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9.結婚が怖くなりました
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私は走り出した。
駅まで全力疾走して、息が切れた。
たった二百メートルくらいの距離で、酷く汗をかいた。
滴って目に入り、視界を滲ませるほど、汗をかいた。
拭っても拭っても止まらないほどの汗。
お父さん、私に気づかなかった――。
私が父と別れたのは父が四十歳の時だから、今は五十七歳。
あまり変わっていなかった。
少し老けたなとは思っても、すぐにわかった。
相変わらず実年齢より若く見えて、身なりもちゃんとしていて、髪もちゃんと染めていて、太っても禿げてもいなくて。
イケオジってやつだ。
あの頃と大きく違うのは『父親』であること。
私とは休日に街を歩いたりしなかった。
私にはあんなに可愛いプレゼントなんてくれたことなかった。
はぁとゆっくり深呼吸して、ハンカチで汗を拭い、電車に乗る。
私はそんなに変わっただろうか。
きっと、変わった。
十四歳が三十一歳になったんだから、気づけなくて当然だ。
わかるはずがない。
そうよ。わかるはずない……。
「嘘っ! 久しぶり!」
女性の弾んだ声がして顔を上げると、四十代くらいの女性二人が笑い合っていた。
「久しぶり過ぎ! 何年?」
「二十年は経ってるよねぇ」
「よくわかったね!」
「ちょっと自信なかったけど、でもわかるよ」
「そうだね。そんなに変わってないよね? 私たち」
嬉しそうにケラケラ笑う女性二人。
久しぶりの、二十年以上振りの再会のようだ。
二十年会ってなくてもわかるのね……。
父子と友達なら、どちらの方が長く離れていても気づくだろう。
違うか。
お父さんはもう私を忘れてるんだ……。
ならば、仕方がない。
忘れた人を思い出すのは大変だ。
顔は見覚えがあっても名前が出てこない、とかその逆とかよく聞くけれど、名前も顔も覚えていないんじゃどうしようもない。
そっか。
娘の存在自体を忘れちゃったのね……。
マンションの最寄り駅に着くと、雷が酷くなり、土砂降りになっていた。
駅内のコンビニに入ったが、既に傘は売り切れていた。
私は改札前のベンチに座った。
駅の屋根を打ちつける雨音を聞き、目の前を通り過ぎていく人々を眺める。
一人、恋人と二人、友達と二人、三人、家族。
たくさんの人たちが、通り過ぎていく。
雨は止む気配がない。
だから、私はそこを動けなかった。
何時間かして、バッグの中のスマホが鳴った。
篠井さんからのメッセージだった。
〈もうすぐ着く〉
〈傘、ありますか?〉
〈タクシーだから大丈夫だ。コンビニに寄るが、何か買い物はあるか?〉
〈ありません〉
メッセージを送った私は、立ち上がった。
雨はまだ降っているけれど、駅を飛び出す。
篠井さんに会いたい。
抱きしめてもらいたい。
パンの袋の口をしっかり結んで、腕に抱えて走る。
駅を出た瞬間にずぶ濡れになったけれど、構わずに走った。
今日はストレートパンツを穿いていて良かった。
ベージュだから跳ねた泥の染みが落ちないかもしれないけど、いい。
秋に買ったばかりのコートもクリーニングに出さなきゃ着られないだろうけれど、いい。
マンションに帰ったらシャワーを浴びて、その後で玄関や廊下を拭かなきゃいけないけど、いい。
マンション手前のコンビニから走り去るタクシー二台を見つけて、ホッとした。
ずぶ濡れでコンビニに入るわけにはいかないから、先に帰っていた方がいいだろうかなんて思った瞬間、コンビニの灯りに照らされた男女の姿に足が止まった。
篠井さん、と――。
元カノだ。
どうして――?
なにやら言い争っているようだが、雨音で聞こえない。
二人は傘を持っていないから、コンビニの軒下の狭い範囲で密着しているように見えた。
嫌だ、と思った。
駅まで全力疾走して、息が切れた。
たった二百メートルくらいの距離で、酷く汗をかいた。
滴って目に入り、視界を滲ませるほど、汗をかいた。
拭っても拭っても止まらないほどの汗。
お父さん、私に気づかなかった――。
私が父と別れたのは父が四十歳の時だから、今は五十七歳。
あまり変わっていなかった。
少し老けたなとは思っても、すぐにわかった。
相変わらず実年齢より若く見えて、身なりもちゃんとしていて、髪もちゃんと染めていて、太っても禿げてもいなくて。
イケオジってやつだ。
あの頃と大きく違うのは『父親』であること。
私とは休日に街を歩いたりしなかった。
私にはあんなに可愛いプレゼントなんてくれたことなかった。
はぁとゆっくり深呼吸して、ハンカチで汗を拭い、電車に乗る。
私はそんなに変わっただろうか。
きっと、変わった。
十四歳が三十一歳になったんだから、気づけなくて当然だ。
わかるはずがない。
そうよ。わかるはずない……。
「嘘っ! 久しぶり!」
女性の弾んだ声がして顔を上げると、四十代くらいの女性二人が笑い合っていた。
「久しぶり過ぎ! 何年?」
「二十年は経ってるよねぇ」
「よくわかったね!」
「ちょっと自信なかったけど、でもわかるよ」
「そうだね。そんなに変わってないよね? 私たち」
嬉しそうにケラケラ笑う女性二人。
久しぶりの、二十年以上振りの再会のようだ。
二十年会ってなくてもわかるのね……。
父子と友達なら、どちらの方が長く離れていても気づくだろう。
違うか。
お父さんはもう私を忘れてるんだ……。
ならば、仕方がない。
忘れた人を思い出すのは大変だ。
顔は見覚えがあっても名前が出てこない、とかその逆とかよく聞くけれど、名前も顔も覚えていないんじゃどうしようもない。
そっか。
娘の存在自体を忘れちゃったのね……。
マンションの最寄り駅に着くと、雷が酷くなり、土砂降りになっていた。
駅内のコンビニに入ったが、既に傘は売り切れていた。
私は改札前のベンチに座った。
駅の屋根を打ちつける雨音を聞き、目の前を通り過ぎていく人々を眺める。
一人、恋人と二人、友達と二人、三人、家族。
たくさんの人たちが、通り過ぎていく。
雨は止む気配がない。
だから、私はそこを動けなかった。
何時間かして、バッグの中のスマホが鳴った。
篠井さんからのメッセージだった。
〈もうすぐ着く〉
〈傘、ありますか?〉
〈タクシーだから大丈夫だ。コンビニに寄るが、何か買い物はあるか?〉
〈ありません〉
メッセージを送った私は、立ち上がった。
雨はまだ降っているけれど、駅を飛び出す。
篠井さんに会いたい。
抱きしめてもらいたい。
パンの袋の口をしっかり結んで、腕に抱えて走る。
駅を出た瞬間にずぶ濡れになったけれど、構わずに走った。
今日はストレートパンツを穿いていて良かった。
ベージュだから跳ねた泥の染みが落ちないかもしれないけど、いい。
秋に買ったばかりのコートもクリーニングに出さなきゃ着られないだろうけれど、いい。
マンションに帰ったらシャワーを浴びて、その後で玄関や廊下を拭かなきゃいけないけど、いい。
マンション手前のコンビニから走り去るタクシー二台を見つけて、ホッとした。
ずぶ濡れでコンビニに入るわけにはいかないから、先に帰っていた方がいいだろうかなんて思った瞬間、コンビニの灯りに照らされた男女の姿に足が止まった。
篠井さん、と――。
元カノだ。
どうして――?
なにやら言い争っているようだが、雨音で聞こえない。
二人は傘を持っていないから、コンビニの軒下の狭い範囲で密着しているように見えた。
嫌だ、と思った。
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