居酒屋・壺中天 〜夜酒手控え帖 〜

酔夢庵笑悟

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第壱話 明王、夜の暖簾をくぐる

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 その夜は風が鳴いていた。  柳の枝が、月明かりのもとで揺れ、まるで何かを呼ぶように囁いていた。

 路地裏の灯りが一つ、ぽつんと灯っている。看板もないその店は、まるで忘れられた異界の入り口のように、そこにあった。

 暖簾には、ただ一文字──「壺」。

 ふらりと現れたのは、異様な風貌の男だった。  片方の眉がなく、鼻筋の途中で曲がっている。だが、目だけは異様に澄んでいた。澄みすぎていて、深淵を覗き返してくるような瞳。

「いらっしゃいませ。風が強うございますな」  暖簾の奥から現れたのは、主人の笑悟。着流しに割烹着を重ね、片手に酒器を携えていた。

 男は無言のまま、カウンターに腰を下ろした。  その瞬間、空気がひとつ変わる。店の温度が、わずかに下がったような錯覚。

「お燗にしますか、それとも……」 「……冷で」  男の声は、低く、砂利を噛んだようだった。

 笑悟は頷き、淡く白濁した冷酒をグラスに注ぐ。  肴は、炙った鰯に鬼おろし。脂の香ばしさと、粗くおろした大根の辛味が、酒の芯に火をつける。

 男は、それをひと口運び、ゆっくりと噛んだ。

「……懐かしい味だ」

 ぽつりと、呟く。

「戦場で食ったことがある」  笑悟は問い返さない。ただ、隣にもう一品、小鉢を添える。

 胡麻和えにした芹と薄揚げ。  春の名残を閉じ込めたような香りが、ふわりと立ちのぼる。

「……おれは、人を斬った数より、斬らせた数の方が多い」

 男の言葉に、グラスの中の酒が、かすかに揺れた。

「名を捨てた。顔も変えた。だが──この喉の渇きだけは、変わらん」

 その時、不意に笑悟が盃を逆さにして見せた。  底には、小さく「明」と彫られていた。

「名を捨てた者が、名を呑む夜もあります」

 男の口元が、わずかに緩んだ。  それは微笑とは違う。だが、血の気の引いた顔に、人間の色が戻ったようだった。

「この酒──名前は」

「“阿修羅”でございます」

 男は再び盃を持ち上げ、一気に呷った。

 その喉仏が動くたび、何かが昇華していくようだった。

「明王とは、怒りを以て守る仏のことだとか」  笑悟がぽつりと言った。

 男は応えなかった。  だがその目に、夜の暖簾が映っていた。  風が止み、静けさが、ようやく降りてきた。

【壺中天 小鉢帖・其ノ壱】

── 鰯の炙りと鬼おろし ──  脂ののった鰯は、皮目をパリッと炙るのが肝要。  鬼おろしは粗めに。辛味大根ならなお良し。  ほんの少しの酢橘を搾れば、香りも味も引き締まる。

【酔悟のひとこと】  名を捨てた夜には、名を呑む酒を。今宵の一献、心に染みましたら。


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