サレたふたりの恋愛事情

深冬 芽以

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9.結婚が怖くなりました

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 兄のことを、両親のことを、あの日のことを思い出しても滲みもしなかった涙が、頬を伝う。

 私はおでんが残る器を持って立ち上がり、シンクに行くとおでんを生ごみに捨てた。

 食べ物を粗末にするなんて、最低だ。

 けれど、見ていたくなかった。

 見られたくなかった。

 篠井さんが食べたいと言った、篠井さんと一緒に作った、篠井さんが美味しいと笑ってくれたおでんのぐちゃぐちゃな姿を。

 ぐちゃぐちゃにした私を。

 そのまま部屋に引きこもった私は、翌朝、出張に行く篠井さんに『行ってらっしゃい』を言えなかった。

 彼は、私の部屋の前、ドアの向こうから声をかけてくれたのに。

「夏依、行って来るよ。帰ったらまた、話そう」

 篠井さんが出て行ってから少しして、部屋を出た。

 顔を洗い、着替えるより先にキッチンに行くと、おでんの鍋が綺麗に洗われていた。

 冷蔵庫の中には、タッパに入ったおでん。

 そして、メモが貼られている。

『おでんに罪はないぞ』

「なに……それ」

 思わずふふっと笑ってしまった。

 タッパを出してメモを外し、レンジに入れた。

 黒い箱の中で温かさを取り戻していくタッパを見つめる。

 篠井さんが好きだ。

 上司だった頃の鬼のように厳しくて、だけど面倒見の良い彼も、浮気された者同士で同居していた頃の意外とお行儀の良い彼も、恋人になってからの甘すぎて蕩けてしまいそうな優しい彼も。

 全部が堪らなく好き。

 だからこそ、知られたくなかったし、知られたくない。

 いつまでも過去に執着している惨めな私を。

 彼からプロポーズ予告を受けて嬉しかったのと同じくらい戸惑ったことを。

 食事の仕方が綺麗な男の人に好感を持つのが、母親の影響であることを。

 大人になるにつれ、別れ際に両親が言った『大人になればわかる』が、まるで『大人になったらお前も同じことをする』という意味に思えて、不安なことを。

 鬼篠がよく言っていた。

『他人の評価の前に、自分が自分を評価しろ』『自分の評価が満点ならお前はそれまでだ。だが、九十点ならお前を評価しない他人がクソなんだ』と。

 最初は意味がわからなかった。

 同僚たちもそうだった。

 けれど、自分を満点だと評価する人間は自信過剰でそれ以上の成長は望めない。そこを他人に見透かされて評価を得られない。

 今の自分にできることは全力でやったが、一年後の自分ならもっとやれるはずと九十点の評価をする人間は、満点を目指す伸びしろがある。その可能性を見いだせない他人の評価など気にするだけ無駄だ。

 そんな意味なのだと気づいてからは、みんな少しだけ肩の力を抜いて仕事に向き合えるようになった。


 揚げ足を取って『俺を評価しない鬼篠はクソだ』なんて言ってる人もいたけど……。


 とはいえ、篠井さんがいた頃の企画部は活気があった。

 篠井さんにダメ出しされては仲間内で慰め合って、また仕事に取り組む。


 楽しかったな、あの頃は……。


 新しく来た部長が利益至上主義で、成績が芳しくない人を他部署に異動させようとして、篠井さんと衝突した。

 篠井さんは私たち部下を守ってくれたけれど、結局当人が居づらくなって異動願を出した。

 部長はそれを『根性なし』だと嘲笑い、篠井さんがブチギレて、退職願を叩きつけた。

 篠井さんの後に課長になった人は部長の犬で、篠井さんの部下の半数は異動願を出した。

 私もその一人。

 篠井さんに誘われて企画部に異動した私は、篠井さんがいない企画部にいる意味を見いだせなかった。

 あの時、迷いなく異動願を出した自分が、密かに篠井さんに憧れていたんだなと、今ならわかる。

「会いたいな……」

 温めすぎたおでんを食べながら、ついこぼれた想いが、今の私にはなんだかとても重く感じた。
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