狐に幸運、人に仇

藤岡 志眞子

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32 泥濘み

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鳳右衛門はひとり、街の同心(お巡りさん)をやっていた、万吉の家へ向かった。もう引退しているが、街の事件や事情を良く知っている。
久尾屋の客で知り合い、麻記に内緒でたまに縄暖簾で呑んでいた。
自分の過去もあり、あまり砕けた話ができなかったが聞くならこいつだ、と意を決した。
万吉の家は神宮の近く。家の籠は使わず、車を走らせ向かった。
年季は入っているが、きれいにされた一軒家。入って直ぐに竈門が設置された三和土、六畳の板張りの居間に、四畳、六畳の部屋があった。いちばん奥の六畳の部屋に促される。

「何だ旦那、こんな荒屋に来るなんざ。」

「すみません、少し聞きたい事がありまして…。」

「街の噂話でもしに来たのかい。大店の旦那も物好きだぁね。」

そう言って煙草をふかす。家には万吉以外、居ない。万吉は私が久尾屋の旦那と分かっていながら軽口を叩く、数少ない人物である。

「実は、かれこれ二十五、六年くらい前になりますか…久尾屋の前当主が亡くなった頃の話なんですが。」

「だいぶ前だな、旦那がまだこちらにいらしてない頃でぇ?西の国の本家にいたって言ってたなぁ。」

「はい、ですので少し、気になる事がありまして。」

「なんだい。」

「…前当主、亀右衛門が亡くなる手前に、薬卸業をしていた若者が心中した事件で。」

「ああ、あったなぁ。可哀想だったなぁ…まだ二十三、四歳くらいだったかな。借金苦で嫁さんと娘手にかけた後、首括ったんだったな。」

「その若者なのですが、亡くなった久尾屋の当主と何か問題などありましたか。」

「何だ、今更脅されてるってか。ない、ない。事業に失敗して借金こさえただけだ。久尾屋の旦那が何かしたなんて聞いちゃいねぇよ。」

え。

「…では、捕まった夫婦。あの夫婦は何をしたのでしょう。若者に何かしたから、捕まったのでしょう?」

「え、夫婦?事件に夫婦なんかいたかね。…別件じゃなかったか?」

別件…?

「名前、なんつったかなぁ…や、やま、山伏か。」

「は、はい。」

「山伏はな…そうだ、久尾屋の、まさしく久尾屋の旦那殺しだよ。」

「え。」

両親は、若者に脅しをして死に追いやったという話ではないのか…?麻記の話と違うではないか。まさか、亀右衛門を…?

「確か取調べに同席したよ。夫婦揃って汚くてな、痩せて…本当に殺せたのかと疑ったよ。」

「何を動機に殺しをなさったのでしょう。」

「ん、あまり話さなかったんだよ。だから、自ら罪を被って、弱みがあって口止めされてんのかってな。朝方散歩に出た旦那をよ、人気のない場所に連れてって、襲って殺しなんてできないぜ。あれは殺しのもんの仕業よ。あの旦那はそうとうたっぱのある男だったしな。」

「…弱み、とは。」

「私どもはどうなっても構わないんです、息子が幸せになれれば、って一言な。もしかしたら息子のために手に掛けたのかもしれないね…。だが、その息子と久尾屋の旦那の関係性はいくら洗っても出てこなかった。それらしい人物さえ、な。」

両親は、私が東の国に来てまた悪さをしているんじゃないかと追ってきた。家に連れ戻して更生させようとしたんだ。
一方その時の私は、久尾屋の娘の麻記に惚れていた。しかし、借金はあるしチンピラなんかが大店のお嬢さんと釣り合う訳がない。
そんな時心中事件が起こり、私は叔父と姿を眩ました。直後、亀右衛門が死んで、それが麻記の父親だと勘違いして、まさか息子が娘欲しさに殺したのではと早とちりし、久尾屋に謝りに行った。
そのふたりの話から、麻記は店先によく現れる私の両親と知る。そこで、両親には亀右衛門殺害は私がした事にして、私には若者家族の心中は私がきっかけと話す。そして両親は私を守るために安森と約束をし、処刑された。その遺体を麻記が引き取り、祥庵の寺に安置した。
叔父は何も知らずに久尾屋に謝りに行った。しかし、何の事やらとシラを切られた。
そして、私と叔父は安森に呼ばれる。強請(ゆす)られるか、しょっ引かれるかのどちらかだろうと焦った。しかし、違った。
本家の人間がやって来て、叔父ともに安森に入るように言われたのだ。
暫く空き家の離れに匿われ、髷を整え、上等の着物を着る。一般常識、所作などを叩き込まれ、一ヶ月もすると我ながら全く別の人になっていた。
私が安森の人間として、麻記は女中上がりの嫁と体裁を作り結婚した。
しかし、なぜそこまでして私と結婚したのか。私を岡っ引(おかっぴき。お巡りさんのようなもの)に出して仕舞えば済む話。そんな煩わしい事をする必要が…?

「昔に解決済みの事件だ。久尾屋側も納得してるし、若者家族の方も心中だからな…犯人どうこうなんていねぇようなもんだ。それよりよ、旦那と奥方は相変わらず仲良くやってんのかい。」

「え、麻記ですか。」

「あんな別嬪さん貰ってよ、何処の国の人だったんだ?」

「み、南の国の方です。」

「へぇ、南の国にはあんな別嬪さんがごろごろいるのかね。行ってみたいねぇ。女中だったんだろ?最初あんまりきれぇだから、久尾屋の娘とばかり思ってたよ。どうやって口説いたんだい?」

「そ、それは…。」

事件がきっかけです、なんて言えない。

「何だぁ、言えねぇってか?まぁ、奥方もなんや見ているこっちが恥ずかしくなるくらい幸せそうだったしなぁ。はなっから合い惚れだったのかい?」

え。私の前では割と素っ気無かったが。

「その頃、うちのが奥方と出掛けた事があってよ、まぁのろけてのろけて。ご馳走様って言ってたよ。」

「そ、そんな話一度も…」

「奥方はあぁいう人、久尾屋の看板だからね。うちのとお喋りなんかもしょっちゅうしてるらしいが、人が通るとぴたっと話を止めるって言うし。そののろけもそれ一回だけだとよ。おい、絶対言うなよ?俺が怒られっちまう。」

「は、はぁ。」

「お、そろそろ店が開く頃だぁな。旦那、一杯行かねぇか。」

万吉の一杯は一杯じゃない。麻記の話を肴に、朝まで飲み明かすつもりなのだろう。



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