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第六章

5.

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──月乃さん……?
 美里は名前を聞いても、すぐにはその存在を思い出せなかった。しばらく記憶を辿り、セイジさんの顔を見ていたら突然名前の人物が合致した。
「あっ……月乃さんって、あの、自転車屋さんの……」
 言いかけた美里の言葉を、セイジさんがやんわりと遮る。
「正確にはクリーニング屋です。そうですか……貸自転車も、まだ営業を続けているんですね」
 そう言って、セイジさんはどこか遠くを見つめるような目つきをする。全体的に清潔感の漂う雰囲気と、控えめながらも綺麗な面立ちを眺めていると美里は月乃さんの印象が重なった。
──この人、ひょっとして月乃さんの……?
「息子さんなのかもしれない」──口には出さずに美里が内心つぶやいた言葉に、反応したようにセイジさんは淡く微笑む。
「ここにいるみんな、月乃さんにお世話になったんだよ。あたしは自転車を格安で譲ってもらったり、美里は浴衣を着付けしてもらったりね……影は……影は何だったかな」
「一人だけ触れ合いがないみたいな言い方するな」
 ハツミ叔母さんの隣で拗ねている影を見て、セイジさんは静かに「そうですか」と頷いた。
 セイジさんはソファの上に美里の荷物を置く。一見すると三十台前半ぐらいに見えるセイジさんが、ふいにいくつも歳を重ねたように見えた。
「セイジさんは……霧に関するあやかしなんですか?」
 滞っていた空気がすうっと流れるように、言葉を挟んだ影の声は穏やかだった。びっくりして美里が影の様子を伺うと、しごく真面目な表情を浮かべている。
──影は、セイジさんに問い詰めるつもりはないんだ。
 美里は影の落ち着いた声に、何故か安堵の気持ちを覚える。
「はい……本当の私は、十年前に登山中の滑落で命を落としました」
 え、と美里は呻くように声を漏らしたまま、ぽかんと口を開けてしまった。辺りは再び静まり返り、美里の思考は停止しそうになった。
「私は学生の頃から登山が趣味で、よく友人たちと一緒に山に出かけていたんです。何度も行ったことのある山でしたし、気軽な気持ちで行きました……まさかそれが最期の日になるとは思いませんでした。今でも、正直あまり自分の生活が変わったという自覚がないんですけど」
 照れたようにセイジさんは笑い、頭を掻いた。美里の疑問はどんどん膨らんでいく。
 ハツミ叔母さんは美里に気づかわし気な視線を向け、セイジさんにも目を向けた後、口を開いた。
「月乃さんは、セイジくんの部屋をそのままにしていたよ」
 セイジさんの目が驚きで見開かれる。
「今でも、ですか……?」
 セイジさんの声は掠れていた。ハツミ叔母さんは大きく頷き、言葉を続ける。
「山登りが趣味の子だったから、今でもあの子の魂は山の近くにいるに違いない……月乃さんはそんなふうに言っていた」
 言葉はなく、セイジさんは俯く。鼻をすするような音が聞こえたので、美里は目を逸らした。必要以上に、見てはいけない気がしたのだ。
「いつかお金を貯めて、山の近くでペンションを経営したいって、それがあの子の夢だったんだって月乃さんはあたしに教えてくれた」
 息を継ぐと、ハツミ叔母さんはわざとおどけた言い方をする。
「まさか、亡くなってから夢を叶えてます! だからご安心を! とも言えないしさ」
 むしろ言えたらいいんだけどね、とハツミ叔母さんは口ごもる。
 美里は話を聞くうちに、胸の内がもやもやとわだかまってきた。
──月乃さんに、今のセイジさんを見せてあげられたら。
 セイジさんは、口をつぐんだままじっと動かなかった。恐らく母親である月乃さんのことを考えているんだろう。
 月乃さんは月乃さんで、息子を亡くした悲しみに長年耐えて今も生き続けているはずだ。
ひっそりとした月乃さんの佇まいを思い出し、美里は胸が潰れそうになる。
 母を失った美里は、大切な人がぽっかりと消えてしまった喪失感と苦しみが痛いほど理解できた。
 気が付くと美里は、大きな声を出してしまっていた。
「ねえ、どうにかして月乃さんに教えてあげられないの? セイジさんの元気な姿を一瞬だけでも見せてあげるとか!」
 ハツミ叔母さんが黙っているので、美里は駆け寄って丸い肩を揺さぶった。
「ハツミ叔母さん! それってやっちゃいけないことなの?」
 美里の勢いに気圧されてハツミ叔母さんは、めずらしくうろたえていた。
「落ち着いて美里……別にやっちゃいけない、ってことはないんだけどさ、その……あるんだよ。人間とあやかしにはそれぞれ住む世界が……」
「何でよ!?」
──ハツミ叔母さんが悪いわけじゃない。
 わかっているはずなのに、美里は怒りを止めることができずにハツミ叔母さんに問い続けた。月乃さんの絶望は、美里の絶望でもあった。
 すると突然霧が晴れたように、美里の頭の中にある可能性が閃いた。
「……一瞬だけでも、ってさっき私、言いましたよね。セイジさんの元気な姿を見せるだけでも、って」
 美里がニヤリと笑うのを、そこにいた誰もが不思議そうに見つめていた。
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