無関心夫の手を離した公爵夫人は、異国の地で運命の香りと出会う

佐原香奈

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魔法の残骸

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 深夜、グランチェスター公爵邸の門前に馬車が止まった。
 扉が開くと、セドリックと共に一人の男が降り立つ。
 秘書官のライナスだ。



 玄関ホールの扉を前にして、セドリックは不意に足を止めた。いつもなら扉の両脇に控えているはずの衛兵も、出迎えの給仕もいない。


 ただ、夜の闇が建物の奥へと深く吸い込まれている。


「……ライナス、今夜はもういい。帰れ」

「閣下? しかし、建国祭での通商案の整理がまだ……」

「明朝で構わん。今夜の屋敷は、どうも様子が違う」


 セドリックの言葉に、ライナスは玄関の銀トレイに置かれた一通の書状に気づいた。
 筆頭執事バートランドの筆跡だ。



「なるほど。セレスティーヌ様も粋な計らいをなさる。先日、お兄様を亡くされたばかりで、お寂しいのでしょう。今夜の私は、この上なく無粋な不純物でした」



 ライナスは恭しく一礼すると、再び馬車へと戻っていった。


 一人残されたセドリックは、その言葉に僅かな不快感を覚えながら、バートランドの書状を手に取った。


『閣下へ。
 今宵は建国祭という佳き日、奥様より「全使用人に特別休暇を」との異例の仰せを賜りました。
 奥様は「今夜は五年という節目の建国祭。亡き兄上のことなど、悲しいことは一度忘れ、今夜だけは夫婦二人きりで静かに語り合いたい」と、殊の外切実な面持ちで私に告げられました。
 その真摯な想いに免じ、不本意ながら明朝まで屋敷を空けさせていただきます。』



「二人きりで語り合いたい……だと?」

 

 セドリックは、冷めた溜息をついた。
 五年間、彼女がそんな情緒的な望みを口にしたことは一度もない。


 合理性を好む彼にとって、執事さえ不在の夜は実務上の不備でしかないが、彼女なりに「兄を失った孤独」を埋めるための無為な時間を求めたのだろうと、自分に都合よく解釈した。



 五年という節目。


 彼女がどんな顔をして、老練なバートランドさえも納得させる「健気な妻」を演じ、この無人の檻を作り上げたのか。


 セドリックは、その緻密な計画の意図に、まだ一塵も気づいていなかった。


 セドリックは、重苦しい静寂が満ちる廊下を歩きながら、彼女の五年間を反芻した。


 五年前、あの日も今日のように晴天だった。



 華やかな結婚式の熱狂が冷めやらぬ帰り道。


 バーンズ伯爵夫妻――彼女の両親を乗せた馬車が、崖下に転落した。


 娘の最良の日を見届けた直後、彼らは帰らぬ人となったのだ。



 新婚初夜、白いドレスを喪服に着替えた彼女の姿を、セドリックは覚えている。


 彼女は泣かなかった。


 「公爵夫人」としての責務を果たすため、その夜から今日まで、一度も涙を見せることはなかった。




 そんな彼女を繋ぎ止めていた、最後の一本の糸。


 今年も社交シーズンの幕開けと共に、王都へ向かっていた兄。その兄もまたその道中で先日、盗賊に馬車を襲われて命を落とした。



 セドリックは、葬儀から戻った夜の彼女の姿を思い出す。



 彼女はいつも通り、彼の好みの茶を淹れ、完璧な手際で領地の書類を整理してみせた。



 結婚式の直後に両親を失い、しかし家督を継いだ兄のためにも頑張っていたが、兄までもが殺された。


 この公爵家という冷たい檻で、彼女が頑張り続ける理由など、もうどこにも残っていなかったのだが、それにセドリックが気づくことはなかった。



 彼女の部屋の扉は、誘うように僅かに開いていた。


 踏み込んだ瞬間、鼻を突いたのは、いつもの柔らかな花の香りではなく、鋭いほどに鮮烈な、刺激的な香料の残り香だった。



 床には「抜け殻」が転がっていた。


 真珠と刺繍があしらわれた、最高級の絹の靴。左右バラバラに脱ぎ捨てられたそれは、持ち主が「魔法」を力ずくで剥ぎ取った跡のように見えた。


 鏡台の上には、彼が五年間贈り続けた宝石たちが、一点の曇りもなく並べられている。
 そして、ライティングデスクの上に、二枚の紙が置かれていた。
 一枚目は、『離縁届』。
 二枚目は、彼への短い手紙だ。



『……どうか、これからはあなたの大好きな「効率」と「静寂」の中に、お一人で生きていってください。』



「……馬鹿な。どこへ行くつもりだ」



 セレスティーヌには、もう帰る場所などない。バーンズ家は、疎遠だった叔父が継ぐことになったはずだ。


 だが、彼女は執事に休暇を与え、秘書官さえも笑顔で追い返させる舞台を完璧に作り上げ、この屋敷から消えた。
 手紙の最後に綴られた、追伸。



『あの白檀の香りは、今のあなたには少し「冷たすぎる」ようですわ。』



 彼は無意識に、自分の袖口に鼻を寄せた。
 高潔な白檀。彼自身、それが自分にふさわしい「正解」だと信じていた。


 だが、今この部屋に満ちている、去り際の彼女が残した「始まりの香り」に比べれば、それはあまりにも無機質な、死者の香りに感じられた。



 セドリックは離縁届を机に叩きつけ、独り、暗い書斎へと戻った。



「……追わせるか。いや、叔父の元へ行ったところで、すぐに泣きついてくるだろう」



 彼はそう確信しようとした。頼るべき肉親をすべて失い、実家さえ「他人のもの」となった女が、一人で生きていけるはずがないと。


 だが、セドリックはまだ何も分かっていない。


 彼女にとって兄は、この国に、そして彼に、繋ぎ止める鎖だった。その最後の一片まで消えたのだ。



 葬儀から戻った彼女が浮かべた、あの穏やかな微笑み。



 あれは「悲しみを堪えた妻の顔」などではなく、「これでようやく、誰にも迷惑をかけずに消える準備ができる」という、絶望の果てに掴み取ってしまった解放へ希望の笑みだったのだ。



「バートランドが戻り次第、バーンズ伯爵家へ使いを出せ」



 暗闇の中で命じるが、返る声はない。


 翌朝、彼が送る使いが、何も知らない叔父から「そんな女の行方など知らん、葬儀の日に会ったのが最後だ」と追い返されるのを見て、彼は初めて気づくのだ。



 彼女はもう、グランチェスター公爵夫人という名の「展示品」であることを、自ら完結させたのだと。
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