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第六章

6.

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   美里には考えがあった。しかし、それをセイジさんや月乃さんが望んでいるのかはまた別の問題だった。
 美里が時折遭遇してきた母の断片は、それでも美里を幸せな気持ちにしてくれた。ほんの一瞬でも、母との時間が巻き戻ったような幸せな錯覚に陥った。
 幸せな錯覚──。そう、それはまぼろしであったけれど……。

「取りあえず、私は夕食の支度をしてきますので……皆さんはお部屋を決めて寛いでいてください」
 話に区切りをつけるように一礼すると、セイジさんは部屋を出てしまった。
 少しの沈黙の後、先ほどの会話には触れず、まずはそれぞれの部屋を決めることにした。
 結局美里は花柄を基調とした可愛らしい部屋。影は青と白のストライプのカーテンがかかったシンプルなインテリアの部屋。そしてハツミ叔母さんはバリ風の布に、籐でできたテーブルやチェストが並んだアジアンテイストの部屋に決めた。
「本当にバラバラなインテリアだよね。お客さんの好みを気遣ってるんだろうかね」
 外側は完全に洋館だったが、部屋はそれぞれで、美里は他の部屋も覗いてみたいと思っていた。
 影はハツミ叔母さんが寝るであろうベッドの強度を確かめ、眉根を寄せる。
「このベッド……華奢じゃないかな。大丈夫か?」
「大丈夫よお!」
──軽い、って言ったのは嘘だったのに。
 美里はじっとりとした視線でハツミ叔母さんを見つめ、叔母さんは舌を出した。
 三人で調度品を褒めたり、叔母さんの性質をツッコんだりしていると、控えにドアがノックされる。
「皆さん、お食事の支度が出来ましたので……一階にお集まりください……」
 ハッとして時計を確かめようとしたが、この部屋には時計がない。美里は自分の腕時計を確かめようとしたが、洋館に入ってきた十五時半で止まっていることがわかった。
「もう、そんな時間か……っていうか、今は夜なのかな?」
 影が呆然とつぶやく。
「この辺りではいつだって夕方から夜をくり返しているんだよ」
 ハツミ叔母さんが美里と影を交互に見て言った。
 濃い霧が常に立ち込められるようにね。
 叔母さんは祈るようにゆっくりと、そう言うと腰かけていたベッドから立ち上がった。
「さあ、せっかくの夕食が冷めないうちにいただこう!」

 階下に降りた美里たちは、テーブルの上に心づくしのセッティングがされているのを見た。
 三人の座る席にクロスがかけられ、よく磨かれたナイフとフォークが並んでいる。
「ごく家庭的なものですが、ささやかなコースをご用意しております」
 セイジさんは再び一礼すると、まずは前菜を運んできてくれた。小さなガラスの器に入った美しく飾り切りが施された野菜のムース。それにキッシュとサラダが添えられる。続いて温かいグリーンピースのスープがサーブされる。
「とても美味しいです……」
 温かいパンをトングで小皿に並べてくれていたセイジさんが、美里の感想に照れくさそうに微笑んだ。
「お口に合ってよかったです……今日のメインはお魚ですが、ただいまお持ちしますね」
──すべてに温かい味がする。
 美里は料理を味わいながら考える。もちろん味付けは美味しい。盛り付けも繊細できれいだ。
 でも、見かけと味と言うよりは、口に入れた際にほっと心が温かくなるような何かをすべての料理に感じるのだった。
 メイン料理であるスズキのポワレが出た後に、木苺のタルトにアイスクリームが添えられた小さなデザートが供され、食後のお茶が運ばれてきた。
 大食漢のハツミ叔母さんには物足りないのではないかと思いきや、意外にも満足そうな顔をしている。
「ああ美味しかった。セイジくんの料理は……お腹の中に明かりが灯ったような気持ちになるんだよね。すごく満足するんだ」
 ハツミ叔母さんの言葉に、美里も納得して深く頷く。
「そう……私も同じようなことを思いました。どのお料理も、最初に淹れてもらったチャイも、すごく温かい味がするなぁって……」
 美里も感想を口にすると、セイジさんははにかんだ。「そう言っていただけると、とても嬉しいです」とセイジさんは恥ずかしそうに微笑む。
「料理はどこで勉強したんですか?」
 紅茶に口をつけていた影が質問をすると、セイジさんは真っすぐに顔を上げた。
「生前に料理の学校で勉強はしました。でも……料理に関しては、母の影響をかなり受けていると思います」
 セイジさんの穏やかな口調の裏には、揺るぎない信念のようなものが感じられた。
「母は、決して抜きんでて料理上手ではありませんが、とても丁寧に食べ物を扱うんです。工程の一つ一つに心を込めて……それを口に運ぶ人を思いやるんだといつも言っていました」
 美里は思い浮かべる。
 月乃さんのお店に出して戻ってきた、真っ白で美しく畳まれたシャツ。浴衣を治してくれる時の繊細で丁寧な手つき。
「心は目に見えませんが……込めた想いは仕上がりにどこかしら現れると母は信じていて、私も信じているのかもしれません」
 影はセイジさんの説明に納得したのか、セイジさんを見つめる目には尊敬の念が込められていた。
「目に見えなくても、俺には伝わりました」
 皮肉屋の影が真っすぐにそう言うと、セイジさんは嬉しそうに小さく笑った。
「人の心に明かりを灯す」
「えっ?」
 ハツミ叔母さんがつぶやくと、セイジさんはハッとして叔母さんの顔を見つめる。
「星地、と書いてセイジ。月乃さんに聞いたセイジくんの名前の由来──満天の星の光が月乃さんの心を慰めてくれたことがあったらしい。その思い出を名前に込めた、と話してくれたよ」
 そう、なんですか……。
 セイジさんは俯き、悲しみと嬉しさが入り混じった複雑な表情を浮かべる。ほんのわずかな弾みで泣き崩れてしまいそうにも見えた。
 美里は小さく息を吸い込むと、心を決めて言った。
「セイジさん、この霧を利用できませんか?」
 あやふやだった表情のまま、セイジさんが美里の目を覗きこむ。その目はまだ疑念に満ちていた。
「霧がかかっているほんのわずかな間だけ、月乃さんをここに呼ぶんです」
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