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第弐話 涅槃は寝て待って
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春浅き雨が、石畳をしっとりと濡らしていた。
夜の帳が降りると、路地裏の灯はまばらになり、暖簾の明かりだけがやけに目立つ。
そこにあるのは、酔夢庵・笑悟が暖簾を掲げる小体な居酒屋『壺中天』。
看板もなければ、営業の札も出ていない。それでも知る者は知っている。
──ここは、少しだけこの世から外れた、あの世との狭間。
迷い込んだ客と、酒と、肴とで交わす、ささやかな話のひととき。
今宵の客は、濡れ鼠のような身なりで現れた。くたびれたトレンチコートに、斜めにかぶったハット。何かを背負ったような、深い目をしている。
「いらっしゃい、どうぞ一献。今夜はぬる燗がようございます」
笑悟の言葉に、男は無言で頷き、カウンターの一番奥へ腰を下ろした。
徳利が置かれ、小鉢が並ぶ。
筍と若布の炊き合わせ。青みの残る筍に、柔らかな若布が寄り添うように炊かれている。香り立つ出汁の湯気が、男の頬を撫でた。
「──この香りは、春ですね」
ぽつりと、男が言った。
その声に、笑悟は微笑を浮かべる。
「ええ、春です。名残雪が降っても、筍は土を割って出てきます」
男は一口、筍を噛みしめた。
シャク、と歯切れのよい音。
すぐに、出汁の旨味が舌に広がり、若布の柔らかな触感がそれを包み込む。
「……この店は、いつから?」
「ずいぶん前です。気がつけば、というやつで」
男は笑わなかったが、目尻が少しだけ緩んだ。
「人に言えないことをしてきた。いや、してきたというより、そうするしかなかった」
言葉はぽつぽつと、まるで雨垂れのように落ちた。
「気づいたら、誰もいなくなっていた。家族も、仲間も、敵さえも」
笑悟は、黙ってもう一品を出した。
白魚の卵とじ。ふるふるとした卵に包まれた白魚が、箸先でほどける。
「──涅槃って、眠ることじゃありませんよね」
男が呟く。
「いいえ、たしかに眠ることです。でも、ただ眠るだけでは涅槃に届かない」
笑悟の声は、どこか遠くを見ているようだった。
「眠るまでの間に、許すこと。手放すこと。そして、ひと匙の味を、忘れずにおくこと」
男は盃を傾け、ふ、と吐息を洩らした。
「……じゃあ、今夜は寝るとしますか」
それは、投げやりな言葉ではなかった。
どこか安堵したような、静かな決意のようでもあった。
「おやすみなさいませ。涅槃は、寝て待って」
【壺中天 小鉢帖・其ノ弐】
── 筍と若布の炊き合わせ ──
春先の筍は、米ぬかと唐辛子で軽く下茹でし、しっかりと灰汁を抜く。
若布は水で戻しすぎず、余熱で火を通すくらいがちょうどよい。
出汁は昆布と鰹、隠し味にほんのひと滴の薄口醤油と日本酒。
煮すぎず、冷ましながら味を含ませるのが、壺中天流。
【酔悟のひとこと】
眠れぬ夜は、あれこれ考えすぎるものですな。
けれど、筍の香りを嗅げば思い出すんですよ。季節は巡る、春は来る──とね。
夜の帳が降りると、路地裏の灯はまばらになり、暖簾の明かりだけがやけに目立つ。
そこにあるのは、酔夢庵・笑悟が暖簾を掲げる小体な居酒屋『壺中天』。
看板もなければ、営業の札も出ていない。それでも知る者は知っている。
──ここは、少しだけこの世から外れた、あの世との狭間。
迷い込んだ客と、酒と、肴とで交わす、ささやかな話のひととき。
今宵の客は、濡れ鼠のような身なりで現れた。くたびれたトレンチコートに、斜めにかぶったハット。何かを背負ったような、深い目をしている。
「いらっしゃい、どうぞ一献。今夜はぬる燗がようございます」
笑悟の言葉に、男は無言で頷き、カウンターの一番奥へ腰を下ろした。
徳利が置かれ、小鉢が並ぶ。
筍と若布の炊き合わせ。青みの残る筍に、柔らかな若布が寄り添うように炊かれている。香り立つ出汁の湯気が、男の頬を撫でた。
「──この香りは、春ですね」
ぽつりと、男が言った。
その声に、笑悟は微笑を浮かべる。
「ええ、春です。名残雪が降っても、筍は土を割って出てきます」
男は一口、筍を噛みしめた。
シャク、と歯切れのよい音。
すぐに、出汁の旨味が舌に広がり、若布の柔らかな触感がそれを包み込む。
「……この店は、いつから?」
「ずいぶん前です。気がつけば、というやつで」
男は笑わなかったが、目尻が少しだけ緩んだ。
「人に言えないことをしてきた。いや、してきたというより、そうするしかなかった」
言葉はぽつぽつと、まるで雨垂れのように落ちた。
「気づいたら、誰もいなくなっていた。家族も、仲間も、敵さえも」
笑悟は、黙ってもう一品を出した。
白魚の卵とじ。ふるふるとした卵に包まれた白魚が、箸先でほどける。
「──涅槃って、眠ることじゃありませんよね」
男が呟く。
「いいえ、たしかに眠ることです。でも、ただ眠るだけでは涅槃に届かない」
笑悟の声は、どこか遠くを見ているようだった。
「眠るまでの間に、許すこと。手放すこと。そして、ひと匙の味を、忘れずにおくこと」
男は盃を傾け、ふ、と吐息を洩らした。
「……じゃあ、今夜は寝るとしますか」
それは、投げやりな言葉ではなかった。
どこか安堵したような、静かな決意のようでもあった。
「おやすみなさいませ。涅槃は、寝て待って」
【壺中天 小鉢帖・其ノ弐】
── 筍と若布の炊き合わせ ──
春先の筍は、米ぬかと唐辛子で軽く下茹でし、しっかりと灰汁を抜く。
若布は水で戻しすぎず、余熱で火を通すくらいがちょうどよい。
出汁は昆布と鰹、隠し味にほんのひと滴の薄口醤油と日本酒。
煮すぎず、冷ましながら味を含ませるのが、壺中天流。
【酔悟のひとこと】
眠れぬ夜は、あれこれ考えすぎるものですな。
けれど、筍の香りを嗅げば思い出すんですよ。季節は巡る、春は来る──とね。
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