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第3話
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枕元のシェードランプを点ける。置時計は0時を回っていた。十時過ぎに床に就いたのだから、二時間近く寝ていたことになる。喉の渇きを急に覚え、美智子はベッドから起き上がり部屋の外に出た。薄暗い照明が灯された、長い廊下の正面つきあたりの扉が伯父の部屋であることを思い出す。彼はもうぐっすりと眠っているのだろうか。扉をひとつ過ぎ階段を下りかけた所で美智子はふと立ち止まる。人の声がかすかに聞こえたような気がした。じっと耳をすますと、二階のどこからか再び聞こえてくる。そのくぐもった声は階段のすぐ向こうの部屋からもれてくるようだった。
美智子は背筋が凍り付き、金縛りにあったように、その場から一歩も動けなくなる。そこは絹子が使っていた部屋なのだ。生前のままにしてあると伯父は言っていた。では怪しい声の正体は絹子の亡霊なのか?彼女の魂は成仏せずに今もこの館を彷徨いつづけているのか?
恐怖のあまり腰がへなへなと崩れ、美智子は思わず、「伯父様、助けて」と叫んでいた。奇妙な声がぴたりと止む。不気味な静寂が戻り、ややあって扉が開く音がした。それは伯父の部屋ではなく絹子の部屋の扉だった。失神しそうになった美智子の目に映ったのは、暗い顔つきで立っているガウン姿の伯父だった。
「お入り」
廊下にへたりこんでしまった美智子に、彼は穏やかな口調で言った。
「伯父様・・」
「いいから、中にお入り」
美智子はよろよろと立ち上がった。絹子の部屋に入ったことは一度もない。伯父に言われるまま、息を凝らして、おそるおそる扉の中に入っていく。
天蓋付きのベッド。アンティックで豪華な家具。青いレースのカーテン。異国の貴婦人が住むような部屋に、美智子はうっとりと見とれた。が、壁に掛かっている肖像画に目が止まったとたん、全身が強い衝撃に貫かれ、再び倒れそうになった。
「絹子だよ。よく描けてるだろう?」
伯父は肘掛椅子に腰掛け、肖像画を見上げながら低い声で言った。黒い背景に真紅のロングドレス姿の絹子が描かれている。まるで生命を吹き込まれているかに、いきいきと鮮やかに。
「僕は毎晩こうして彼女と向き合って話をしているんだよ」
伯父は指にはさんだ葉巻に火を点けた。
「何時間も何時間も・・時には朝までもね」
唇から吐き出された紫煙が天井に流れていく。
さっきの奇妙な声は肖像画の絹子に話し掛ける伯父の声だったのだ。謎は解明したが、美智子にとって気味が悪いことに変わりはない。彼はもしかしたら、妻を亡くした時に正気を半分失ってしまったのだろうか・・
「美智子ちゃん」
無言で立っている美智子に、伯父はやさしく微笑んだ。
「僕はあの日、君が外に飛び出してきたのを見たんだよ」
何の話なのか美智子は咄嗟にはわからなかった。しかし、すぐに悪い予感がよぎり、身体から血の気がひいていく。まさか・・まさか・・
「君は車に乗って、すごいスピードで出掛けていった。僕はね、気分が乗らずヨットを途中でやめて帰ってきたんだよ。自転車の僕の姿に気づかなかったかい?」
美智子は茫然自失状態になりながら、首を小さく左右に振る。
「君の車が行ったあと、僕はいそいで中に入った。すると絹子が階段で倒れていたんだ」
抑揚のない彼の声を聞きつつ、美智子はぼんやりと思い出していた。あの日、絹子を置き去りにして車で鎌倉まで飛ばしていったことを。渋滞に巻き込まれて、ふいに冷静になり、大変なことをしてしまったと慌てて館に引き返してきたのだ。だが、その時は既に数時間が経過してしまっていた。不安に怯えながら見た光景は、血を流して逆さに倒れている絹子と彼女の傍に寄り添っていた伯父の姿だった。彼はあの時、海から戻ってきたばかりだと思い込んでいた。
「なぜ・・」
かすれた、声にならない声で美智子は尋ねた。
「なぜ、絹子さんを助けてあげなかったの」
葉巻を灰皿にもみ消し伯父は表情を変えずに答えた。
「僕は絹子の手をずっと握り締めていた。息を引き取る最期の瞬間までね。彼女は助けてと僕に請うた。額から血がどんどん流れて・・カトレアの花びらが辺りに散らばってたよ。僕はそれを見て、なんて美しいのだろうと思った。美しさしかとりえのない、あの女にふさわしい死に方だと思ったんだよ」
伯父の眼が鋭い光を放つ。美智子は身動きひとつできず、もはや言葉もなく、じっと聞いている。
「絹子はこんな生活はもう飽きてしまった。東京で一人マンション暮らしをしたいなどと言いだしていた。そんなことになったら、どうなる?僕より若くて金持ちの男は一杯いるさ。絹子はそちらを選ぶにちがいない。だから、僕の妻のまま・・永久に僕の妻として死んでほしかったんだ」
興奮しているのか、彼の語気はしだいに荒くなっていく。伯父は熱いまなざしで肖像画の絹子をくいいるように見つめた。
「絹子は美しかった。まるで奇跡のように美しかった。それが色褪せていくなんて、彼女が老いてしまうなんてこと僕には耐えられない。あの美しさを永遠のものにするには彼女の時を止める以外になかった。だから美智子ちゃん、絹子と何があったか知らないけど、君が罪悪感を感じる必要はないんだ。これで良かったんだよ。僕はそのことを君に伝えたかったのさ」
肖像画から美智子の顔に視線を移し、伯父はいつもの彼らしい、情愛のこもった笑いをつくった。
「これで良かったんだ」
彼はひとりごちるように、何度も繰り返して言った。
伯父と向き合い、立ち尽くしたまま、美智子は彼の背後に広がるカーテン越しの闇夜を眺めていた。
時計の針の音しか聞こえない、夜のしじま。
雨はまだ降っているのだろうか。
妻への愛の決着に、その美しさを封印せんが為に、倒錯の道を生きていく伯父。彼はけっして気づくことはないだろう。美智子もまた絹子に魅せられてしまった。同類の人間であることに。自分同様それゆえに罪を犯してしまったことに。
そして、絹子も何も知らずに逝ったのだろう。自分を見殺しにした二人の人間が、いかに己の美を崇拝していたかを。
肖像画の絹子が妖しい微笑みでささやきかける。私はあなたが嫌いなの。美智子は思わず、涙があふれそうな切ない気持ちになる。
伯父様、あなたのしたこと私には理解できます。
そう告げたい衝動にかられるが、今はただ、同じ女を愛した共犯者を前に、不思議なほど甘やかな安息を感じていた。
☆後日談☆
そして絹子は後の作品「メビウスの迷宮」の美人妻に再生して男たちを永遠に翻弄し続けます。
美智子は背筋が凍り付き、金縛りにあったように、その場から一歩も動けなくなる。そこは絹子が使っていた部屋なのだ。生前のままにしてあると伯父は言っていた。では怪しい声の正体は絹子の亡霊なのか?彼女の魂は成仏せずに今もこの館を彷徨いつづけているのか?
恐怖のあまり腰がへなへなと崩れ、美智子は思わず、「伯父様、助けて」と叫んでいた。奇妙な声がぴたりと止む。不気味な静寂が戻り、ややあって扉が開く音がした。それは伯父の部屋ではなく絹子の部屋の扉だった。失神しそうになった美智子の目に映ったのは、暗い顔つきで立っているガウン姿の伯父だった。
「お入り」
廊下にへたりこんでしまった美智子に、彼は穏やかな口調で言った。
「伯父様・・」
「いいから、中にお入り」
美智子はよろよろと立ち上がった。絹子の部屋に入ったことは一度もない。伯父に言われるまま、息を凝らして、おそるおそる扉の中に入っていく。
天蓋付きのベッド。アンティックで豪華な家具。青いレースのカーテン。異国の貴婦人が住むような部屋に、美智子はうっとりと見とれた。が、壁に掛かっている肖像画に目が止まったとたん、全身が強い衝撃に貫かれ、再び倒れそうになった。
「絹子だよ。よく描けてるだろう?」
伯父は肘掛椅子に腰掛け、肖像画を見上げながら低い声で言った。黒い背景に真紅のロングドレス姿の絹子が描かれている。まるで生命を吹き込まれているかに、いきいきと鮮やかに。
「僕は毎晩こうして彼女と向き合って話をしているんだよ」
伯父は指にはさんだ葉巻に火を点けた。
「何時間も何時間も・・時には朝までもね」
唇から吐き出された紫煙が天井に流れていく。
さっきの奇妙な声は肖像画の絹子に話し掛ける伯父の声だったのだ。謎は解明したが、美智子にとって気味が悪いことに変わりはない。彼はもしかしたら、妻を亡くした時に正気を半分失ってしまったのだろうか・・
「美智子ちゃん」
無言で立っている美智子に、伯父はやさしく微笑んだ。
「僕はあの日、君が外に飛び出してきたのを見たんだよ」
何の話なのか美智子は咄嗟にはわからなかった。しかし、すぐに悪い予感がよぎり、身体から血の気がひいていく。まさか・・まさか・・
「君は車に乗って、すごいスピードで出掛けていった。僕はね、気分が乗らずヨットを途中でやめて帰ってきたんだよ。自転車の僕の姿に気づかなかったかい?」
美智子は茫然自失状態になりながら、首を小さく左右に振る。
「君の車が行ったあと、僕はいそいで中に入った。すると絹子が階段で倒れていたんだ」
抑揚のない彼の声を聞きつつ、美智子はぼんやりと思い出していた。あの日、絹子を置き去りにして車で鎌倉まで飛ばしていったことを。渋滞に巻き込まれて、ふいに冷静になり、大変なことをしてしまったと慌てて館に引き返してきたのだ。だが、その時は既に数時間が経過してしまっていた。不安に怯えながら見た光景は、血を流して逆さに倒れている絹子と彼女の傍に寄り添っていた伯父の姿だった。彼はあの時、海から戻ってきたばかりだと思い込んでいた。
「なぜ・・」
かすれた、声にならない声で美智子は尋ねた。
「なぜ、絹子さんを助けてあげなかったの」
葉巻を灰皿にもみ消し伯父は表情を変えずに答えた。
「僕は絹子の手をずっと握り締めていた。息を引き取る最期の瞬間までね。彼女は助けてと僕に請うた。額から血がどんどん流れて・・カトレアの花びらが辺りに散らばってたよ。僕はそれを見て、なんて美しいのだろうと思った。美しさしかとりえのない、あの女にふさわしい死に方だと思ったんだよ」
伯父の眼が鋭い光を放つ。美智子は身動きひとつできず、もはや言葉もなく、じっと聞いている。
「絹子はこんな生活はもう飽きてしまった。東京で一人マンション暮らしをしたいなどと言いだしていた。そんなことになったら、どうなる?僕より若くて金持ちの男は一杯いるさ。絹子はそちらを選ぶにちがいない。だから、僕の妻のまま・・永久に僕の妻として死んでほしかったんだ」
興奮しているのか、彼の語気はしだいに荒くなっていく。伯父は熱いまなざしで肖像画の絹子をくいいるように見つめた。
「絹子は美しかった。まるで奇跡のように美しかった。それが色褪せていくなんて、彼女が老いてしまうなんてこと僕には耐えられない。あの美しさを永遠のものにするには彼女の時を止める以外になかった。だから美智子ちゃん、絹子と何があったか知らないけど、君が罪悪感を感じる必要はないんだ。これで良かったんだよ。僕はそのことを君に伝えたかったのさ」
肖像画から美智子の顔に視線を移し、伯父はいつもの彼らしい、情愛のこもった笑いをつくった。
「これで良かったんだ」
彼はひとりごちるように、何度も繰り返して言った。
伯父と向き合い、立ち尽くしたまま、美智子は彼の背後に広がるカーテン越しの闇夜を眺めていた。
時計の針の音しか聞こえない、夜のしじま。
雨はまだ降っているのだろうか。
妻への愛の決着に、その美しさを封印せんが為に、倒錯の道を生きていく伯父。彼はけっして気づくことはないだろう。美智子もまた絹子に魅せられてしまった。同類の人間であることに。自分同様それゆえに罪を犯してしまったことに。
そして、絹子も何も知らずに逝ったのだろう。自分を見殺しにした二人の人間が、いかに己の美を崇拝していたかを。
肖像画の絹子が妖しい微笑みでささやきかける。私はあなたが嫌いなの。美智子は思わず、涙があふれそうな切ない気持ちになる。
伯父様、あなたのしたこと私には理解できます。
そう告げたい衝動にかられるが、今はただ、同じ女を愛した共犯者を前に、不思議なほど甘やかな安息を感じていた。
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そして絹子は後の作品「メビウスの迷宮」の美人妻に再生して男たちを永遠に翻弄し続けます。
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