居酒屋・壺中天 〜夜酒手控え帖 〜

酔夢庵笑悟

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第参話 昼酒悟道(ひるざけごどう)

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──ある昼下がり、酔いと禅と胡瓜の話──

 

 風が鳴っていた。
 真夏の陽を孕んだ南風が、石畳の路地に吹き抜け、白いのれんの端をゆるく揺らす。そこには墨の筆文字──

 「居酒屋 壺中天」



 昼間からやっている店ではない。
 けれども、のれんは出ていた。
 そして風鈴が鳴った。まるで、招くように。

 

「あの、すみません……昼でも……いいんでしょうか」

 背筋を伸ばして立っていたのは、若い男。
 小料理屋の板場に立ってまだ三年目という、汗を拭きながらもどこか品のある青年だ。

 

 のれんをくぐると、そこは昼とは思えぬ静寂。
蔵を思わせる薄暗さの中に、ほんのりと煮干しと出汁の香。
 店の奥、カウンターの向こうには、酔夢庵の笑悟がぽつりと座っていた。

 

「いらっしゃい。昼でも、心が渇いておれば……歓迎ですよ」
「し、失礼します……あ、あの、冷や酒……ひとつ……」

 

 ぽん、と小さな徳利が出される。
 盃にひとたらし注ぐと、口元でひと息。昼の酒は、すぐに頬に赤みを宿す。

 

「さて……お困りの顔をなさってますね。
 お昼にのれんを叩く方は、たいてい、何か溜め込んでおられる」
「ええ……」

 男は唇を湿らせてから、低く語りはじめた。

 

「胡瓜が、どうにも……扱えないんです」
「胡瓜?」

 

「精進料理の道を志していて、五味五法、日々鍛錬してますが……。
 どうしても、胡瓜だけは“整いすぎてしまう”んです。
 切って、塩で揉んで、漬けても、酢にしても……
 どれも綺麗にまとまりすぎる。なのに、どこか“うすい”」
「ふむ」

 笑悟が首をかしげるより早く、
のれんの奥からぬらりと現れたのは、例の酔いどれ禅僧──

 虎鶴老師。

 

「ぬう……胡瓜とな。よい、話せ」

 老師は夏の着流しに雪駄履き。
 右手に冷酒、左手には、まさかの丸かじり胡瓜。

 

「おぬし、胡瓜を“料理しすぎ”なんじゃないか?」
「え……?」

 老師はそのまま、胡瓜をポリリと齧った。しゃくり、と水音がして、瓜の香りが立つ。

 

「胡瓜は、あれじゃ。あれそのままが仏性じゃ。
 塩を振りすぎるな。切りすぎるな。
 手を加えるほどに、遠ざかる」
「でも、料理とは、“手を加える”ことでは……」
「されど、加えすぎは“煩悩”よ」

 

 老師はくくっと笑った。
 笑悟は棚の奥から、出してきたのは、皿ひとつ。盛られていたのは、丸一本の胡瓜。
 皮を薄く剥き、斜めに切れ目を入れただけ。仕上げに、ひとつまみの粗塩。

 

「……これが、壺中天式・昼のまかない」
「これで……?」

男は恐る恐る齧った。

その瞬間──

口の中に、夏の土の香りと、瓜の青さ、そして塩が浮かぶ。
香りとともに、清水が流れるように脳が覚めた。

 

「……うまい……!」
「そりゃそうじゃ。仏性そのまま、手を加えず、
 いまここに在るものを、そのまま受け入れる」

 老師は涼しい顔で酒をぐい、と呷った。

 

「坐禅も、料理も、同じよ。
 削って削って、残るのが“本来の味”じゃ。
 足すな、混ぜるな、欲するな。
 胡瓜はな──生きてる。それだけで充分じゃ」

 

 ……酒の匂いが風に流れる。
 夏の昼、胡瓜の一口とともに、男の顔がほんのりと和らいだ。

 

「なんだか……気が軽くなりました」
「そりゃ、昼から悟った証拠じゃろ。
 ほれ、もう一本いくか?」

老師の笑顔に、男もまた、思わず手を伸ばした。


【酔悟の一言】
「昼に飲んで悟るのは、夜に悩んで寝落ちるより、
ずっと健康的ですよ」





 
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