【R18】パートタイム・ラブアフェア ~女に還る秋~

シンカー・ワン

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女に還る

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 今が引き際。
 そう考えた私は、店長さんにもしかしたら辞めるかもしれないことを告げた。
 いきなり辞めたりしたら、お店も困るし、夫も不審に思うだろう。
 まずきちんと夫と相談をして、体裁を整えてから……。
 なんてことはない、結局は我が身可愛さ。

 ――姑息な人間だと、自嘲する。


沙貴恵さきえさん、辞めちゃうんスか?」
 それとなく店長さんに告げてから、まだ夫には言えないでいた木曜日の仕事終わり。
 スタッフルームという名の狭い休憩室で、帰り支度を済ませた私へ、畑中はたなかくんが不安げな口調で訊いてきた。
「うん、家の都合でね。たぶん、だけど――」
 出来るだけ平静を保ちながら応える私。
 畑中くんはこの世の終わりとでもいうような顔をして、閉じた休憩室のドアの前で立ち尽くしていた。
 そして、
「……俺の、所為、ですか?」
 下を向いて、搾り出すような声音で告げてくる。
「俺が……沙貴恵さんに……」
「違うわっ、家の事情だから――」
 彼のその先の言葉を聞くのが怖くて、声を被せてから、
「畑中くんの所為だなんてこと、ないのよ?」
 辛そうな顔を向けてくる彼を傷つけないように、努めて柔らかく言う。
「……沙貴恵、さん」
 じっと私を見つめる、捨てられた子犬のような彼の瞳にほだされて、
「――畑中くんの気持ち、嫌じゃなかったわ」
 言ってはならない言葉を、
「嬉しかったのよ……」
 つい口にしてしまった。

 その言葉が引き金になってしまったのだろうか?
 立ち尽くしていた畑中くんがさっと動いて、私を壁へと押し付けた。
「は、畑中、くん?」
 突然のことに驚き、彼を見上げた私のくちびるに、
「――んっ」
 柔らかくて暖かなものが押し当てられた。
 視界いっぱいに映る彼の顔で、くちづけされたことを悟る。
「はたな」
 軽く触れただけのくちびるが離れた際、どうして? と問いかけようと口を開きかけたが、
「沙貴恵さんが好き、です」
 真っ直ぐに見つめてからそう言って、再び重ねてきた彼のくちびるに塞がれた。

 優しく触れた先程よりも、強く荒々しいくちづけ。
 畑中くんの胸に腕を当て、押し返そうとしたら、逆に抱きしめられてしまった。

 むさぼるみたいに重ねられた彼の口から差し込まれた舌が、私のくちびるを開こうとする。
 ぐっと拒んだが、必死に閉ざされた扉を開こうとするひたむきさに押し負け、彼の舌の侵入を許してしまう。
 私の口の中で、がむしゃらにうごめく畑中くんの舌。
 受け入れてくれて嬉しいと、そんな気持ちが伝わってくるような動き。
 口内へと与えられる愛撫に応えるようかのに、いつしか私も舌を差し出していた。
 蛇の交尾のように舌を絡ませながら、互いの唾液を交し合い、啜り飲み下す。

 狭い休憩室に静かに響く私たちの荒い呼吸と、重なり合ったくちびるの間から漏れる、淫らな水音。

 気が付けば私は腕を彼の背に回していて、細身だけれど程よく引き締まった畑中くんの身体を抱きしめていた。
 密着した状態から、畑中くんの男性自身が硬度を増していくのが伝わってくる。
 衣服越しに、下腹へと押し付けられるそれに呼応するように、私のお腹の奥がじんわりと熱を帯びてくる。

 くちびるが解放され、足りなくなっていた酸素を求めるようにあえぐ私たち。
 改めて抱きしめられ、背に回された畑中くんの手が私のお尻を這う。
 張り付いた両の手のひらが、ゆっくりと動き出し揉みしだきだす。
 同時に私の脚の間に割り込んだ彼の足が、股間へ強く押し当てられる。
 女の部分を前後から刺激されて、昂ぶり始める私。
 くちびるを噛んで声を殺し、ギュッと畑中くんにしがみつく。
 耳元で響く彼の荒い呼吸音に紛れて聞こえてくる、
「……沙貴恵さん、沙貴恵さん……沙貴恵さんっ――」
 何度も何度も繰り返される私の名。
 熱くなった身体が、彼を受け入れるために潤い始め出す。

 畑中くんから与えられる快感に、私の理性が崩れ落ちようとしていたまさにその時、
 
「畑中くーん、ちょっと聞いときたいことがあるんだけど、いいかな―? 」
 休憩室の外から、店長さんの和やかな声がかかった。

 その声で弾かれるように身を離す、私と畑中くん。
 重なり合っていた身体の熱が逃げたことで私は我に返り、慌てて彼に背を向ける。
 さっと乱れた衣類を整え手荷物を抱えると、彼から逃げ出すようにして休憩室から出ていく。
 扉の向こうにいた店長に、何事もなかったかのように挨拶をしてから仕事場を去った。


 帰宅後、家人のいない家の中を足早に寝室へ。
 着替えもせずに、まだ火照りの残る身体をベッドに仰向けに投げ出す。
 荒い呼吸のまま、両腕を顔の前で交差させ、目を閉じる。
 思い返す、我が身へと与えられた畑中くんの熱情を。
 左腕で目を覆ったまま、右の指をそっとくちびるに。
 くちづけの感触が甦り、下腹の奥が再び熱を帯び、疼きだす私の中の "女" 
 股間から湧きあがる、じりじりとした無図痒さを抑え込むように、ひざを立て腿をこすり合わせる。
 快楽を求める本能にあっさりと屈服し、流されるように身をゆだねる。
 くちびるから離れた指が、スラックスのジッパーを下ろし、湿りの残る下着の中に潜り込む。
 ぬめった水音を立てながら、肉襞の谷間で怪しく動く私の指。
 ――この指は畑中くんの指。そんな妄想が、指の動きを一層淫らなものにする。
 やがて訪れた背筋を貫く快感に、私の意識は悦楽の海に深く沈んでいく……。

 その夜の食卓は簡素なものばかりが並んだことに、母として申し訳なさが残った。


 翌日の金曜。
 畑中くんがシフトにいないことをホッとしながら仕事。
 あんなことの後だ。どんな顔をして接したらいいのかわからない。

 ――働いている間は余計なことを考えなくて済むので助かった。

 お昼になり、店長さんと同僚さんが時間差で休憩に入ったので、店番は私ひとり。
 お客の退けている店内で、余計なことを考えないように点検と補充に励む。
 自動ドアの作動音がして、来客を知らせるチャイムが鳴った。
 いらっしゃいませと言いつつ棚から顔を向けると、エントランスに楽器ケースを背負った畑中くんがいた。
 金曜の夕方から夜にかけてバンドの練習をしていると、以前聞いたことを思い出す。
 でも、お店に立ち寄ってきたことはこれまでなかったのに……なぜ?
 あれこれと考えを巡らせていたが、バスケットを手に取り買い物を始めた畑中くんを見て、棚の作業を中断してレジに戻った。
 
 ――落ち着きなさい沙貴恵。
 今の畑中くんはお客様、店員としての対応をすればいいだけ。
 そう自分に言い聞かせる。

 必要なものは集まったのか、畑中くんがレジに来る。
 帽子を目深にかぶり、その上うつむき加減なので、彼の表情は見えない。
 ――視線を合わさずに済んでいたのは良かったとも言えたけど。
 置かれたバスケットの商品を、手持ちスキャナーで読み込んでいく。
 ペットボトル飲料が数本、スナック菓子数種。
 
 ――そして、数個の避妊用具のパッケージ。
 
 少しドキッとしたが、平静を保ちつつ手に取り、読み込もうとしたとき、

「それを全部、沙貴恵さんに使いたい、ですっ」
 
 ずっと無言だった畑中くんが言った。

 一瞬手が止まる。
 けど何事もなかったように、読み取りの終えた商品を分けながら袋へと詰め替え、購入金額を告げる。
 声が震えていなかったことを自分でも誉めたかった。
 代金を受け取り、ルーテーン通りお釣りとレシートを両手で添えて渡そうとすると、その手を畑中くんが握りしめてきた。
  
 突然の行為に反応できず、固まったままの私に彼は顔を寄せてきて、
「明後日の日曜、いつものシフトの時間に宵町よいまち駅の北口に来てください。俺待ってますから!」
 声量は小さいけれどしっかりした声でそう告げると、私の返事も待たず、逃げるみたいに店から去って行った。

 そのあと、どんな風に仕事をしたのかを、覚えていない。


 土曜日。
 夫は同僚の付き合いとかで、昼前に車に乗って出て行った。
 娘・涼香りょうかも友達と遊ぶ約束があるからと、ちゃっかり車に乗せてもらって家を出た。
 お昼を過ぎてから、息子の悟志さとしも遊びに出かけた。
 ――夕方まで、私はひとり。

 ふらりと出かけた私は、宵町駅にいた。

 宵町。
 南口からその先は、大小企業ビルの並ぶビジネス街。夫の勤め先もこの中にある。
 北口に広がるのは、この地域一の歓楽街。
 メインストリートに沿って夜の飲食店が連なり、その外周を性風俗店が軒を並べる。
 さらにその向こうに、いわゆるラブホテル街が。

 畑中くんが私を連れていきたいのは、間違いなくあそこなのだろう。
 何かに導かれるように、フラフラと私はホテル街へと流されていく。

 立ち並ぶホテル群を遠めに眺めていると、一台の車がブラインドシャッターの向こうから出てきた。
 土曜の昼間からお盛んなものだと、明日自分がどうするのかを考えもせず、何気なく目を向ける。
 信号待ちで止まった見覚えのあるフロントパネルに、うちのと同じ車種よくある国産乗用車と、親近感のようなものを感じて、どんな人たちがとキャビンを見てしまう。

 ――え? なん、で?

 運転手を見やって、私の思考が止まる。
 ハンドルを握っていたのは、良く見知った顔、私の夫で。
 その夫へ甘えるようにもたれかかっていたのは、これもよく知った娘・涼香だった。

 夫と涼香は楽し気に言葉を交し合った後、どちらからともなく顔を寄せ合い、くちづけを交わす。

 ついばむ様に数回くちびるを触れ合わせていたが、信号が変わり、夫が車をスタートさせた。
 前を向く夫に、涼香は物足りなさそうな顔をして、その左腕を抱きかかえる。
 ふたりを乗せた車は私が見ていた事も知らず、走り去っていった。

 ……ハハ、なんだ。
 家族を裏切ってしまうかもしれないことを、恐れ悩んでいたのに。
 私はとっくに裏切られていたのか。
 
 夫にも、娘にも。

 ――仲が良い父娘だと、思っていた。
 思春期に入っても、男親を嫌うことがないことを、喜んですらいた。
 かと言ってベタベタと甘えるようなこともなかったから、安心できていた。

 あれは、家族を、いや私を欺く芝居だったのか。

 ふたりはいつから親子であることをやめたのだろう?
 どちらが誘いをかけたのだろう?
 夫婦でなくなっていく私と夫を見て、涼香はなにを思っていたのだろう?

 いろんなことが頭の中を渦巻いて、あんまりにもこんがらがって、真っ白になって。

 私は道端で立ち尽くしたまま、笑いながら哭いていた。 



「明日、映画を見に行こうと思っているんだけど、いいかしら?」
 家族そろっての夕餉の後、私はなんでもないように切り出した。
 今話題になっている感動系の作品の名を出し、ちょっと気になってとか、それらしい言葉を並べる。
 午前の家事は済ませて、夕方には帰ると言い、
「お昼の支度だけお願いできるかな?」
 と、家に残るであろう女手の涼香に伺いを立てる。
 涼香はちょっと不服気な顔をしてから、少し考えて、
「まー、たまにはお母さんも、主婦休んで遊ぶのもいいかもね」
 しかたないって顔をして、笑いながら言う。
「えー、明日の昼は姉ちゃんがすんのぉ? どうせインスタントとかだろー」
 悟志が嫌そうな顔をして言うと、
「よしわかった。あんたは自分で何とかしろ」
 怒りを抑えた笑顔で涼香が言い放つ。
 ワイワイと言葉を飛ばしあう姉弟から目を離し、
「すみませんあなた、勝手を言って」
 夫に申し訳なさげに告げる。
「いや、涼香も言ってたが、たまにはいいよ。母さんも自分の時間を持ちたいときもあるだろうし」
 いかにも物わかりの良い夫という返事に、私は会釈で返す。

 ――その言葉はもっと前に、働きだす前に言って欲しかったわ。
 
 心の中でそっと呟く。
 家事をするだけの存在だった時に、そう言ってもらえていれば、自分が何なのかだなんて、考え込まずにすんでいたのに……。

 私はとっくに妻ではなく、この家の母親という記号に過ぎなかった訳、だ。

 冷めた心を表に出さず、いつもの母親の顔で家族に対峙する。

 明日も遊びに行くんだと言った悟志との口喧嘩を終わらせた涼香が、夫と意味深な視線を交わす。
 気を付けて観察すれば、さりげないふりをして、合図のようなものを出し合っていたのがわかった。
 ああ、本当に、私は何も見えていなかったのね。

 きっと明日はうちの中で励むのでしょうね。
 私たちの寝室? それとも涼香の部屋かしら? お風呂場? 居間かもね。 
 どうぞ、お好きになさって、楽しんでくださいな。


 その夜、さりげなく夫に求めてみた。
 もしも、応えてくれるのなら、まだ妻という女の私を必要としてくれているのなら……。
 最後の賭け。

 けれど、
「土曜の夜は子供たちも夜更かししているだろうし、昼間ちょっと疲れているから」
 と、やんわり断られた。
 
 ……そ、お疲れよね。
 十代の涼香がどれほど求めたのかはわからないけれど、四十路半ばのあなたが相手をするのは大変でしたでしょうね。 
 あぁそれとも、明日楽しむために控えているのかしら?

 ――もう、私にはどうでもいいことだ。
 

「行ってきます」
 控えめな化粧と、普段着とさほど変わらない装いで家を出る。
 涼香はも少しオシャレすればいいのに、なんて言ってたが、着替えやすさを優先。
 今日、これからしようとしていることを考えれば、その方がいい。
 
 ただ、下着だけは新品の卸したてだ。
 シックな色合いだけどデザイン少し攻め気味の、大人の女っぽいもの。
 畑中くんにそれを見せつけて、脱がされることを思い浮かべるだけで身体の芯が熱くなる。
 ……喜んでもらえるといいのだけど。

 家を出、最寄り駅から電車に乗り、映画館のある駅で降りる。
 シネコンの売店に立ち寄り、アリバイつくりのパンフレットを買っておく。
 もう一度電車に乗り宵町まで。

 駅舎を出る前に時間を確かめ化粧室へ。
 
 鏡を覘き、自分の顔を見る。
 薄化粧をした、これから訪れる淫らな時間を期待する、四十女が映る。
 艶やかな口紅ルージュを塗りなおし、私は私に微笑む。

 ――女のかおをしているわよ沙貴恵。

 
 北口横で畑中くんを待ちながら、目に入った街路樹を見る。
 まだ碧い葉、黄色く色づいた葉。
 そして、地面に落ちた紅い葉に秋の終わりを感じる。
 
 それぞれの色合いに、これまでの自分が重なって見えた。
 家しか知らなかった碧、黄色は働きだし得た充実感か。
 そして自分の中の女を思い出した 紅。
 ……熟して堕ちるのもそれっぽい。 

「……すぐに冬ね」
 そう呟いて左薬指の指輪を外し、バッグに収める。
 
 もうすぐ畑中くんが来るだろう。
 もう、引き返すことはできない。
 もっとも、引き返そうとは思わない。

 これからは、妻の、母親の仮面をつけて、自分のために思うままに。
 
 
「――沙貴恵、さん」
 緊張した面持ちで、それでも嬉しさを隠そうとしないで、畑中くんが私の名を呼ぶ。
 私は彼に笑みを返し、これが答えよと、そっと手を取って横に並び、期待を込めたまなざしを送る。
 
 喉をごくりと鳴らし、私の手をギュッと握ると、畑中くんは目的の場所へと大股で歩き出す。
 歩調を合わせながらも、男らしい力強さに私の胸がときめく。

「お手柔らかに、ね?」
 返事は一層強く握り返してくる手。
 言葉よりも雄弁な態度に、ほほが緩み、下腹が燃える。


 そして私は、妻でもなく母でもなく、ひとりの女に還る。
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