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20XX/12/24(土)
a.m.2:55「クリスマスイブ⑤」
しおりを挟む濃いのか、薄いのか。長いのか、短いのか。今のふたりの関係の感じ方はそれぞれ違うだろうが、彼は、その関係を終わらせようとしている。
五か月の間、彼と会わなくても困ることはなかった。慌ただしい生活だったせいもあるが、ずっと『神々廻慈郎』が頭の中にいたわけでもないし、胸を締めつけるような思いに駆られたこともない。
それでも今は、胸が痛む。
今後、会う可能性がゼロであると突き付けられ、今日が最後の夜だと思うと、どうしようもなく寂しかった。喪失感すら抱いている。この関係の終了を『はい、そうですか』と受け入れることはできない。
そして、喪失感と同じくらい、歯痒いのだ。
もう会わなくなるから最後の挨拶をしよう、だなんて、勝手が過ぎる。向こうにしてみればスッキリするだろう。思い残すことだってなくなるのかもしれない。だけど告げられたほうにしてみれば、冗談じゃない。こちらの意思はまったくの無視で関係の終了を告げられるなんて、そんなふざけた話があってたまるか、と苛立ちすら覚えている。
「勝手、すぎますよ。巻き込んで、逃げ出した場所に連れてって、人の過去とか、ぐちゃぐちゃにしておいて……消えたと思ったら、お金だけ渡して……五か月振りに顔を合わせたら、さよならの挨拶?」
「ごめんね」
「そっちは言いたいこと言って、やりたいことをやって満足しているかもしれませんけど、わたしの気持ちはどうなるんです? まさかお金を渡したから、全て飲み込めとでも言うつもりですか?」
「……怒らせちゃったね。ごめん。でも金で黙らせるとか、そういうつもりはないんだ。君の不満は全部聞く。君が納得できるまで、いくらでも。それが僕の――」
「責任だからとか言ったら張っ倒しますよ!!」
一風は彼に詰め寄りながら声を荒げた。衝動的に仕立てのいいスーツを掴みそうになったが、手を出すのはダメだと咄嗟に判断し、なんとか自制する。
夜景の見える観光スポットで声を張り上げる女。第三者がこの場にいれば、痴話喧嘩かと勘違いするかもしれない。幸い周囲に誰もいないが、いたとしても、今の彼女には目の前の男しか見えていなかった。
「本当に縁を切りたかったのなら、何も言わずに消えれば良かったでしょ? なんでわざわざ、わたしの前に現れて、言わなくていいこと言って、君の不満は受け止めるよなんて格好つけてるんですか!? ほんと意味分かんない!」
「ん、ごめん……」
「その薄っぺらいごめんもムカつく!」
「えっ」
「そもそも、わたしの不満を全部聞くのに数時間でこと足りると思われているのも腹立たしい! 会うのが今日で最後って言ったくせに、不満を全部聞くって、そういうことですよね!?」
一風はもう一歩、彼との距離を詰める。
「自分から切り捨てたくないからって、わたしに『もういいんです。さようなら』とでも言わせたいんですか!?」
「ちょっと待って、一風ちゃん落ち着いて――」
「終わらせたいのなら確固たる意志を持って終わらせてくださいよ! 車の中でも、さっきも、寂しげな顔で笑ったりして! 中途半端なことしてる自覚あります? いい大人なんだから、その程度の嘘くらいつけるでしょう?」
彼女が詰め寄りながら言うと、目の前の男は困ったように眉尻を下げた。
「つけるけど、つきたくないんだよ。一風ちゃんには。これまでたくさん嘘をついてきたから、最後くらいは全部打ち明けて『本当』で接したかった。もちろん、それが僕のエゴだってことは理解してる」
「どっちか選んでください」
「選ぶ?」
「今日で最後なのか、不満を全部聞くのか……もし、あなたが選べないなら、わたしが選びます」
彼を正面から見据える。
自分の倍以上、年が上の男と勢いに任せて話をする機会はめったにない。生意気な態度だと自覚している。けれど彼は不快な顔をするわけでもなく、静かに一風を見つめていた。泣きそうな顔に見えるのは暗いせいか、気のせいか。
「タイムアップです」
小さく、彼女は笑った。
「わたしは、あなたが五百旗頭さんでも、神々廻さんでもかまいません。だから、わたしが不満を言い終えるまで、いなくならないでください。関係はこのまま継続。はい、決定」
「ぁ……決定って、簡単に言うなあ……」
微笑む彼は、やはり泣きそうな顔に見えた。
「若さは偉大だってことかもしれない。眩しいほどの勢いだよ。先のことよりも、今のこの瞬間のために決断できるのは……大事にしてね」
「ええ、そうします。その内、なくしてしまうのかもしれないけど、今の間は」
一風はそう言うと、彼の腕にそっと触れる。そのまま腕を引いて、歩き出した。強い力ではないのに、彼は引かれるままについてくる。
「どこに行くの?」
「夜景、門司側も見たいです。寒いなら、コートお返ししますよ」
「いいよ。くっついてれば温かいしねえ」
「そうですか? 神々廻さん……いおきべさん? あなたが縦に長すぎて、風除けにはなれている自信はありません」
「風除けとしてじゃないよ。それから、僕のことは五百旗頭って呼んで」
「いおきべさん?」
隣の彼を見上げながら名前を呼ぶ。彼は――五百旗頭は「そう」と、目を柔らかく細めながら頷いた。
彼女は口の中で『いおきべさん』と何度か名前を転がす。まだしばらくの間は慣れた『神々廻』で呼んでしまいそうだ。
「いおきべさん」
「思ってたけど、言いにくい?」
「言い慣れないんです。それより、いおきべさん、今日の日が昇ってからの予定はあるんですか?」
「探偵業で素行調査が一件入ってるよ。クリスマスイブだからねえ。奥さんとの時間より、浮気相手との時間を優先しちゃう、どうしようもない男がいるんだよ」
「ロクでもない男ですね」
「同感。一風ちゃんは?」
「黒小鷺の巣で夜までバイトです。クリスマスイブだから、玻璃木ご夫妻がケーキを焼いてくれるんですよ。八雲も仕事が終わったら来るって言っていたので、ちょっとしたクリパをします」
「それは楽しそうな予定だね」
お世辞ではないだろう。五百旗頭の声は暖かい。黒小鷺の巣でのクリスマスパーティーを想像したのか、微笑ましいと言わんばかりの表情を浮かべていた。
一風は、少しの逡巡の後――五百旗頭の腕に、自分の腕を絡める。彼は驚いた様子もなく、それを受け入れてくれた。
「いおきべさんも来ますか?」
「え、僕?」
五百旗頭が目をまたたかせる。
「僕は……やめておくよ。素行調査が何時に終わるか分からないし、せっかくのクリスマスイブにお邪魔するのはねえ……それに、八雲くんにも謝らないといけないって思ってるんだ。行き当たりばったりじゃなく、ちゃんとした形で」
「八雲は怒ってないと思いますけど」
「怒ってるよ。君が思っている以上に、八雲くんはお姉ちゃんが大好きだからね。一発くらい殴られる覚悟はしてるかな」
「じゃあ、顔は殴らないように言っておきます」
彼女が真剣な声音で言う。五百旗頭は苦笑していた。
「一風ちゃんは本当に僕の顔、好きだね」
「否定はしません」
顔だけじゃないとは、言わない。
彼の言葉を信じるなら、五百旗頭は彼女の前から急に消えたりしないだろう。そうであるなら少しずつ伝えていけばいい。感謝も、好意も、不満も……何かしらの感情を向け続ける限り、五百旗頭はいてくれる。
聞きたいことも、まだまだあった。
特殊な職に就いている五百旗頭が環音螺島に来たのは、本当に花籤花枝からの依頼だけが理由なのか。妙に父のことを詳しく知っていたが、五百旗頭と何か関係があったのか。消えていた五か月に何をしていたのか。
聞けば、話してくれるのだろうか。そう自問してみても、今はまだ、明確な答えは出てこない。
十二月の冷たい海風が吹いている。
見えないものを信じない。聞こえないものを信じない。常識外のものを受け入れない。あちらの世界と彼女が生きる世界との間には、境界線がある。
その生き方を急に変えることができるとは思わないが、境界線のぎりぎりの場所に立ち、向こう側にいる――弟や、彼に、近付くことはできるだろう。亡くなってしまった両親の想いに触れて大事にできる、かもしれない。
受け入れられないことと、拒絶すること。それは似て異なるものなのだと知った、今の自分なら――。
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