愛が全てじゃないけれど

深冬 芽以

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6.恋が始まる前に

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「っ!?」

「わっ!」

 頭上で男性の声がして、その胸に抱き止められる。

「大丈夫?」

 つい数分前まで電話越しだった声が、隔たるものなく耳元で聞こえる。

 私が彼のコートの脇をきゅっと握ったのは無意識だか、彼が私の肩を強く抱きしめたのもそうだったかはわからない。

「車、は?」

 成悟さんの胸に頬を押し当てる。

「コンビニに置いてきた」

「じゃあ、長くはいられませんね」

 私の肩を抱いていた成悟さんの片手が、腰におりてゆく。

 肩と腰を強く抱かれ、私も彼の背中に腕を回した。

「車より、理性の問題かな」

 ストレートな言葉に、思わずふふっと笑ってしまう。

「なにかあった?」

「え?」

「電話で、少し声が沈んでいた気がして」

「……」

 気づいてくれて嬉しい、と同時に何をどう話そうか考える。

「小花ちゃん――合コンの時に元カレとキスしてた子に会ったんです」

「なにか言われた?」

「おばさん、て」

「それは酷いな」

「いいんです。私も説教染みたこと言っちゃったので。でも――」

 そんなことじゃない。

 私の気持ちを乱したのは、そんなことじゃない。

 でも、言わない。

「――あんな風に真っ直ぐ好きな人のことだけ考えて突っ走れるあの子を見てたら、少し羨ましくなって」

「恋は盲目、って?」

『恋は盲目ってか』

 不意に蜂谷さんの声が頭の中で再生される。


 もう、気持ちを乱されたくないのに――!


「思い出してくれたのが俺で、嬉しいよ」

「え?」

「感傷に浸って、誰かの声が聞きたくなった時に、電話をした相手が俺で良かった」

 嘘のない言葉が、さっきまでのモヤモヤした霧を晴らしてくれる。

 出会ってからずっと、そう。

 成悟さんの言葉は、飾らず、包まず、心にストンと収まる。

 それが心地よくて、少し気恥ずかしい。

 ポーンッと軽快な電子音が聞こえて、私と成悟さんが同時に互いを手放した。

 エレベーターを降りた男性が、すぐ角の部屋に入って行く。

「あ、すみません、こんなところで。散らかってますけど、中に――」

 くるりと身体を反転させて、私はドアレバーに手をかけた。

 が、その手がレバーを押し下げることはなく、大きくて少し骨ばった成悟さんの手に覆われた。

「――明後日の土曜、会いたい」

 耳元で囁かれ、鼓膜から全身に向けて急速に体温が上昇する。

 会えないか? ではなく『会いたい』と表現された誘いが色気を漂わせ、恥ずかしい妄想を掻き立てる。

「この部屋に入れてもらうのは、また、今度にするよ」

 彼の手と私の手に少し隙間ができて、そこを抜ける空気がやけに冷たく感じた。

 成悟さんの長い中指が私の中指から手首にかけてゆっくりなぞり、離れていく。

「私も、会いたいです」

「良かった」

 背後からぎゅっと抱きしめられ、けれどすぐに離される。

「時間はまた、連絡するよ」

 振り向くと、成悟さんが一歩後退り、微笑んだ。

「じゃあ」

「はい。気をつけて」

「うん」

 成悟さんがエレベーターに向かって歩き出す。

 意地悪なことに、エレベーターは成悟さんを待っていたかのように、そこにいた。

 私は何歩かだけ移動して、エレベーターが閉じるのを見届けた。

 顔の横で小さく手を振って。

 男の人の背中を、こんな風に離れがたい気持ちで見送ったことがあっただろうか。

 私にとって、今までとは違う恋が始まろうとしているのかもしれない。

 そんな予感がした。
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