ネコの運ぶ夢

Kalra

文字の大きさ
11 / 15

第11話:消えたネコ

しおりを挟む
~The cat disappeared into the darkness~

雨が降って止むと、身体の周りに水蒸気がまとわりついているようで、いっそう暑く感じる。ぱたぱたと扇子であおいだとしても、生ぬるくじっとりとした空気が当たるだけだ。

暑い中歩いていると、なおさら体力が削られる気がする。
今日も、疲れた・・・。

18時過ぎ。最寄り駅から家に帰る。音子が来る前は、この道をたどる足取りはもっと重かったように思う。今は少しマシだ。以前は感じなかったが、帰って、アパートの扉を開けたときに広がる真っ黒な空虚は、知らない間に俺の心を少しずつ削っていっていたのだろうと思う。

家の下についた。3ヶ月前、音子がうずくまっていたブロック塀だ。見上げると俺の部屋の扉が見える。明かりが漏れていた。

家に明かりがあり、自分以外の誰かが呼吸をしている。それが、とても嬉しかった。

階段を登っていると、上から誰かが降りてくる。珍しいな。ここで人とすれ違うのは。お隣さんだといけないので、ちらと顔を見たが、30代くらいの知らない男性だった。この暑いのに、ネクタイこそしていないが、黒色のスーツだ。このボロアパートにはえらい場違いな雰囲気だと思った。なにかの集金というわけでもないようだし、もちろん住人でもない。

少し後ろを振り返り、見送るが、男性はそのまま街角に消えていった。

玄関扉を開こうとすると、珍しく鍵が開いている。音子は基本、昼間は自分が家にいるときでも鍵をかけている。女性一人なのだから、その方がいいに決まっている。

扉を開けると音子がダイニングのテーブルにぼんやりと座っていた。

「ただいま、音子」

声をかけるが、しばらく反応がない。4~5秒くらいしてやっと「おかえりなさい、市ノ瀬さん」と笑顔を向けてくれたが、その笑顔がなんとなくぎこちないように感じた。

なにか、あったのか?

「どうした?具合が悪いのか?」

尋ねるが、ぶんぶんと頭を振る。「あ、お夕飯、準備するね」そのまま台所に立って準備に取り掛かってしまったので、その話題はなんとなく流れてしまった。

やっぱり様子がおかしいな。

ただ、まあ、例のお仕事見学の日から数日間は、帰ってくるなりくんくんワイシャツの匂いを嗅がれていた。そんな日々よりはいいかもしれない。
幸いなことに数日で音子のくんくんブームが去ったようで、ここ2週間位は匂われることもなかった。

今日の夕食は、

鶏肉とパプリカの黒酢炒め
きのこの中華スープ
ごはん
箸休めにザーサイ

だった。中華か、珍しい。

「いただきます」と、箸を進めるが、やはり何か音子が精彩を欠いている。一応「今日、お仕事はいかがでしたか?」とか「昼間にすずめが飛んできてー」とか、割とどうでもいいことについて話をする。これはいつものことだ。でも、どこか、心ここにあらずといった様子だった。

とはいうものの、さっきも言いたくなさそうだったし、少しそっとしておくしかないだろうか。音子も大人だし、秘密のひとつやふたつあっても不思議ではない。

と、いうか、俺は音子の何を知ってるんだろう。
どこから来て、これまで何をしてて、家族はいるのかいないのか、年齢すらわからない。全部が謎だ。
音子が話したがらないことをあれこれ詮索するのはいけない気がするが、こうして悩んでいる様子を見ると、何も知らないことで、何もできない自分がもどかしい。

食事が終わり、音子が片付けをする。俺はテレビを見ながら横目でその様子をうかがう。本当に不思議な子だし、不思議な関係だ。

家族ではない、恋人でもない、本当に拾ってきた猫と飼い主のようだ。

食事の片付けが終わればあとは特にすることはない。音子が変なことを言い出さない限り、シャワーを浴びたり、テレビを見たり、トランプゲームをしたり、読めていない新聞を読んだりして、就寝時間になったら寝る、というのが大体いつものパターンだ。

ふたりともシャワーを浴び終わると、先に出てテレビを見ている俺の横にピッタリと音子が貼りつていくる。最初は風呂上がりの匂いにかなり動揺し、「距離を取れ」だの「くっつくな」だの言っていたが、今ではそのままにさせている。

慣れた、というより、はっきり言って、ちょっと嬉しい。

特に大した番組がやってるわけではないが、二人でぼんやりテレビを見たり、なにかの拍子に一緒に笑ったりする時間はとても安らぐ。時折、音子が俺の肩に頭を擦り付けてくる。それが、また、愛おしい。

そろそろ寝る時間だ、ということで、布団を敷く。この時間になると、音子は本当に楽しそうだ。俺が先に横たわると、腕をよいしょと引き伸ばし、頭を乗せる。
2~3回グリグリと腕に額や頬をこすりつける。いつもの音子だ。

消灯

大体、彼女はすぐに眠りにつく。たまに寝付けないことがあるときには話しかけてくることもある。今日は、眠れないパターンのようだ。

「あの・・・市ノ瀬さん」
俺の方に身体を向けて神妙な声で言う。まだ闇に目が慣れていないので、どんな顔をしているかわからないが、じっとこちらを見つめている気配がする。

「音子を・・・」
言いかけたまま、じっと押し黙る。なんだ?気になるぞ。
そのまま額を俺の胸元に寄せると、少しだけ押し付けてきた。

「ごめんなさい・・・なんでもないです・・・」
その日は、ちょっとだけ、いつもより近い位置で音子は眠りについた。

☆☆☆
眠れない。

市ノ瀬さんの寝息が聞こえる。眠りにつくと、呼吸の様子が変わるのですぐに分かる。寝ているなら、わからないよね?

私は身体を起こすと、市ノ瀬さんを起こしてしまわないように、そっと手のひらでお顔や額、頬を撫でる。

ここに来た日のことを思い出す。あのときは本当に限界で、どうしていいか分からなくて、そして、そもそも動けなくて、この家の前でうずくまっていた。

捨て猫のようだ、と思っていた。行き場がない猫、野良猫はすぐに死んでしまうという。私もそうして死ぬんだと本気で思っていた。

市ノ瀬さんに名前を聞かれた時、咄嗟にみーちゃんのことを思い出した。猫になりたかった。どうせ捨て猫だ。だから「ネコ」と答えた。漢字は適当。音楽が好きだったから音、あとは知っている人の名前を適当に。

こうして私は「美鈴音子」になった。最初は冗談みたいだと思った。

初めて市ノ瀬さんと一緒に寝た時、お礼をしなきゃと思った。女の私ができる精一杯のお礼。お金も持っていない、なにもない私が役に立てるのはこれくらい、そう思って、経験がなくて怖かったけど、彼のモノに手を伸ばした。

でも、市ノ瀬さんは私にそれをさせなかった。

どうしてと思ったけど、「そんなつもりじゃない」とだけ言った。そのとき、私は勘違いかもしれないけれど、「ああ、役に立たなくてもいていいんだ」と思ってしまったのだ。

それが勘違いじゃないことは市ノ瀬さんと一緒にいてすぐにわかった。
市ノ瀬さんは、私が何かをすることを求めなかった。そして、私の気持ちを考えてくれたし、それに応えようとしてくれた。

私を自分の役に立てようとするのではなく、自分が私の役に立とうとしてくれた。

これまでの私の人生にないものをいっぱい、いっぱいくれた。

だから、市ノ瀬さん、あなたのことが好き。
言葉にしきれないくらい、大好きだよ。

本当は、今日、今日だけは、市ノ瀬さんに抱いてほしかった。わがままが言えるなら、「私をあなたのものにして欲しい」と言いたかった。

でも、きっと、そう言ったら困らせてしまうのも分かっていた。言えば、きっと優しいあなたはとても困った顔をして、そうしない言い訳を考えようとするだろう。私を傷つけないように、たくさんたくさん言葉を選んで。

市ノ瀬さんはいつも私を大切にしてくれる、私のことを一生懸命考えてくれている。それは痛いくらいに分かる。だから、きっと、ただただ困らせてしまうだけなんだ。

それに、そもそも私は市ノ瀬さんに愛してもらえるような人間ではない。私がここにいれば、市ノ瀬さんの迷惑になってしまう。

なにかの小説で読んだセリフが思い出される。

「運命からは逃げられない」

その言葉どおり、今日、その運命が私のもとにやって来た。あの人達は、私に猶予なんて与えない。

この温かい人の迷惑にだけはならないように。
この人だけは、世界一幸せになって欲しい。

だから・・・

「さよなら・・・市ノ瀬さん」

呟いた声は、闇に溶けて消えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

処理中です...