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二
第五十六話
しおりを挟む歳を取ると、時間の流れが速く感じる。
母と流し見をしたある情報番組によると、科学的にどうやら気のせいではないようなのだ。理由はそこに新鮮味があるかどうか、ということ。
日々の食事から歯磨きに至るまで、大人はいちいちその単純な作業に感けることはない。ただ子供は逐一そこに感動を覚えているのだそうだ。それが、時の流れを速く感じるか、遅く感じるかの違いである、と知らされた。
瑞樹は当時、どうにもその理論に合点がいかなかった。十二歳までなら納得であるが、それ以降は違う。食事だって歯磨きだって、その都度父のことを思い出すが故に、心を閉ざしてしまった。つまり、感動とは真逆の状態にあったのだ。
だが今、その信憑性が確かとなり得る、ある局面を迎えていた。
大学も二年になり、もう夏休みの後半を過ぎている。それは正に『あっと言う間』の過ぎ方だった。
学者はこう締め括っていた、十九歳を節目に変化が訪れる、と。
そわそわと折り鶴の飾られた窓の外を今か今かと眺めていた。
そしてブルブルブルというエンジン音が聞こえると、すかさずタタタッと階段を駆け下り、玄関に準備万端の荷物を抱え、外へ出た。
羽化した蝉もようやく飛び立てる頃であろう明け方、もう既に蒸し暑い。だがそんなことはお構いなしで、にこにこ笑顔の輪へ加わる。
「それでは、出発!」
「おー!」
心の寒さにさえ凍り付いた冬の出発時とは違い、今回は快活なスタートを切ることができていた。車内では、お菓子食べる?とか、水着持ってきた?とか、海斗は既に着ている、とかそんな話で盛り上がる。
またあの洋館へ行ける。
数日前父の書斎に入り、近代建築に関する雑誌を手に取っては見返した。建築の道に背を向けてからは、殆どこの場所へ足を踏み入れていないことに、そこで気づいた。本当にそれでいいのか、と心の奥底が微かに疼く。
アートで飯を食うのは至難の業ながらも、周りの美大生は教員免許取得に励んだり、コンテストに応募したり、ウェブデザインの資格に挑戦したりなど将来を見据え、己の道を切り開こうとしている。
一方、未だにのらりくらりと生きている自分には後ろめたさもあり、焦りが垣間見えていた。
「わぁ、綺麗!」
景色が一面に広がり、水平線に上がる日の光が瞳を捉える。水面はゆらゆらと手を振るように、揺れていた。
「台風が来てるからどうなるかと思ったけど、逸れたようでよかったね」
「本当。昨日なんか、てるてる坊主作ろうかって考えちゃった」
葵の可愛気な一面。楽しみにしていたのは自分だけじゃない、その一体感が更に期待を膨らませた。
とても幸せな気分だった。毎日こうしていたいと願う程。
就職など諦め、フリーターにでもなればそれが叶うのかな、という淡い夢想は太陽の眩さに一瞬で掻き消された。
左手には海岸、右手には山の連なり、そんな道をくねくねと蛇行しながら進むとやがて目的地へと辿り着く。白を基調とした至極立派な建物を前に七人は立ち尽くし、感嘆の声を上げた。
「いつ見ても、やっぱり感動しちゃう」
「改めて有難いと思う、こんな所に泊まれるなんて」
「ほんと、マジ感謝だな」
「ありがとう、茅野ちゃん」
皆茅野の方へ目を向けると「私のものじゃないから……」と恥ずかしそうに俯いた。そして中に入ろう、と促され、入ればキッチンには案の定の持成しが用意されていた。
「何だか悪いね、今回も」
「しかも無料で滞在だなんて。慰安旅行なんだから、ちゃんと払えるんだよ。もう一度叔父さんに言ってみてくれる?」
「はい、でも受け取らないと思います。叔父さんのことだから」
「ほんと、叔父さんに感謝だな」
と、パンをつまみ食いする海斗の傍らで、えっ、いいの?と食い入るように見つめる美亜がいた。
「それじゃあ有難く頂いて、みんなで海に行こうか」
賛成!と拍手の後、朝食には豪華過ぎるゴージャスな食事を済ませ、ビーチへ向かう。カンカン照りの砂浜は、冬に見た趣とは異なる上、更にはジリジリと熱い。
「お、あちあちっ」
海斗はホップステップしながらTシャツを脱ぎ、バシャーンと青へ目掛け飛び込んだ。
「海斗君気を付けてね、風強いから!」
大気不安定の強風により、まあまあの高波が押し寄せていた。海斗はザブンと水面に頭を突き出し、おーい!と両手で手を振っている。潮で目が痛いと叫んでいた。
それに続くようにして、波打ち際に寄り合い皆一斉に足を入れる。朝方のせいだろうか、想像に反しひんやりと冷たい。
すると突然背中にバシャっと感触があり、Tシャツがピタッと纏わり付く。
振り返れば、美亜がいた。いたずらな笑みを浮かべている。海斗ならまだしも、ダークサイドに攻撃をしかけるなどとは中々勇気ある女子である。瑞樹は両手で大量の水を掬い上げビシャンとお返しをした。
キャーッという声は聞こえないものの、はしゃぐ様子が十分に読み取れる。すると再び背後から奇襲をかけられた。
振り返れば茅野がいた。やはりしたたかにこちらをニヤリ。
二対一の構図、必死に攻防戦を繰り広げていると、「瑞樹! 今助けてやるからな!」と深い海から駆けて来る海斗がいた。夢の中の駆けっこ同様、水の中では思うように進めず、気持ちだけが先走るようなスピードだ。
気がつけば全員が参戦しており敵味方無しの乱闘騒ぎ、戦場と化していた。
「あはははっ!」
「それっ!」
「やったな!」
空へ放たれる歓喜が鳴り響く中、瑞樹も大声で笑っていた。
天光はそこへ惜しみなく降り注ぎ、水飛沫に乱反射をしては、輝きを放っていた。
「ねぇ、写真撮ろう!」
「はいっ!」
葵はカメラを脚立に、「はい、行くよー!」と号令をかける。
三、二、一、パシャ——。
「ああ、楽しそうだなぁ。残暑お見舞い申し上げます。まだまだ暑い日が続きますが、お身体をお大事にって」
「あらまあ、本当。みんな真っ赤に日焼けして」
「お店の子供達からなんだ。見てみないか、敦彦?」
「ん? ああ……」
父からそんな言葉を掛けられるのは、これで二度目になる。その前は正月の頃、どうしてもそんな気分には、なれなかった。
おめでとうございますなどという言葉は、たとえ自分に向けられておらずとも、傷だった。
妻の亜紀子が病死し、初の盆を迎えていたが、一向に心が癒えそうにない。むしろ思い出が苦となり寂しさは募るばかりだった。
もう何も目にしたくはない。仏壇の遺影に縋りながら、ただ嗚咽する日々が続いた。
それにしても『子供達』を見る愛おしそうな父の目は、何とも優しく温かい。
妻にも同じ様に大切な家族として接してくれた人。ふっと沸いた感謝の気持ちが興味に変わり、画面にちらりと視線を送る。
「ほら、これが葵ちゃん、これが司沙君……」
父はひとりずつ丁寧に指を差しながら名前を上げる。
「葵ちゃんはよく気がついて、いつも助けられているんだよ。司沙君はね……」
と自慢の息子娘を誇らしげに語る口調に嫉妬さえ感じる程の愛が詰まっていた。
もれなくはち切れんばかりの笑顔、それを見守るように照らされる後光はとても眩しかった。
『私はもしかしたら夏子なのかもしれないね』
愛しい人は、愛しい海を見つめてそう言うと、ふふっと笑った。
あの頃が、走馬灯のように蘇る。
「なぁ、とても綺麗だろ?」
もう、天国へ辿り着けたのだろうか……
敦彦は目線をそのままに一言、「うん、そうだね」と、呟いた。
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