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20XX/07/07(木)
p.m.7:00「異様な護摩祈祷」
しおりを挟む夏目弥生と島の有志の女性たちによって作られた、野菜中心の昼食を摂り、およそ六時間が経過した。満腹でも空腹でもない。そこにちょっとしたお菓子があれば摘まむであろう程度の腹の空き具合だ。
腹八分でやめておけ、と……そう忠告してきたのは、観伏寺の座敷での昼食時、偶然にも隣の席になった厳格な老人――火河倫一郎だった。もともと満腹まで食べるほうではない。一風は出汁の利いた食事をほどほどに食べたところで箸をおいてその場を去り、人けのない場所で静かな午後を過ごした。
神々廻はどこかへ行ってしまった。
おそらく島の散策を再開したのだろう。午前の儀式が終わったとはいえ、島の住人はどことなく雰囲気が浮ついている。忍び込むにしろ、話を聞き回るにしろ、絶好の機会と言えるのは想像に易い。
夜七時――。
観伏寺の一画にある高い天井の大本堂。そこへ足を踏み入れることが許されているのは、各家の当主か当主の代理のみとされている。一家につきひとりだけ。それは環音螺島に古くから伝わる掟だ。
入口の反対側――前方には像が鎮座している。普通の寺であれば不動明王が一般的だろう。最高位の仏様とされる大日如来の化身と云われ、特徴的なのはその表情だ。一般的な仏教での仏像は優しい姿をしたものが多いが、不動明王は悪を絶ち仏道に導くことで救済する役目を担っているため、恐ろしい表情をしている。
だが観伏寺の大本堂の御本尊は、不動明王ではない。それどころか仏の形はしていないのだ。そこには巨大な真っ黒な岩が鎮座していた。黒曜石のように炎の明かりを反射して煌めき、星空を溶かし込んだかのようだ。その漆黒の岩――観伏寺の御本尊は霊峰の山頂にある岩を切り出したものだと云われている。
御本尊の正面には護摩壇があった。そこでは炎が焚かれており、大本堂の中で唯一の光源となっている。入口の扉は完全に閉じられた。炎の揺らぎに合わせて、影がゆらぐ。護摩壇に近い場所に座すのは、やはり四家の人間だ。三人の当主と共に当主代理である月島一風は、儀式の時と同じく、着物姿で座っている。
彼女たちの後ろには各家の当主が座していた。参加資格があるのが当主か当主代理の人間ということもあり、後期高齢者と呼んで差し支えない老人と還暦前後のおじさんばかりだ。
(おじさん臭い)
空気がこもる夏の大本堂で炎を焚いている状況は、暑くないはずがない。汗が背中に滲んでいるのが不快だ。一風は不満を押し隠して真面目な顔をし、祈祷が始まるのを待っていた。
そして、その時が来る。
しゃん、と――。
鈴の音が聞こえ、大本堂の横の入口から夏目大寿が入ってきた。緋色の法衣と黒に近い緑の袈裟を身に纏っている。足音なく進み、彼は護摩壇の前に腰を下ろした。
観伏寺の関係者だろう。数人の坊主が和楽器を手に大寿のあとに続き、それぞれ護摩壇から少し離れたところに座る。そこはちょうど陰になっていたため、座して背丈が縮んだ彼らの姿は見えなくなった。
夏目大寿が、息を吸う。
(はじまる……)
観伏寺の住職である彼が経を唱え出した。太く、空気を震わせる声だ。舞を踊っていた時とはまったく別物だった。鈴や太鼓が経に続いて鳴り出すが、その音の中でも彼の声は負けていない。大本堂の最後尾にまで届いているのだろう。舞の時とは発声法が違うのかなあ……などと、大寿の声を聞きながら彼女はぼんやりと思う。大本堂の暑さのせいか、考えごとをするのも億劫だ。
大寿は護摩木を炎にくべながら、経を唱え続けていた。その背中を見つめながら、中学生の時に授業で習ったことを思い出す。護摩祈祷というのは主となる坊主――今の状況では夏目大寿が、当時はその父である先代が――身体と言葉と意識を神と一体にするために行うものらしい。炎にくべる護摩木に願いを書いたりすれば、それが叶ったり、神に言葉を届けたりできるそうだが、それはあくまでも副次的な効果に過ぎないと、担当教諭は言っていた。
たぶん、それは環音螺島の独自解釈によるものだと、今になってみれば察することができる。世間一般に在る天台宗や真言宗は密教と呼ばれており、意味はその字のごとく、修行を収めた血脈にのみ伝えられた秘密の教えに通ずるのだが、この島における密教は――そのままの意味だ。
世間には出せない、秘密の宗教。
仏教の皮を被った、密教。
護摩木をくべる度に高くなる炎。その向こうに鎮座する黒い岩石は、輝きを増しているように見えた。黒く、真っ黒く、深淵があるとするならばこんな色をしているのだろうと、どことなく不安を掻き立てるかのような、彩――。
一風の顎を汗が伝った。
隣に座す、三家の当主たちは目を閉じ、数珠を手にして口を動かしている。夏目大寿に続いて経を唱えているのだろう。彼女がぼんやりする意識を少しだけ浮上させれば、後ろからも経が聞こえてきていた。
(誰も彼も、唱えてる)
楽器がリズムを刻んでいるとはいえ、多少のズレはある。それでも一種の連帯感のようなものを感じた。大本堂の中に男たちの低い声と和楽器の音が渦となり、鳴り響いている。炎がどんどん大きくなっていく。温度も湿度も上がり、一風は大本堂の中が熱気に包まれていくのを肌で感じていた。
ひたいから汗が流れる。
(お昼、控え目にしてて良かった)
人口密度が高いことと、熱気、頭に響くような不快な音の渦のせいで、今にも吐きそうだった。こうなることを見越して、火河倫一郎は腹八分でやめておけ、と言ったのだろうか。昼食後、六時間で消化できる量を、と――
ガンガンと、頭が割れそうになるくらい、疼く。
その時、後ろで何か物音がした。一風がつい振り返ると、島民のひとりが倒れている。当主の代理だろう。後ろに控えるメンツの中ではまだ若い、五十代ほどの男性だった。
(……え?)
けれど、誰もそれを気にしない。
隣で、顔見知りが倒れているのに、誰も動かないのだ。一心不乱に経を唱え、目を閉じて祈っている。まるで、自らに神の片鱗でも構わないから、宿ってほしいと言わんばかりの必死さで……。
そして突然――
「ふぅぅおぉぁぁぁおあああっ!!!」
――誰かが奇声を上げた。
それを皮切りに人々が動き出す。立ち上がり踊り始めた者がいる。泣き叫んでその場に蹲る者がいる。言葉にならない獣のような声で叫ぶ者がいる。神よと連呼する者がいる。
(……な、に……)
異質で、不可解な行動を取る島民たち。
一風は口元を押さえた。そうしなければ悲鳴を上げてしまいそうだった。親しくはないけれど、顔は知っている人々が異常な行動をしている。熱気が、増した。ゆっくりと隣を見る。
火河倫一郎、水海千天、木守鳴弓は……微動だにしていない。後ろで起きていることなど気にも留めず、目を閉じて経を唱えていた。それは夏目大寿も同じだ。力強い声は、変わらない。まるで四家と後ろの彼らとの間に、見えない壁でもあるかのようだ。そうでなければ、何故こんなにも無関心でいられるのか。
狂っている。
頭の中に浮かんだ言葉が、すっと胸に入ってきた。
狂っている。
揺らめく御護摩の炎の向こうで、真っ黒な、巨大な岩石が、不気味に……けれど星空のように美しく、輝いていた――。
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