偽りの桜

化野りんね

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一九四五年四月

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 戦線はどんどんと北側へと押し出され、それに合わせるように私達は密林の中を逃げ回り続けた。
 手元にあるのは銃剣の付いた銃だけで、死体から弾丸を剥ぎ取ることさえ出来なくなりつつあった。もう誰も、武器なんてロクに持ってはいないのだ。我が軍はただその肉体だけを持って敵の銃弾を押し留める他なかった。
 そうしていくうちに一人また、仲間が増えた。
 そいつの名前は景浦と言い、死体と見分けのつかないような痩せぎすの男だった。彼は食料を探すために所属部隊から離れてしまったがために、戦線の移動に伴い、部隊を見失ってしまったのだと言う。
 私達は、彼から日本軍の状態について聞き出したが、それは我々の想像する範囲のことが、相変わらずのように行われていただけだった。
「メシもない。弾もない。あるのは欠陥品の手榴弾と夥しい数の負傷者。そしてその上に立つのもフラフラの将官どもさ。臓腑がはみ出ていようが包帯一つも事欠くから、そこらへんから拾ってきた鍋蓋ではみ出る内臓を抑えつけてる奴もいた。もっともそいつは、三日後には死んじまってたよ」
 まるで私達は地獄からまかり間違って帰ってきた復活者の言葉を聞かされているかのようだった。その悲惨さにはもはや現実味は失われ、地獄の悪鬼と彼らに裁かれる罪人たちのような絵図が脳裏に浮かんでくる。けれど我々は、その地獄絵図をこそ現実として受け入れ、そして想定していたのだ。滑稽なことに、この空想は嫌なぐらいに現実なのだ。現実そのものなのだ。
 彼と合流したその日の夜。先程の話を聞いた後、私達は彼を仲間に入れ、ずっと身内話をし続けていた。私が戦闘機の搭乗員であったことや、金村、吉井の二人がが心のなかで描いていた絵図について話をした。
 それを聞いた景浦も、ひゅうひゅうと喉が擦れるような息をしながら、自身の話をし始める。
「俺さあ…… 野球、やってたんだよ」
 その言葉に、吉井が口を出した。
「それって大学野球かい」
 景浦はいいや、と言って頭を振る。
「俺がやってたのは職業野球さ。企業が野球チームを持って、そこに雇われながら野球をするんだ。まだあまりメジャーじゃあないけどさ」
 金村は笑った。
「玉遊びで金が貰えんのかい]
 景浦は怒ることもなく、淡々と言葉を返す。
「その通りさ。お遊びで金が貰えるんだよ。アメリカだって同じように職業野球があるんだぜ」
 景浦の額には、目に見える大きな汗が浮かび上がっていた。
 彼は恐らく、何らかの病気に罹っている。そして病魔を押し留める手段は今ここに存在しない。吉井も金村も、景浦本人もそ
 の事実をよく理解していた。
「…… 玉遊びなんて、言われなれてるさ。後半なんて軍隊の連中が球場の鉄金属を勝手にバラして持っていこうとする中で野球
 の試合をしてた。軍も同じ考えだったんだろうなあ」
 そう言うと、金村はバツの悪そうな表情で景浦に詫びた。彼は自身の考えが、軍隊のお偉方とそう変わらないことに気が付い
 たのだろう。
「ごめんな。馬鹿にしちまってよ」
「そんなことはどうでもいいのさ」
 そう言って彼は自身に対する侮辱と謝罪に意を介することもなく、ただただ楽しげに、内地での思い出を語り続けた。
「兵庫にある甲子園球場っていう、馬鹿みたいにでかい野球場があるんだ。そこによ、満杯になるぐらいの人が入って、全員で応援歌をうたいながら応援してくれるんだ。俺はその中でバットを持って、じっと投手を睨むんだ」
「満員と言うと、何人ぐらいですかね」
「さあなあ…… でも、馬鹿みたいにでかくて、会社は五万人入るって言ってたから、やっぱりそれぐらいは入ったんじゃないかなあ」
「五万人だあ?嘘つくんじゃねえよ」
 五万人と言うと、陸軍の師団二個よりも多い。確かに、想像のしづらいあまりに巨大な数字だと言える。
「俺だって詳しいことは知らねえさ。でも、それぐらい沢山の人が、同じことに向かって、同じことを考えるんだよ。これって、すごいことだと思うんだよな」
 私が想像した光景は、一種の魔術的なものだった。一人一人が違うものを持った万を超える沢山の人間たちが同じ物事に向かい、そこに激しい感情こそあれど、無関心な者は誰一人として存在しない。その熱気の空想の先には、集団の中にいて、自身の身に危険が及ばないという、当たり前だったはずの世界があった。彼らにはその時、自身の頭上に爆弾が落ちてきたり、見えないところから銃弾が飛んできたりするような、そんな世界は存在しなかったのだ。想像にすら、浮かばなかったのだ。
「俺のライバルは沢村っていう投手でな。こいつはすげえ速い球にわけがわからんぐらい変化するドロップを使ってくるんだ。俺が所属していた大阪タイガースはそいつのせいで何回も負けて、だが最後は沢村に勝って優勝したんだよ…… 」
 景浦はそこまで話すと、下を向いて泣き始めた。全員が似たような状態だった。息をぐっと飲んで、唇を噛み締め、泣き始めた。
 四人の脳裏には、日本が映っていた。そこに誇りがあるわけでもない、天国でもないただの一つの、東洋の島国でしかない。
 だがそこには、日常があった。将来があり、夢があり、生命があり、生活があった。
 我々はあの狭くも広い日本という塀の中で生きてきたのだ。それは道行くところにある桜の木のように、それが当然であるかのようにしてきて、あの国から引っこ抜かれてこのルソン島に来て、初めて自分があの国に根を下ろして生きてきたことを理解したのだ。
 我々は偽りの桜だ、と私は思った。それぞれが皆花を結び、実を落とし、未来へ繋がるはずだったものが、別の場所に連れ出されて争いという火によって燃やし尽くされ、とうとう実を結ばず燃えていく桜の若木だった。花も実も結ばぬ我々はとうとう
 このルソン島で死に絶えるのだろうか。
「還ろう。日本に」
 誰かがそう言った。誰が言ったかは分からない。けれど確かに、誰かがそう言った。
 誰もそれを笑わなかった。何故なら、例え空想に等しいものであってもそれは、真摯な願いであったからだ。
 その夜、我々は決心した。日本へ還ろう、と。
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