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第2話:寂しいネコ
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~The lonly cat~
28で学生時代からの知り合いと結婚をした。
結婚5年目くらいから既に夫婦仲は怪しかった。それでも1男1女をもうけ、それなりに幸せにやってきていた。
結婚当初から妻との間で小さな諍いは絶えなかった。特に子供ができてからは、俺からすると異常なまでの心配性の妻は、子どものためにアレコレと先回りして用意しようとし、俺にもそれを求めた。将来が不安で、あれこれと習い事をさせては「向かない」と言って辞めさせた。
子供たちはだいぶ嫌がっていたようだが、彼女の言っていることは間違いというわけではないので俺も黙認していた。
年が経つにつれ、彼女の不安は募っていき、その不安を解消しないという理由で俺にも怒りの矛先が向くようになっていった。
要求が増えてくる、怒りをぶつけられることが増えてくる、最後には子供に遺産が残せないほどの年収しかないということを「父親としての努力が足りない」と暗に陽になじられるようになった。
可能な限り口論にならないようにしていたが、それが今度は「逃げている」と言われる。かといって、挑発的な口調に乗ると「DVだ」と。
周囲に相談すれば「悪口を言いふらしている」などとなじられた。
死んで保険金を残せと言われたりもした。
夫婦生活は結婚して10年ほどはあったように思うが、それ以降はなくなっていた。触れられるのも嫌な様子だったので、俺は精神的にも物理的にも距離を取るようにしていた。
そして、10年前についに限界を迎えた。俺だけではなく彼女も。
ある日、家に帰ったら妻子が居なくなっていた。離婚届と毎月多額の養育費を要求する文書だけが置いてあった。
弁護士を立てて争うことも考えたが、しなかった。
結局、子どもたちに悪影響が及ぶ。そう思ったからだ。
今では、収入の8割程度が養育費として妻に渡っている。
それでも、足りない、となにかにつけて嫌味ったらしいメールが来る。
今でも時折思い出す。憎しみのこもった目で俺を見つめ「死ねばいいのに」と言った、妻の顔を。
☆☆☆
目が覚めた。気がつくと仰向けに寝ており、音子が俺の右腕を枕にしてすやすやと軽い寝息を立てていた。
夢じゃなかったのか・・・。
一瞬、昨日のことが夢であればいいと思ったが、どうやら違うらしい。
しっかりと実在がある人間がそこにいた。
俺は音子を起こさないようにそっと腕を引き抜くと、代わりに頭の下に枕を敷く。
うーんと少し反応したが、起きることはなかった。
腕に、軽いしびれが残る。人の重みと温かさ。
音子はTシャツ一枚なので、素足があらわになっている。直視していると妙な気分になってくるので、そっと目をそらした。
ああ、随分昔のことを思い出した・・・。
俺は軽く頭を振る。時計を見ると5時30分だ。起きようとしていたのは6時だったので、まだ時間がある。
いったい、この女性をどうしたらいいんだろう。今日も仕事はある。昨日の様子だと、帰れと言っても帰ってくれそうにない。とはいえ、ここにずっといさせるわけにもいかない。
しばらく考えたが良い答えが出るわけでもなかった。
少し早いが、もう一眠りするほどの時間はないので、音子の分も含めて朝食を作ることにした。
簡単なものしかないぞ。
レタスをちぎり、トマトを添えた簡単サラダに、オムレツ、ハム、バタートーストだ。それに作り置きしてあった野菜ジュースベースの簡単ミネストローネ。インスタントだが、アイスコーヒーもつけてみた。
「おい、ね・・・美鈴さん・・・」
思わず「音子」と呼びそうになり、改めた。あまり馴れ馴れしいのも良くない。節度が大事だ。
何度か肩を揺すると、例の「ふにゃ?」という起動音とともに、目を覚ました。
「朝ごはんを作ったぞ」
言うと、ぱっと目を輝かせて起きる。
「朝ごはん!」
立ち上がり、食卓を見て歓声を上げる。そして、そのままドタドタとトイレに、用を足すと手を洗い、さっと椅子に座った。
「市ノ瀬さん!頂きましょう!!とても美味しそうです!!」
その姿を見て、思わず笑ってしまった。そして、音子は朝食もまたよく食べた。
俺が食べきる前に食べ終わり、パンのおかわりまで所望する。
「音子が洗い物をします!せめて、せめて」
と言うので、まかせてみた。見ていると、なかなか手際よく洗ってくれている。しばらく見てて、大丈夫そうなので、俺は自分の準備をすることにした。
髭を剃り、髪をとかし、着替えをする。この季節は軽装でいいので、ワイシャツとパンツで出勤だ。カバンを持って、玄関ではたと考えてしまった。
「美鈴さんは、その・・・昼間はどうするんですか?帰ら・・・ない?」
洗い物を終えて、ダイニングで新聞を見ていた音子は、顔をあげると、「帰る」という言葉に反応し、またじわっと目に涙を浮かべる。
「音子は迷惑をかけませんので、ここにいてはだめですか?
暑くても扇風機も冷房も使いません。お家の中でじーっとしています。なんなら呼吸も最小限に・・・。だから、だから・・・・!」
必死に訴える。
やっぱり・・・。
俺はちょっと嘆息する。
「暑かったら冷房をつけてください。体に悪いです。
もちろん呼吸もしてください。
ここに鍵を置いておきますので、もし出かけるときには、鍵はかけてくださいね。あと、お昼ごはんはお金をおいておきますから、近くのコンビニで買ってください。」
一応、貴重品と呼べるものは全てカバンに入れて持って出るので、まあ、問題はないだろう。
若干の不安はあるが、俺は音子を置いて仕事に行くことにした。
通勤途上で考える。
一体、音子の正体はなんなんだろう?
昨夜、躊躇なく、俺の股に手を伸ばそうとしてきた。「そういうこと」に慣れているのだろうか?そうはいっても、あまり水商売系の感じもしない。
かといって、いきなり知らない男のうちに上がり込み、「いさせてくれ」だなんて、通常はありえない。「警察に言わないで欲しい」と言っていたのも気になる。
考えてもどうにも整合性のある答えは導けなかったので、結局考えるのをやめてしまった。
ただ、その日一日、俺はどうにも落ち着かず、部下の女性からも「どうしたんですか?」と聞かれてしまう始末だった。ミスこそしなかったが、大分ぼんやりとしていたようだ。
ふとした瞬間に音子のことを考えてしまう。
音子は美人だし、若いし、俺も男だ。同じ空間で、ああも無防備にされれば妙な気持ちになってしまうこともある。
据え膳喰わねばという言葉はあるが、この状況でそれを実行してしまうほど無鉄砲ではない。素性の知らない女性をどうこうするわけにもいかないだろう。
とにかく、面倒事はゴメンだ。
早く、決着をつけなければならない。
今夜こそ、音子をなんとか家から追い出そう。そう俺は決心した。
☆☆☆
結論から言えば、俺の目論見は失敗した。
あの日の後、数日間にわたって「出ていけ」「嫌だ!」と不毛な応酬を繰り返したが、結局、音子を追い出すことができなかった。俺が根負けした形だ。10日経った今でも、俺と音子の奇妙な共同生活は続いていた。
ずっと着たきりすずめ(着たきりネコか?)というわけにはいかないので、服屋やドラッグストアに連れて行き、下着を含めて何点かの衣類や女性が生活するのに必要な用品を購入した。狭い部屋で物を増やしたくはないのだが、しょうがない。音子用のカラーボックスをリサイクルショップで購入し、そこに洋服を含めた彼女の生活用品を入れることにした。
生活上のことであるが、音子は基本的に何でもできた。料理、洗濯、掃除、およそ家事と呼べるものは一度教えればその通りにかなり完ぺきにこなしてくれた。
夜になると相変わらず俺と同じ布団で寝たがるのには辟易した。布団を買い足そうとも思ったが、置く場所がない。次善の策として、キャンプ用のエアを入れて膨らませる簡易マットにシーツを掛けて代用することにした。俺がそっちに寝るつもりだったが、音子が寝ると言い張ったので、そうすることにした。
ただ、朝になると、音子は俺の方に寄ってきていることが多かった。ピッタリと背中に張り付いていることもあり、それはそれで起きぬけに困惑することが頻回だった。
こんなふうに、最初は戸惑っていた音子の存在も、恐ろしいことに1週間もすると慣れてきてしまった。
家に帰ると夕食ができている。朝も早く起きて、朝食を作ってくれる。一人暮らしの俺にとって、家事をしてくれる音子の存在は正直ありがたかった。
前は真っ暗な家に帰るのが気が重く、家はただ風呂に入って寝るだけの空間だったが、今では生活の場として機能している。不覚にも、早く帰りたいと思うようになっていた。
音子のいる生活は、温かかった。
そんなある夜、いつものように音子が俺の背後にいる気配を感じながら横になる。
「市ノ瀬さん?」
「なんだ?」
「なんでいつも音子の方を向いて寝てくれないんですか?」
なんでって・・・、なあ・・・。
「こっち向いている方が寝やすいからだよ」
「じゃあ、位置を代わってください」
いやだよ、と言ったが、何度も何度もしつこく言うので、寝る位置を音子と代えた。
ころん、と、やはり音子とは逆の方を向いて寝る。
「右半身を下にした方が寝やすいって、言ってたじゃないですか・・・」
今、俺は左半身を下にしている。音子に背を向ける格好だ。
「たまには逆を向きたくなることもある」
「じゃあ、また代わってください」
また代わるが、当然のように今度は右半身を下に。音子に背を向ける。
「むー・・・」
音子が唸るのに、構わずにいると、ガバっと上に乗ってきた。前にも言ったが、こいつは意外と胸がある。こんなふうにされると、胸が押し付けられてきて、変な気持ちになる。やめろ。
「市ノ瀬さん、ずるいです。音子の方を向いて寝てください。」
「ちょ・・・ま・・・重い・・・」
「女の子に重いって言っちゃダメなんですよ。これは法律で決まっています」
「決まってねーよ」
「音子の方を向いてください。じゃないと・・・・寂しいです」
え?
乗っかってきた音子の顔を見る。うっすら目に涙を浮かべていた。
「音子はここに来るまでずっとひとりでした。
ここに来て、市ノ瀬さんがいて、毎日、毎日、一緒にご飯食べてくれたり、お買い物に連れて行ってくれたり、ひとりじゃなくて、嬉しいです。
でも、市ノ瀬さんは昼間お仕事でいません。
その時、音子は我慢しています。
だから、帰ってきたときくらい、寝る前の少しの時間くらい、お背中じゃなくて、お顔を見たいです。
音子はずっと、ずっと、寂しかったから・・・。」
音子の目からあふれた涙が頬を伝って俺の額に落ちる。
一滴落ちると、次々と落ちてきた。
うぐぅ、えぐっとしゃくり上げながら、音子が俺の身体の上で泣く。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだ。鼻水までたれてきそうなのを見て、ついに俺は音を上げた。
「だー!わかったよ。まずはその顔を拭け!鼻をかめ!!」
ティッシュを渡すと、音子は大きな音を立てて鼻をかみ、涙を袖口で拭った。
「市ノ瀬さんが私を避けているのは知ってます。でも、でも、お顔を見るのくらいは・・・それくらいはいいじゃないですか・・・」
そう言って、わーっとまた泣き始めた。
俺は目頭を押さえてうつむく・・・。別に避けているわけではないのだがな。
根負けした俺は、この日初めて音子と向かい合って布団に入った。俺が見ているのに安心したのか、横になって5分もしない内に音子はすーすーと軽い寝息を立て始めた。
暑いので開け放った窓から青い月影が落ちてきている。その光に照らされる音子の顔を見ていた。きれいな絹のような前髪が額にかかっている。鼻筋がすっと通っている。閉じたまぶた、長いまつげ。白磁のような頬に月明かりが跳ねている。小さな口が呼吸に合わせて少しだけ動いていた。
甘い女性特有の匂いがする。眠りに落ちる直前の火照ったような体温が伝わってきた。
そっと彼女のおでこに手を伸ばしかけて慌てて引っ込めた。
『音子はずっと、ずっと、寂しかったから・・・』
寂しいのは俺も同じだ。
音子の顔を見ていると、なかなか寝付けない。ややもすると忘れかけていた衝動があふれてきてしまいそうになる。しかし、それは許されることでない。
早く、早く・・・本来お前のいるべきところに帰れよ・・・。
音子の寝息を感じながら、俺は無理矢理に意識を闇に集中させ、眠りが訪れるのを待った。
28で学生時代からの知り合いと結婚をした。
結婚5年目くらいから既に夫婦仲は怪しかった。それでも1男1女をもうけ、それなりに幸せにやってきていた。
結婚当初から妻との間で小さな諍いは絶えなかった。特に子供ができてからは、俺からすると異常なまでの心配性の妻は、子どものためにアレコレと先回りして用意しようとし、俺にもそれを求めた。将来が不安で、あれこれと習い事をさせては「向かない」と言って辞めさせた。
子供たちはだいぶ嫌がっていたようだが、彼女の言っていることは間違いというわけではないので俺も黙認していた。
年が経つにつれ、彼女の不安は募っていき、その不安を解消しないという理由で俺にも怒りの矛先が向くようになっていった。
要求が増えてくる、怒りをぶつけられることが増えてくる、最後には子供に遺産が残せないほどの年収しかないということを「父親としての努力が足りない」と暗に陽になじられるようになった。
可能な限り口論にならないようにしていたが、それが今度は「逃げている」と言われる。かといって、挑発的な口調に乗ると「DVだ」と。
周囲に相談すれば「悪口を言いふらしている」などとなじられた。
死んで保険金を残せと言われたりもした。
夫婦生活は結婚して10年ほどはあったように思うが、それ以降はなくなっていた。触れられるのも嫌な様子だったので、俺は精神的にも物理的にも距離を取るようにしていた。
そして、10年前についに限界を迎えた。俺だけではなく彼女も。
ある日、家に帰ったら妻子が居なくなっていた。離婚届と毎月多額の養育費を要求する文書だけが置いてあった。
弁護士を立てて争うことも考えたが、しなかった。
結局、子どもたちに悪影響が及ぶ。そう思ったからだ。
今では、収入の8割程度が養育費として妻に渡っている。
それでも、足りない、となにかにつけて嫌味ったらしいメールが来る。
今でも時折思い出す。憎しみのこもった目で俺を見つめ「死ねばいいのに」と言った、妻の顔を。
☆☆☆
目が覚めた。気がつくと仰向けに寝ており、音子が俺の右腕を枕にしてすやすやと軽い寝息を立てていた。
夢じゃなかったのか・・・。
一瞬、昨日のことが夢であればいいと思ったが、どうやら違うらしい。
しっかりと実在がある人間がそこにいた。
俺は音子を起こさないようにそっと腕を引き抜くと、代わりに頭の下に枕を敷く。
うーんと少し反応したが、起きることはなかった。
腕に、軽いしびれが残る。人の重みと温かさ。
音子はTシャツ一枚なので、素足があらわになっている。直視していると妙な気分になってくるので、そっと目をそらした。
ああ、随分昔のことを思い出した・・・。
俺は軽く頭を振る。時計を見ると5時30分だ。起きようとしていたのは6時だったので、まだ時間がある。
いったい、この女性をどうしたらいいんだろう。今日も仕事はある。昨日の様子だと、帰れと言っても帰ってくれそうにない。とはいえ、ここにずっといさせるわけにもいかない。
しばらく考えたが良い答えが出るわけでもなかった。
少し早いが、もう一眠りするほどの時間はないので、音子の分も含めて朝食を作ることにした。
簡単なものしかないぞ。
レタスをちぎり、トマトを添えた簡単サラダに、オムレツ、ハム、バタートーストだ。それに作り置きしてあった野菜ジュースベースの簡単ミネストローネ。インスタントだが、アイスコーヒーもつけてみた。
「おい、ね・・・美鈴さん・・・」
思わず「音子」と呼びそうになり、改めた。あまり馴れ馴れしいのも良くない。節度が大事だ。
何度か肩を揺すると、例の「ふにゃ?」という起動音とともに、目を覚ました。
「朝ごはんを作ったぞ」
言うと、ぱっと目を輝かせて起きる。
「朝ごはん!」
立ち上がり、食卓を見て歓声を上げる。そして、そのままドタドタとトイレに、用を足すと手を洗い、さっと椅子に座った。
「市ノ瀬さん!頂きましょう!!とても美味しそうです!!」
その姿を見て、思わず笑ってしまった。そして、音子は朝食もまたよく食べた。
俺が食べきる前に食べ終わり、パンのおかわりまで所望する。
「音子が洗い物をします!せめて、せめて」
と言うので、まかせてみた。見ていると、なかなか手際よく洗ってくれている。しばらく見てて、大丈夫そうなので、俺は自分の準備をすることにした。
髭を剃り、髪をとかし、着替えをする。この季節は軽装でいいので、ワイシャツとパンツで出勤だ。カバンを持って、玄関ではたと考えてしまった。
「美鈴さんは、その・・・昼間はどうするんですか?帰ら・・・ない?」
洗い物を終えて、ダイニングで新聞を見ていた音子は、顔をあげると、「帰る」という言葉に反応し、またじわっと目に涙を浮かべる。
「音子は迷惑をかけませんので、ここにいてはだめですか?
暑くても扇風機も冷房も使いません。お家の中でじーっとしています。なんなら呼吸も最小限に・・・。だから、だから・・・・!」
必死に訴える。
やっぱり・・・。
俺はちょっと嘆息する。
「暑かったら冷房をつけてください。体に悪いです。
もちろん呼吸もしてください。
ここに鍵を置いておきますので、もし出かけるときには、鍵はかけてくださいね。あと、お昼ごはんはお金をおいておきますから、近くのコンビニで買ってください。」
一応、貴重品と呼べるものは全てカバンに入れて持って出るので、まあ、問題はないだろう。
若干の不安はあるが、俺は音子を置いて仕事に行くことにした。
通勤途上で考える。
一体、音子の正体はなんなんだろう?
昨夜、躊躇なく、俺の股に手を伸ばそうとしてきた。「そういうこと」に慣れているのだろうか?そうはいっても、あまり水商売系の感じもしない。
かといって、いきなり知らない男のうちに上がり込み、「いさせてくれ」だなんて、通常はありえない。「警察に言わないで欲しい」と言っていたのも気になる。
考えてもどうにも整合性のある答えは導けなかったので、結局考えるのをやめてしまった。
ただ、その日一日、俺はどうにも落ち着かず、部下の女性からも「どうしたんですか?」と聞かれてしまう始末だった。ミスこそしなかったが、大分ぼんやりとしていたようだ。
ふとした瞬間に音子のことを考えてしまう。
音子は美人だし、若いし、俺も男だ。同じ空間で、ああも無防備にされれば妙な気持ちになってしまうこともある。
据え膳喰わねばという言葉はあるが、この状況でそれを実行してしまうほど無鉄砲ではない。素性の知らない女性をどうこうするわけにもいかないだろう。
とにかく、面倒事はゴメンだ。
早く、決着をつけなければならない。
今夜こそ、音子をなんとか家から追い出そう。そう俺は決心した。
☆☆☆
結論から言えば、俺の目論見は失敗した。
あの日の後、数日間にわたって「出ていけ」「嫌だ!」と不毛な応酬を繰り返したが、結局、音子を追い出すことができなかった。俺が根負けした形だ。10日経った今でも、俺と音子の奇妙な共同生活は続いていた。
ずっと着たきりすずめ(着たきりネコか?)というわけにはいかないので、服屋やドラッグストアに連れて行き、下着を含めて何点かの衣類や女性が生活するのに必要な用品を購入した。狭い部屋で物を増やしたくはないのだが、しょうがない。音子用のカラーボックスをリサイクルショップで購入し、そこに洋服を含めた彼女の生活用品を入れることにした。
生活上のことであるが、音子は基本的に何でもできた。料理、洗濯、掃除、およそ家事と呼べるものは一度教えればその通りにかなり完ぺきにこなしてくれた。
夜になると相変わらず俺と同じ布団で寝たがるのには辟易した。布団を買い足そうとも思ったが、置く場所がない。次善の策として、キャンプ用のエアを入れて膨らませる簡易マットにシーツを掛けて代用することにした。俺がそっちに寝るつもりだったが、音子が寝ると言い張ったので、そうすることにした。
ただ、朝になると、音子は俺の方に寄ってきていることが多かった。ピッタリと背中に張り付いていることもあり、それはそれで起きぬけに困惑することが頻回だった。
こんなふうに、最初は戸惑っていた音子の存在も、恐ろしいことに1週間もすると慣れてきてしまった。
家に帰ると夕食ができている。朝も早く起きて、朝食を作ってくれる。一人暮らしの俺にとって、家事をしてくれる音子の存在は正直ありがたかった。
前は真っ暗な家に帰るのが気が重く、家はただ風呂に入って寝るだけの空間だったが、今では生活の場として機能している。不覚にも、早く帰りたいと思うようになっていた。
音子のいる生活は、温かかった。
そんなある夜、いつものように音子が俺の背後にいる気配を感じながら横になる。
「市ノ瀬さん?」
「なんだ?」
「なんでいつも音子の方を向いて寝てくれないんですか?」
なんでって・・・、なあ・・・。
「こっち向いている方が寝やすいからだよ」
「じゃあ、位置を代わってください」
いやだよ、と言ったが、何度も何度もしつこく言うので、寝る位置を音子と代えた。
ころん、と、やはり音子とは逆の方を向いて寝る。
「右半身を下にした方が寝やすいって、言ってたじゃないですか・・・」
今、俺は左半身を下にしている。音子に背を向ける格好だ。
「たまには逆を向きたくなることもある」
「じゃあ、また代わってください」
また代わるが、当然のように今度は右半身を下に。音子に背を向ける。
「むー・・・」
音子が唸るのに、構わずにいると、ガバっと上に乗ってきた。前にも言ったが、こいつは意外と胸がある。こんなふうにされると、胸が押し付けられてきて、変な気持ちになる。やめろ。
「市ノ瀬さん、ずるいです。音子の方を向いて寝てください。」
「ちょ・・・ま・・・重い・・・」
「女の子に重いって言っちゃダメなんですよ。これは法律で決まっています」
「決まってねーよ」
「音子の方を向いてください。じゃないと・・・・寂しいです」
え?
乗っかってきた音子の顔を見る。うっすら目に涙を浮かべていた。
「音子はここに来るまでずっとひとりでした。
ここに来て、市ノ瀬さんがいて、毎日、毎日、一緒にご飯食べてくれたり、お買い物に連れて行ってくれたり、ひとりじゃなくて、嬉しいです。
でも、市ノ瀬さんは昼間お仕事でいません。
その時、音子は我慢しています。
だから、帰ってきたときくらい、寝る前の少しの時間くらい、お背中じゃなくて、お顔を見たいです。
音子はずっと、ずっと、寂しかったから・・・。」
音子の目からあふれた涙が頬を伝って俺の額に落ちる。
一滴落ちると、次々と落ちてきた。
うぐぅ、えぐっとしゃくり上げながら、音子が俺の身体の上で泣く。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだ。鼻水までたれてきそうなのを見て、ついに俺は音を上げた。
「だー!わかったよ。まずはその顔を拭け!鼻をかめ!!」
ティッシュを渡すと、音子は大きな音を立てて鼻をかみ、涙を袖口で拭った。
「市ノ瀬さんが私を避けているのは知ってます。でも、でも、お顔を見るのくらいは・・・それくらいはいいじゃないですか・・・」
そう言って、わーっとまた泣き始めた。
俺は目頭を押さえてうつむく・・・。別に避けているわけではないのだがな。
根負けした俺は、この日初めて音子と向かい合って布団に入った。俺が見ているのに安心したのか、横になって5分もしない内に音子はすーすーと軽い寝息を立て始めた。
暑いので開け放った窓から青い月影が落ちてきている。その光に照らされる音子の顔を見ていた。きれいな絹のような前髪が額にかかっている。鼻筋がすっと通っている。閉じたまぶた、長いまつげ。白磁のような頬に月明かりが跳ねている。小さな口が呼吸に合わせて少しだけ動いていた。
甘い女性特有の匂いがする。眠りに落ちる直前の火照ったような体温が伝わってきた。
そっと彼女のおでこに手を伸ばしかけて慌てて引っ込めた。
『音子はずっと、ずっと、寂しかったから・・・』
寂しいのは俺も同じだ。
音子の顔を見ていると、なかなか寝付けない。ややもすると忘れかけていた衝動があふれてきてしまいそうになる。しかし、それは許されることでない。
早く、早く・・・本来お前のいるべきところに帰れよ・・・。
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