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14.社長秘書の誤算
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しおりを挟む一秒も我慢できず、俺は部屋のドアが閉まるより先にりとを抱きしめた。
彼女の手から封筒が落ちる。
大事な婚姻届。
だが、封筒を離した手が俺の腰に回され、拾うのはもう少し彼女のぬくもりを実感してからでいいかと思った。
「りと……」
身体の線に沿ったドレスは、素肌の彼女を抱きしめていると錯覚させるほど薄い。
自分が贈ったとはいえ、俺より先に登が彼女のドレス姿を見たのだと思うと腹立たしくもある。
りとの肩に額をのせ、首筋にキスをした。
「ドレス、似合ってる」
「ありが……と」
声に戸惑いを感じて、触れあう身体にほんの少しだけ隙間を作り、彼女の顔を覗き込む。
鼻先が触れる距離。
りとがふいっと視線を逸らした。
「次に着る時は三か月前には教えて」
「……?」
「ダイエット……するから」
「必要ない」
彼女の腰を強く抱き、掌で背中や腰を撫でる。
「むしろ、もっと食べるべきだな」
「太ったのよ」
「そうか?」
「西堂のお手伝いさんは料理上手だから」
「……ふ~ん」
わざと、不満気に言った。
当然、りとは気づく。
そして、チラリと横目で俺を見た。
「あいつの家に行って良かった唯一のことだな」
「……そうね」
「二度と行かせないけど」
「二度と、行かないわ」
視線が、真っ直ぐ絡む。
俺は目を閉じなかった。
りとも。
確かに互いが目の前にいると、確かめていたかった。
瞬きすら惜しいほど、じっと彼女を見つめる。
何か言おうかと迷った。
想いを口にしようかと。
だが、やめた。
どんな言葉もきっと、俺の気持ちを伝えきれない。
だから、今はキスをした。
唇が触れあい、ようやく俺たちは目を閉じた。
互いの唇を食むようなキス。
りとの手が俺の背中を抱き、ジャケットを握る。
力を入れて腰を抱いたら、彼女が少しふらついた。
そこまで高いヒールではないけれど、やはり履き慣れないのだろう。
俺は唇を離すと、身を屈め、りとの膝裏を腕に乗せた。
「え? きゃ――」
抱き上げると、りとが慌てて俺の首にしがみついた。
「――ちゃんと掴まってろよ」
部屋を進むと、セミダブルのベッドが二台と、大きな窓の向こうに夜景が見えた。
高層階だから住宅の明かりも車のライトも小さな輝きでしかないが、窓一面に赤や青、黄色、オレンジと様々な色が広がっていて、瞬きのたびに見え方が変わる。
「力登も見てるかしら」
りとが呟いた。
「キラキラだって喜んでくれてるといいけど」
「うん」
ベッドの端にそっとりとを下ろす。
そして、彼女の足元に片膝をついて跪いた。
彼女の手を握り、見上げる。
「りと」
手が汗ばんでいる。
三十四年の人生で、こんなに緊張したことがあっただろうか。
たった一言だ。
ほんの数文字の言葉。
だが、一生に一度の言葉。
一生に一度だけ言いたい言葉――。
「俺と結婚してください」
「……っ!」
りとが瞬きをする。
何度も。
瞬きのたびに睫毛が濡れる。
彼女の唇がきゅっと結ばれ、小さく震えた。
「俺を、力登の父親にしてほしい」
りとの瞳がオレンジ色の輝きを放つ。
きっと、窓際のランプが瞳に映っているから。
オレンジ色の涙が下瞼を乗り越え、頬に伝う。
けれど、またすぐに彼女の瞳はオレンジ色を含んだ。
「力登の父親に、なりたいんだ」
りとがぎゅっと目を閉じた。
こぼれ続ける涙が頬に筋を作り、顎から滴る。
彼女の目が開かれるのを待って、一番大事な言葉を声にした。
「りとも力登も、愛している」
握った彼女の手が俺の手を握り返し、離れた。
りとの手が俺に向かって伸びてきて、眼鏡のレンズの端をつまむ。
そのまま、ゆっくりと眼鏡を引き抜く。
りとが眼鏡を畳み、俺のジャケットの胸ポケットに入れるのを、俺は期待ともどかしさが綯交ぜになった複雑な気持ちで見ていた。
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