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20XX/07/07(木)

p.m.10:03「ぐちゃぐちゃ」

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 月島家に帰宅してすぐ、トイレで二度吐いた。

 それでも吐き気は収まらない。生理的な涙が浮かぶほど、えずく。けれど吐き出せる物はもう、彼女の胃の中には残っていなかった。

 ふらつく足で洗面台へ行き、口をゆすいだ。そのまま服を脱ぎ捨てて、隣接する浴室へ入った。身体を動かすの億劫だったが、身体中に沁み込んだ臭いと、不快感を洗い流したくて、熱めのシャワーを浴びる――。

 不快感はなくなったが、胃の奥がスッキリしない感じは残っていた。熱いシャワーを浴びたにも関わらず、一風の顔色は悪い。頭が鈍く疼くような感覚も消えてはいなかった。覚束ない足取りでふらふら廊下に出て、そこに立つ人物に気付いた。

「ししば、さん……?」

 昼に見た時に着ていた白いジャケットは脱いでいるが、ストライプのシャツと黒いボタンが並ぶ白のベストを着ている。長い足がしなやかに動き、一風のほうへ近付いて来た。

「そうだよ。断っておくけど覗こうとしていたわけじゃないからね? 具合悪そうだし、倒れたら大変だと思って待っていただけだから」
「……べつに、疑ってませんけど……」
「あ、そう? だったらいいんだよ。同じ屋根の下にいる相手が、そういう下心持ってるんじゃないかって疑うの嫌でしょ。警戒しちゃうし。家の中でも気疲れして休めないなんて冗談じゃないもんねえ」
「はぁ、そうですね……」

 神々廻との会話を早く切り上げたい。胃は空っぽだが空腹感はなく、今は一刻も早くベッドに入って眠りにつきたかった。そうすれば何も――大本堂での、あの異様な光景のことも、考えずに済む。

「すみません、今日はもう、寝ます……」

 そう言って神々廻の傍らを通り過ぎようとした時――

「っ!」

 彼女の身体がふらついた。

 咄嗟に壁に手をついて身体を支える。それでも足の力が抜けてしまい、一風はズルズルと壁を伝ってその場に座り込んでしまった。

「一風ちゃん、大丈夫?」
「……はい」
「ああ、ごめん。大丈夫かって聞き方は良くなかった。そんな風に聞いちゃえば、君は大丈夫だって言うだろうからね。今のはなし。見れば大丈夫じゃないのは分かる。だから、勝手にさせてもらうよ」
「……え?」

 一風が困惑して声を漏らすのと、神々廻の手が伸びてくるのは同時だった。彼の長い腕が彼女の脇の下を通って背中に回り、そのまま上に引っ張り起こされる。力が抜けてしまった足でも立ち上がれたのは、体重のほとんどを神々廻が支えてくれているからだ。

「神々廻さん? 何を……」
「このまま僕に肩を借りて部屋へ行くのと、抱き上げられて部屋へ行くの、どっちがお好みかな?」

 にこり、と。

 美しい相貌が一風に向けられる。遠慮します、と答えようとしたが、足が重くて部屋まで辿り着けそうにないことは、彼女自身にも分かっていた。だとすれば、ふたつの選択肢の内どちらを選ぶかは決まっている。

「肩を貸してください」

 神々廻は「喜んで」と言って、身体を支えてくれた。肩どころか、体重をほとんど預けてしまう形だったが、そうでもしなければ座り込んでしまいそうだ。完全に寄りかかってしまっていたが、神々廻はふらつくことなく進んでいた。普通の状態なら遠慮もできるが、今はそうするだけの気力がない。

 一風の部屋へ到着する。

 入口で神々廻が「中に入っても?」と言い、一風は首肯する。そのままふたりで部屋に入り、ベッドに座らせてもらった。自分の巣へ戻って来た安心感からか、一風の口から安堵の息が漏れる。ようやく肩の力が抜けた。

 ベッドに腰を下ろしたまま、ぼんやりと素足の指先を見つめる。このまま後ろに倒れて眠ってしまえば楽になれるはずなのに、身体を動かせない。身体が気怠さに支配されていた。生まれて初めて、心身共に疲れ果てている。視界が歪んだ。何故だか涙が出てきた。

 悲しいわけではない。それなのに涙がこぼれる。不思議な感覚だ。感情はまったく揺れていないのに、涙が止まらなかった。

「一風ちゃん」

 足の爪先を見つめる彼女の視界に、膝が入ってくる。白いスーツ。神々廻の膝だ。顔を上げて彼を見る気力もなかった。すると神々廻の大きな手が伸びてきて、そっと一風の手に触れた。

 もう一度「一風ちゃん」と名前を呼ばれる。返事はできない。神々廻の手が、一風の指を柔く握った。温かい。自分でも気付かない内に、指先が冷たくなっていたようだ。

「ぐちゃぐちゃに、なってしまったんだね。感情じゃないところ……頭の中だ。理解しえない何かに、五感の全てを傷つけられたんだろう? 君に……何があったのか話してごらん。少しずつでも吐き出すことで、ぐちゃぐちゃになってしまった頭の中を整理して、修復していくんだよ」

 低い声が鼓膜を震わせ、頭の奥に入ってくる。

 ゆるゆると顔を上げれば、彼の真剣な目が自分を見つめていた。綺麗な形の目だ。芸術家は作品の目を入れることで、命を吹き込むらしい。もしも、島の人間が言うように神なんて存在がいて、それが人間を作ったとするなら……神々廻慈郎を作り上げた神は、随分と力を入れたのだろう。

「大本堂で何があったの?」
「……ぁ……」

 普段の軽薄さはまったく感じない。指先を温めてくれる、彼の熱。真摯に向き合おうとしてくれている神々廻に、一風の口は微かに開き――

「っ……あの中は、暑くて……」
「うん」
「経と……楽器……和楽器の、音……」

 要領を得ない言葉を吐き出していく。

 頭に浮かんだことを、何も考えずに話した。時系列はバラバラで、何度も詰まりながら、ぽつ、ぽつと言葉にしていく。上手く話せないところも、自分自身でも分かっていないところもあった。

 それでも、大本堂で経験した異様な出来事を、言語化する。熱気にあてられて不快だったことも、狂ったように動く島民のことも、神を求める意思の渦の中に投げ込まれたことも、全て……話す。

 神々廻は相槌を打ちながら聞いてくれた。一風が言葉に詰まって、早く話を続けないとと焦った時は、焦燥感を解すかのように握った手を撫でてくれる。ゆっくりでいいよ、と。彼の声に支えられながら話している内に、頭の中が少しずつ正常な状態に戻っていくのを感じていた――

 ――観伏寺を出たところまで話し終わり、一風は深く息を吐く。自分が何をどれだけ、どこまで正確に話せたのか定かではない。考えるよりも先に、思いついた言葉をそのまま紡いでいたからだろう。

 膝を着いていた神々廻は、話が終わっても手を繋いだままだった。振り払おうという気はまったく起きない。一風は手をそのままに、ベッドを降りてフローリングの床に座った。

 神々廻は黙って何か考え込み――しばらくの沈黙ののち、口を開く。

「話を聞く限り、大本堂の中は集団トランス状態、だったんだね」
「……え?」
「トランス状態は分かる?」

 一風は頷いた。

 トランス状態とは、精神状態が平時とはかけ離れた境地にあるさまを指す。魂が抜けたようになったり、別人あるいは別の生き物の魂が入り込んだようになったり、神がかったかのような五感の鋭敏さや第六感の鋭さを見せたり、忘我または恍惚の状態に浸ったり……などと、さまざまな状況を指している。

「日常的な意識状態とは、異なった意識状態のことで……スポーツ選手が言う、ゾーンに入っていた、って言うのが代表的、ですよね?」
「そう。集団トランス状態は、その名の通り複数の人間が同じ状況の中で、トランス状態に陥ることだ。一風ちゃんの話を聞いて僕の頭に浮かんだのは、バリ島のある村で行われているトランス状態に入る儀式だよ」
「そんなのが……?」
「うん。向こうではトランス状態のことを『クラウハン』って言うんだけどね、ざっくり説明すると『神と合体して会話し、自ら神として行動し、無限の享受を味わう、神が憑依した霊的な状態』って意味なんだ」

 彼女は口の中で「クラウハン……」と初めて聞く単語を転がした。

「その儀式は寺院の中で行われていて、トランス状態に入った人は奇声を発したり、踊ったり、胸にクリス……ああ、伝統的な短剣のことだよ。波打ったようにぐねぐねした形状の刃で、柄には彫刻や石の装飾が施されているんだ。だぁら聖剣とも呼ばれるんだけど、それを胸に突き立てる人までいるんだって」
「……聖剣って、自殺ってことですか?」
「さすがに刃は潰してあるよ。儀式だからねえ。当然、主催がいるわけだ。あらかじめ安全なクリスを用意しておくさ」
「あ……です、ね……」

 少し考えれば分かりそうなことだが、考えるより先に言葉が出てしまった。完全に冷静にはなれていないのだと、一風は眉を寄せながら息を吐く。

 だが、少しだけホッとしていた。

 大本堂の異様な出来事が、説明のつく現象であると分かったからだ。閉鎖された空間、息苦しいほどの熱気、気分を高揚させて一体感を生む楽器のリズム、一緒に経を唱えるという共同作業……今思えば、全てがトランス状態に入りやすい状況を生み出していた。

「顔色、少し良くなったね」

 神々廻が顔を覗き込むように近付けてくる。整った貌が傍にあるのは、未だに慣れない。精神が疲弊した状態でも、拝みたくなる美貌だ。

「ええ……でも、今日はもう休みます……」
「そっか。おやすみ、一風ちゃん」
「おやすみ、なさい……」

 繋がれていた手が離れ、神々廻は背を向けて部屋を出て行った。温もりを失った指先が少しだけ、寂しいなあと思ってしまう。一風は自分の手を見つめ、それから、明かりを消してベッドに入った。

 まさか数時間後、予想もしていなかった形で目覚めることになるなんて、思いもよらずに――。



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