無関心夫の手を離した公爵夫人は、異国の地で運命の香りと出会う

佐原香奈

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シンデレラはヒロインだけれど

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 石畳を叩く馬蹄の音が、祝祭の喧騒に混じって遠ざかっていく。
 日が照らすその先で、私の夫であるセドリック・グランチェスター公爵を乗せた馬車が、一切の躊躇なく加速していった。



 御者が扉を閉める際、一瞬だけ車内の様子が見えた。


 彼は膝の上に広げた書類に視線を落としたままで、置き去りにした妻を気にしている素振りすらなかった。



 今日は建国祭。このアルカディア王国が最も華やぐ日だ。王城の大広間ではパーティが始まったばかりで、着飾った貴族たちが夜更けまで続く宴に酔いしれるはずだった。



 それなのに、彼は形式的に陛下へ挨拶を済ませると、隣に立つ私に一言の断りもなく背を向けた。さも「公務としての出席」というノルマを達成し、ここには何も用がないとでも言うようだった。



 妻である私をその場に残していくことが、社交界でどのような噂を呼ぶか。私の尊厳がどれほど踏みにじられるか。彼はそんなことに一分の興味も持っていないのだ。
 もし、この振る舞いが公爵家としての「至極当然の礼儀」だと彼が本気で思っているのなら。
 今すぐその、彫刻のように整った、けれど血の通っていない頭をかち割ってやりたい。




「……馬車を呼んで。魔法が解ける夜を待たずとも、お昼の鐘が鳴る前に、私の魔法はすっかり消えてしまったみたい」



 日傘を差しかける侍女のアンに、私は努めて冷静な、けれど硬く冷え切った声で告げた。
 アンは一瞬、絶句したように私を見つめたが、主人の瞳に宿る決定的な「諦念」を悟ったのか、深く頭を下げて下がっていった。



 背後からは、扇で口元を隠した令嬢たちのクスクスという忍び笑いが聞こえてくる。


「あら、また置いていかれたのね」

「『氷の公爵』には、人形のような夫人がお似合いだわ。だって、話しかける必要すらないんですもの」


 刃のような言葉が背中に突き刺さる。視線を揺らすこともなく、背筋を伸ばし、重厚な扉をくぐって、私は自分の「戦場」だった舞踏会をあとにした。


 シンデレラにさえなれなかった私が、この眩い光の檻に長居する理由は、もうどこにもない。



 ――私たち夫婦には、初めから「温度」が存在しなかった。



 時計の針を数年前に戻す。
 まだバーンズ伯爵令嬢だったあの頃、セレスティーヌ・バーンズにとって、デビュタントの夜は一生に一度の、宝石箱を開けるような夢の舞台のはずだった。


 シャンデリアの光がこぼれる大広間。甘い花の香りと、鼓膜を震わせるオーケストラの調べ。初めて纏う、淡いブルーのドレス。私は緊張で指先が氷のように冷たくなるのを感じながら、壁際で「その時」を待っていた。


 物語のように、誰かが私を見つけ出し、手を取り、夢のようなステップへ誘ってくれる――そんな、少女特有の淡い幻想を抱きながら。



 その時、人波が波紋のように割れ、一人の男が、こちらへ歩いてくるのが見えた。


 周囲の令嬢たちが一瞬で静まり、吐息を漏らす。


 圧倒的な存在感。漆黒の夜を凝固させて仕立てたような夜会服に、冷徹なまでに整った美貌。銀色の髪は月光を浴びた氷河のように輝き、その瞳はすべてを見通しながら何も映さないサファイアのようだった。



 心臓が早鐘を打つ。彼は私の前でぴたりと足を止めると、ダンスを申し込むためのレヴェランスをするでもなく、ただ射抜くような視線を私に落とした。



「……セドリック・グランチェスターだ」


 彼こそが、今日の主役と噂される若き公爵――セドリック・グランチェスター。



 低く、ひどく無機質な声。
 私が次の一言――ダンスの誘いか、あるいはせめて初対面の挨拶を待って息を呑んだ、その刹那だった。


 彼はそれ以上何も語らず、翻したマントの裾で冷たい風を残したまま、雑踏の中へと消えていった。



 差し出しかけた私の右手は、行き場を失って宙に浮いたまま。


「え……?」



 あとに残されたのは、耳の奥に刻み込まれた彼の名前と、彼が去った方向に漂う微かな白檀(びゃくだん)の香りだけ。

 エスコートされる夢も、魔法のような夜の始まりも。私のデビュタントは、たった一行の「自己紹介」だけで、あっけなく置き去りにされてしまったのだ。



 結局、私は別の男性の誘いを受け、あの出来事を「社交界の厳しい洗礼」なのだと言い聞かせて無理やり忘れ去ろうとした。

 けれど、パーティの途中で顔色を変えた両親に連れられ、逃げるように帰宅することになった時、事の重大さを知った。



 あのトラウマ級の自己紹介が、彼にとっては「婚約の申し込み(プロポーズ)」だったのだ。



 その日から、私は「公爵の婚約者」となった。


 婚約期間は半年。その間、私は何度も彼に手紙を書いた。
 季節の挨拶、好きな本の話、あるいは新しい生活への不安。少女らしい期待を込めて、上質な便箋にインクを乗せた。
 けれど、返信は一通もなかった。
 届くのは、公爵邸の家令が書いた衣装合わせの日程などの事務的な書類のみ。

 愛を育む時間など、最初から用意されていなかった。
 私は毎朝、郵便受けを確認しては、空っぽの虚無を飲み込んで微笑んだ。


「閣下はお忙しいのだから」


 そう自分に言い聞かせる日々は、少しずつ私の心を削っていった。


 結婚式の日、私はもう、愛されているだなんて甘い期待はしていなかった。



 公爵家に縁談を持ち込まれて、断れる家などこの国には存在しない。ならば、自分ができる限りの努力をして、この冷え切った関係に温もりを灯そう。


 それが、私の結婚式という儀式でした「決意」だった。


「セレスティーヌ」


 誓いの壇上。ウェディングドレスの重みに耐え、「決意」をして虚空を見つめていた私を呼ぶ声がした。


 不意に引き寄せられ、唇に触れた冷たい感触。



 それが私のファーストキスであり、おそらくはラストキス。


 彼の瞳には、喜びも、愛おしさも、一片の熱すら宿っていなかった。それはただ、儀式の工程を一つ消化しただけの「事務作業」としての接触だった。



 結婚してから5年。

 私は完璧な公爵夫人であろうとした。彼の好みの茶葉を調べ、領地の膨大な帳簿を整理し、無言の夕食の席でも明るい話題を振りまき続けた。


 けれど、セドリックという男は、私の言葉に頷くことさえ稀だった。彼は常に、私という存在を「そこに置かれた調度品」として扱った。



 そして今日の、建国祭。
 自分を捨てて去っていく夫の背中を見て、私の糸はぷつりと切れた。
 一滴ずつ溜まっていた絶望が、コップから溢れ出したのだ。
 迎えの馬車に乗り込み、一人きりの座席に身を沈める。
 豪華な内装。公爵家の紋章が入ったクッション。それらすべてが、私を縛る鎖に見えた。




「アン、屋敷に戻ったら準備をして」

「準備、といいますと……お召し替えでございますか?」

「いいえ」



 私は窓の外を見つめ、静かに、けれどはっきりと告げた。


「旅の準備よ。私は今日、グランチェスター公爵夫人の名を捨てるわ」


 胸の奥で、何かが崩れ落ち、同時に新しい芽が吹くような感覚があった。


 愛を装うことはやめよう。


 セレスティーヌ・グランチェスターは、今日、この真昼の太陽の下で、自分自身の人生を取り戻すための逃避行を始める。
 お昼の鐘が鳴り響く。
 それは、惨めなシンデレラの終わりを告げる音ではなく、自由へと踏み出す号砲だ。



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