいんだよ。君も仕事をしているんだから、いろいろと都合があるさ。でも、そろそろ独身生活にピリオドを打つ気はないのかい?早く僕を、いや皆を安心させてくれよ」
伯父は冗談っぽくそう言い、眼光の鋭い両目を細めて、柔和な笑みを浮かべた。それから、お姫さま奥へどうぞと、中世の騎士のお辞儀に似たしぐさをして、衝立ての向こうのやはり紅色の絨毯が敷かれているリビングに美智子を案内した。
「お茶を入れるから、ここでくつろいでいておくれ。今日は通いの家政婦さんが休みだから不自由かけるかもしれないけど、気兼ねはしないでくれよ。今夜は一泊していけるんだよね」
上質の黒皮のソファに腰を下ろし、はいと答えながら、美智子は後悔している自分の心に気づいていた。再びこの館に来るべきではなかったのだ。サイドテーブルにも絹子の写真やカトレアの花が見られ、それらが目に痛く、また、絹子が生きている頃に彼女の趣味によって選ばれたルネッサンス風な重厚な調度やゴブラン織のファブリックに囲まれると胸が圧迫されるような息苦しさを覚えるのだった。まるで今もなお絹子がこの館で暮らしているような錯覚に美智子はとらわれていた。
カウンター付きの近代的なシステムキッチンとリビングは横長に伸びた形で一続きになっていた。パキラやレインボーの観葉植物を仕切りに、絨毯敷きからフローリングの床に変わり、遊び心あふれる絵が描かれた輸入物の白い丸テーブルと四脚の同色のチェアーが、壁一面が硝子張りになった窓際にダイニングテーブルとして置かれている。
対面キッチンでお茶の準備に取り掛かっている伯父の上半身が、美智子の視界をかすめた。伯父は美智子の母親の兄で、若い頃ゲームソフト事業で成功し一代で財を築いた実業家だ。堅実経営を貫きパソコン関連の仕事でまずまずの成果を上げている。独身時代あまたの浮き名を流していた彼がとつぜん結婚したのは、美智子が成人式を迎えた八年前の事だった。
四十代半ばの彼が二十も年下の女と入籍をしたというニュースは、親戚一同はもちろんのこと周囲を仰天させたのだが、内輪のお披露目パーティーではもっと驚かされることになった。伯父の結婚相手の女、絹子が想像を絶する美人だったからである。彼女に出会う前、口さがない親戚の連中は中傷めいたことを好き放題言っていた。
「財産目当ての女だよ、まちがいなく」
「そうじゃなかったら、そんな年の離れた結婚するものですか」
「コンパニオンをしていたらしいけどどこの馬の骨かわかったもんじゃない」
「入籍する前にせめて一言相談してくれたら、忠告もできたのにねえ」
などと。
しかし、そんな彼らも絹子の姿を見たとたん神々しいばかりの美しさにたじろぎ言葉を失ってしまった。実際、美智子本人もその一人である。世の中には綺麗な部類の女は数多くいるが、絹子のような比類なき美人に出会ったことは後にも先にもない。中肉中背で、ことさらに目が大きいとか鼻が高いわけではないけれど顔全体のパーツのバランスがよく、とりわけ美しいのは色合いのコントラストであった。艶のあるセミロングの黒髪、内側から光ってるかに見える白い皮膚。それが地色の赤い唇。そして何よりも魅惑的なのはアーモンド形をした黒目がちの瞳だ。神秘な輝きにみちた潤んだ目で見つめられると、誰もが魂を吸い取られそうな気分になったにちがいない。彼女の超越した美には皆ただひれ伏すことしかできなかったのだ。
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