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愛との別れ

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 王都には二度と来ないだろうと言われていた伯爵令嬢が王都に来て、三ヶ月が過ぎようとしていた。しかし、これといった報道はなく、彼女は王都の屋敷で過ごしているという。


「トーマスから手紙?見なきゃダメ?」

「破り捨てたって誰も責めやしないわ。でも、そこに知りたかったことがあるかも知れないでしょ?」

 エマはアンナから手渡された手紙を見てため息をついた。この手紙がいい内容な訳がない。
 トーマスが侯爵令嬢と付き合い始めたと噂で持ちきりだった頃、エマは何度も彼に会おうとした。誤解ならばいくらでも弁明できる機会はあった。だが、彼は私と話そうともせず、目を合わせることもなかった。もしこれが、仕事だったとしたら、同僚を通じてでも連絡をしてきたはずだった。


「ローズロード第四区画の屋敷、明日の明け方仕事の前に来てくれ」


 名前すらも書かれていない封筒を開けると、ただ一文だけがそこに記されていた。トーマスから手紙をもらったのはこれが初めてだ。初めての手紙が挨拶文すらない事務的なものだとは思ってもいなかった。

「行くでしょ?」

「わざわざ別れ話をしに?今更?」


 とっくに私は捨てられた女となって、エリート階級の騎士に遊ばれた惨めな女だと言われている。まだ新人だった彼をエリート階級だと知る仲間はいなかった。でも当時のことを知る仲間はもうアンナしかいない。


 トーマスからはまだ一度も貴族の息子だとは直接言われたことはない。田舎者だと言った彼を信じたのが馬鹿だったのだ。直接聞く機会がなかったわけじゃない。だけど気付いた時にはすでに彼は仕事で忙しくなり、ただただ会うことも少なくなっていた。それもまた言い訳だった。このまま結婚出来ると思っていた幸せな時間を、偽りの時間だと認めたくなかったそれだけのことだった。


 薄明の頃、私は静かに寮から出た。


 とっくに別れた恋人みたいだった人と会う理由は見つけられなかったし、自分が期待しているような都合のいいことは起こらないことも分かるくらいには冷静に足を進めていた。その手には小さなトランクを一つ持っている。



 エマは寮から出る前に侍従長の部屋に退職願を置いて、部屋にはアンナに手紙を置いた。今の状態では仕事を続けることは難しいことに気付かないふりをするのにも限界があった。あの手紙は丁度いいチャンスだった。


 若い子ばかりの職場で、その若い子達をまとめなければならない立場で、愚かだと思われていていい方向に話が進むことはない。村からも再三結婚の催促が来ている。年齢的にも、一人で生きていくという親不孝者と呼ばれる覚悟がないならば、お見合いをしなければならない年齢だった。


 女が一人で生きていくのはとても難しい。三十過ぎれば仕事はなくなる。平民の女が生きていくのは相当な努力と幸運がなければ上手くはいかないのは、次々に辞めていく自分の周りを見ていれば明らかなことだった。


「エマ、入って」


 見るからに平民向けではない庭付きの家に着き、ノッカーを鳴らせば、トーマスは今までの態度が嘘のように普段通りの眼差しでエマを招き入れた。


 これまで腰掛けたこともない柔らかなソファに座ると、彼と私の間には勘違いなんてさせないと言うほどの身分の違いを感じた。そんなことはずっと分かっているのに、それでも咎められているようだ。


「エマ、ごめん」


 トーマスは私を座らせると、その目の前に膝をついて私の手を握った。


「何を謝っているの?」


 どうしてトーマスが苦い物でも食べたかのように口を歪ませているのか不思議だ。それは本来エマがしなければいけない顔だ。辛いのはエマのはずだ。だが仕事の時とは違う声色で謝り、エマだけを見ていた。


「君と………」

「…きみと?」


 エマは沈黙が長く続き、先を求めた。王都をさるのは早ければ早いほどいい。


「ッ…今日の紙面で……僕の婚約が発表されるんだ」
 
「おめ…でとうございます」


 エマは流石に思ってもいなかった婚約発表に強い痛みを感じたが、絶対泣いたり縋ったりしないとキッと奥歯を噛み締めてから祝福を表した。これは私に婚約すると聞いても変な噂を流すなと言っているのだと。心底バカにされたものだと思った。


 貴族だと教えてもくれなかったのに、貴族だと分かっている前提で話す彼は、エマの知っているトーマスではない。


「祝ってくれなくていい。これは僕の意図した結果じゃない…僕はここでエマと暮らして行きたかったんだ…」
 

 それからトーマスはポツリポツリと話し始めた。司令部に所属し出してからの威厳は全く感じなくて、エマにとっては馴染みのある、少し気弱そうな新人騎士がポカをした時のようにエマの前で膝をついている。


 任務で三人の騎士が情報を得る為に女性に近付くように指示を受けた。トーマスは初日にハズレを引いたと分かるくらい情報は得られないと判断し、すぐに任務を終えるはずだった。しかし、ウィンストン家がそれを許さなかった。


 ウィンストン伯爵家は前妻との間に四人の息子がおり、後妻には息子が一人、娘が一人いた。長男である後継者以外が領地運営に関わることは、立場を確保する為に後妻は許さず、トーマス達は騎士になるか文官になるか選択を迫られた。長男以外は関心のなかった家だったので、兄二人は男爵家と没落貴族の娘と結婚し、口を出されることはなく、家との関係の薄いトーマス自身も自分の手で手に入れた騎士伯に合う結婚相手を望んでいた。


 この家は騎士としての給金で手に入れ、崩れていた箇所もあったために少しずつ直しながら、住めるようになったらエマにプロポーズするつもりで一年かけて用意した。


 任務で関わった侯爵令嬢からは手を引くことが決まったとき、ウィンストンの事業にとって有益である相手だということで、ウィンストン家は縁談を正式に持ちかけた。父である当主の判断に、付属物であるトーマスの意思は関係がなかったらしい。


 任務として近付いたので、当然騎士団内部でも解決に動いてくれたが、貴族の結婚に効果的となるような手はなかった。揉めているうちに陛下が結婚の許可証を発行してしまい、家族にも騎士団にも強く抗議をしたが、トーマスにはウィンストン邸で発言権はなく、今日婚約の発表をするに至った。結婚許可が下りている以上、結婚することが決まった。


 日々状況が変わっていくことに抵抗している中で、エマには言えることは一つもなかった。何を約束することも、その場限りの嘘をつくことも、誰も出来なかった。



 エマは自分の目から涙が溢れてくるのを止めることができなかった。呼吸は速くなる一方だった。エマの手を握っていたトーマスはエマの背中に手を回した。


 悲しいわけではなかった。どちらかといえば、混乱していたが今までの全てが本物だったのが嬉しかった。エマが諦めていた愛はちゃんとあった。

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