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13.力登の願い
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俺のサインは済んでいる。
りとは顔を伏せて婚姻届を見つめている。
表情がわからない。
いつかの、あの玄関先で拒絶された時の彼女と重なって、気持ちが沈む。
「……」
「りと、後で――」
「――りとさん、婚姻届を借りてもいいかな?」
じーさんが言うと、りとが婚姻届を渡した。
「じーさん、何を――」
「――哉華。それを」
哉華は手に持っていたクリップボードから誓約書を引き抜くと、ボードをじーさんに手渡す。
じーさんは哉華に杖を預け、ボードの上で婚姻届を広げた。
それから、スーツの内ポケットから万年筆を取り出す。
じーさんは俺に法曹界を目指して欲しかった。
たとえ叶わなくてもいいと言われて、意味がわからなかった。
もちろん、俺は気にも止めなかった。
トーウンに就職して初めての給料日に父親から、じーさんの気持ちを聞いた。
『理人。お義父さんは自分の仕事に誇りを持っていたから、孫の誰か一人くらい『おじいちゃんのようになりたい』と言ってくれると期待してたんだよ』
父親が息子に期待するならまだしも、と思った。
哉華は理性的な性格ではない。
怜人は争いを嫌う穏やかな性格で、法曹界には向かない。
だから、俺だったんだろう。
俺は初給料でじーさんにプレゼントをした。
それが、あの万年筆。
それ以来、じーさんはいつもどこに行くにも、万年筆を手放さない。
その万年筆で、証人の欄が埋まっていく。
「勝手をしてすまないね。生い先短い年寄りの我儘を許してくれるかな」
じーさんはボードごと婚姻届をりとに返す。
りとはやはり俯いたまま。
早まったか……。
「りと、それは俺の勝手な――」
「――私も書きたいわ!」
空気を読めない母さんが、両手を合わせてお願いのポーズでりとに近づく。
頭が痛い。
「母さん、今は――」
「――華純。りとさんにも大切な人がいるはずだ。もう一人は――」
「――お願いします」
母さんを窘めようとした父さんの心配をよそに、りとがボードを母さんに渡す。
「いいの? ありがとう!」
母さんがテンション高めにボードを受け取るが、書くものがなくてじーさんを見る。
じーさんは既に万年筆をしまっていて、貸す気はなさそうだ。
というか、じーさんは誰にも万年筆を貸さない。
「お母さん」
哉華がボールペンを差し出すが、母さんは受け取らない。
「いやよ。あんな男が触ったものなんて」
母親のこんな姿を見ると、よく三人も子供を産んだなどつくづく思う。
「華純、そんなことを言うものじゃないよ。力登くんのお父さんなんだから」
「力登くんのパパは理人でしょ? 一人いれば十分よ。ね?」
『ね?』って……。
聞かれた力登はキョトンとした顔で母さんを見上げている。
「これを使ってください」
母さんにボールペンを差し出したのは、りと。
パーティー用の小さなバッグにボールペンを入れて来るなんて、相変わらず抜かりない。
「ありがとう」
父さんがボードを持ち、母さんが記入していく。
全く、こうして父さんが母さんを甘やかすから、母さんが大人になりきれないまま還暦を迎えてしまった。
年齢のことを言うと面倒なことになるから言わないが、一度いじけたら機嫌が直るまでが長い。
年々、長くなるのは年齢のせいか。
「はい、書けた! あとは妻の欄だけね」
母さんが上機嫌でボールペンをりとに返す。
りとはそれを受け取り、バッグに戻した。
「書かないの?」
「はい」
え――っ?!
「えっ!?」
何人かの声がシンクロする。
その中でひときわ大きな声を上げたのは、皇丞だった。
「理人と結婚するの、嫌なの?」
母さんが聞く。
「華純、これは二人の問題だから――」
「――だって、せっかく書いたのに……」
そういう問題か?
りとは顔を伏せて婚姻届を見つめている。
表情がわからない。
いつかの、あの玄関先で拒絶された時の彼女と重なって、気持ちが沈む。
「……」
「りと、後で――」
「――りとさん、婚姻届を借りてもいいかな?」
じーさんが言うと、りとが婚姻届を渡した。
「じーさん、何を――」
「――哉華。それを」
哉華は手に持っていたクリップボードから誓約書を引き抜くと、ボードをじーさんに手渡す。
じーさんは哉華に杖を預け、ボードの上で婚姻届を広げた。
それから、スーツの内ポケットから万年筆を取り出す。
じーさんは俺に法曹界を目指して欲しかった。
たとえ叶わなくてもいいと言われて、意味がわからなかった。
もちろん、俺は気にも止めなかった。
トーウンに就職して初めての給料日に父親から、じーさんの気持ちを聞いた。
『理人。お義父さんは自分の仕事に誇りを持っていたから、孫の誰か一人くらい『おじいちゃんのようになりたい』と言ってくれると期待してたんだよ』
父親が息子に期待するならまだしも、と思った。
哉華は理性的な性格ではない。
怜人は争いを嫌う穏やかな性格で、法曹界には向かない。
だから、俺だったんだろう。
俺は初給料でじーさんにプレゼントをした。
それが、あの万年筆。
それ以来、じーさんはいつもどこに行くにも、万年筆を手放さない。
その万年筆で、証人の欄が埋まっていく。
「勝手をしてすまないね。生い先短い年寄りの我儘を許してくれるかな」
じーさんはボードごと婚姻届をりとに返す。
りとはやはり俯いたまま。
早まったか……。
「りと、それは俺の勝手な――」
「――私も書きたいわ!」
空気を読めない母さんが、両手を合わせてお願いのポーズでりとに近づく。
頭が痛い。
「母さん、今は――」
「――華純。りとさんにも大切な人がいるはずだ。もう一人は――」
「――お願いします」
母さんを窘めようとした父さんの心配をよそに、りとがボードを母さんに渡す。
「いいの? ありがとう!」
母さんがテンション高めにボードを受け取るが、書くものがなくてじーさんを見る。
じーさんは既に万年筆をしまっていて、貸す気はなさそうだ。
というか、じーさんは誰にも万年筆を貸さない。
「お母さん」
哉華がボールペンを差し出すが、母さんは受け取らない。
「いやよ。あんな男が触ったものなんて」
母親のこんな姿を見ると、よく三人も子供を産んだなどつくづく思う。
「華純、そんなことを言うものじゃないよ。力登くんのお父さんなんだから」
「力登くんのパパは理人でしょ? 一人いれば十分よ。ね?」
『ね?』って……。
聞かれた力登はキョトンとした顔で母さんを見上げている。
「これを使ってください」
母さんにボールペンを差し出したのは、りと。
パーティー用の小さなバッグにボールペンを入れて来るなんて、相変わらず抜かりない。
「ありがとう」
父さんがボードを持ち、母さんが記入していく。
全く、こうして父さんが母さんを甘やかすから、母さんが大人になりきれないまま還暦を迎えてしまった。
年齢のことを言うと面倒なことになるから言わないが、一度いじけたら機嫌が直るまでが長い。
年々、長くなるのは年齢のせいか。
「はい、書けた! あとは妻の欄だけね」
母さんが上機嫌でボールペンをりとに返す。
りとはそれを受け取り、バッグに戻した。
「書かないの?」
「はい」
え――っ?!
「えっ!?」
何人かの声がシンクロする。
その中でひときわ大きな声を上げたのは、皇丞だった。
「理人と結婚するの、嫌なの?」
母さんが聞く。
「華純、これは二人の問題だから――」
「――だって、せっかく書いたのに……」
そういう問題か?
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