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明神の孫
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音がした。波の音。泡の音。なつかしい音。
通信は目蓋を持ちあげた。
どこまでも続く西海の海は緑に輝いて、しかしその先が真っ赤に染まっていた。夕日の赤でもない。島が燃えているのでもない。海そのものが火柱をあげているのである。
炎はとぐろを巻いた大蛇である。体を覆った鱗が白く捲り上がり弾ける。それが火の粉となって空に溶けだしていた。
その光景は恐ろしくも美しい。通信は波をかきわけて近寄った。
額が熱い。息が苦しい。
そこに、父の気配を感じた。灼熱に爛れた皮膚も、縮れた髪も、気にならない。なにも怖がることはない。
手を伸ばしたそのとき、背後からだれかに襟をつかまれた。えっ、と振り返った瞬間、海中に引きずりこまれる。待ってくれ。おれには鱗があるのだ。ぎらぎらと輝き、すべての厄災をはね除けるあの鱗があれば――。
息苦しさに、はっとして飛び起きた。冬だというのに蒸し暑い。汗で着物がぐっしょりと湿っていた。ぼんやりとした景色が、徐々に鮮明になる。
昼まで眠りこけていたのだろうか。まぶしさに通信は目を細めた。
馬蹄が地面を削っている。叫び声。びょうびょうと夜空を切り裂く矢の音。それらが夜風にのって渦のようにある。ああ、気持ちが悪い。
「若、早く」
枕元に弓と太刀を抱えた忠員が立っていた。
立ちあがり、あたりを見回そうとして、酷い頭痛に襲われる。同時に胃から迫りあがってくる不快感があった。
通信は咄嗟に蔀戸を蹴破り、庭に飛びおりた。指をのどの奥に突っこむと地面に吐瀉物をぶちまける。甘酸っぱくて苦い、酒の不快な部分を煮詰めたような味が口のなかに広がった。
「夜襲です」
「夜襲?」
通信は忠員の手から水の入った竹筒を受けとると一気に煽る。
「飯炊きの煙が昇っていたのに」
「油断を招くための罠だったのでしょう。もしかしたら、今日のあの舟も」
「言うな、忠員」
熱に耐えられなくなったのだろう。館の柱が音を立ててひしゃげた。頭上から降り注ぐ火の粉が風に巻かれた枯れ葉に飛び火して、炎の勢いが増していく。
「逃げましょう」
忠員に抱えられるようにして、通信は駆けた。
「七郎や他のものどもは」
「先に舟で待っております」
「臼杵殿と緒方殿は」
「さあ。しかし、お二方のことですからきっと」
どうにかして館の裏手側にまわりこむ。喧噪は遠くにあって、夢まぼろしのようであった。むしろ通信の耳は、岸壁に打ちつけては砕ける波の音に支配されている。
「や、若! 舟が」
忠員がまっ黒な海を指さした。見れば、人魂のような頼りない灯りが三つ、ゆらりゆらりと揺れながら遠ざかっていく。
「臆病者め!」
いまにも崖を駆けくだっていきそうな忠員の頭を、通信は押さえつけた。飛びきた矢が耳のすぐそばをかすめる。通信は上体を捻り、振りかえりざまに矢を放った。
「ここにいたら的になるだけだ」
さきほどまで感じていた頭痛はどこへ消えたのか、すべてのものが妙にくっきりと見えていた。地を蹴って立ちあがると、今度は通信が忠員を引きずるようにして駆ける。
「いたぞ! 射れや!」
敵の声を背でうけた。咄嗟に燃えあがる館のなかに飛びこむ。熱風に煽られながら土間を抜け、炊事場を抜けて、再び外に出た。炊事場の裏手には、雑人たちの簡素な小屋がひしめいている。
いつもならば飯炊き女や雑人どもが折り重なるようにして眠っているが、いまはひとの気配がまったくなかった。おそらく我先にと逃げてしまったのだろう。
通信はぞんざいに置かれていた甕を持ちあげ、頭から水をかぶった。
背後で蹄の音がする。振りかえると、そこかしこに馬がいた。厩から逃げだしたのか、あるいは主人を振りおとしたのか。鞍をつけたままの馬もいる。
「あれだ」
通信と忠員は、手をうった。
馬たちのなかに毛並みの良いあおかげ青鹿毛がいた。四尺三寸はありそうな立派な体格の牡馬だ。耳を後ろに寝かせて迷惑そうに尾を振っている。筋張った首筋からは汗が滴っていた。
「いい!」
通信はとっさに手綱を握って飛び乗った。青鹿毛は大きく首を振り、背に跨がったものを振り落とそうと竿立ちになる。
「言うことを聞けよ」
通信は馬の胴をふくらはぎで締めつけながら、力まかせに手綱を引き寄せた。それでもまだ後ろ脚で地面を蹴って暴れ狂う青鹿毛に、ほとんどしがみつくようにしていると、忠員にため息をつかれた。
「こんなときになぜ気性の荒い馬を」
「だって」
忠員の言葉に、通信は口を尖らせた。
青鹿毛をなんとかいなし駆け出ると、すぐに敵兵に見つかった。通信と忠員は矢を太刀で叩き落とし、敵を馬の蹄でひっかけ倒しと奮った。
精兵はいないのだろう。騎乗の二人を見るやいなや、あとずさるような兵ばかりであった。甲冑姿の武者もまばらで、手にした武器も粗末だ。このような弱腰のものどもに、ただ蹴散らされたとあっては末代までの恥だろう。将の首の一つや二つ、取ってやろうか。
つい、欲が出てきた。通信は鐙を踏んばり立ちあがると、太刀を振りながら大声をあげる。
「伊予国の住人、河野四郎通信、生年二十二歳。不意撃ちに斃れるような兵だと思われるのは心外だ! どうだ、我こそはというものはいないのか、このおれが相手してやる」
それを聞いた兵たちは、互いに顔を見合わせると肩をすくめる。
「若!」
たしなめる忠員を制して、通信は堂々と駒を進めた。
「どうした腰抜け。おれの首は良い恩賞になるぞ」
蹄で兵たちを脅し、にやりと笑ってみせる。
「そういうことならば、おれが相手をしてやろう」
燃えさかる今木の城を背にして、騎馬武者が一騎、前にでた。低く、よくとおる低い声だ。相手にとって不足なし――通信は青鹿毛の手綱をひいた。二人の武者を取りかこむように、敵の兵たちが集まってくる。
通信は忠員にさがれと目配せし、炎を背負う武者と相対した。通信が矢をつがえようとすると、武者は名も名乗らずに馳せ迫る。迫りながら矢をつがえ弦をひいた。動作すべてに無駄がない。通信は手にしていた矢を捨て、咄嗟に上体を伏せた。敵矢が凄まじいうなりをあげて頭上をかすめ飛ぶ。馬同士が、ぶつかりそうな距離ですれちがった。
「ばかやろう、せめて名を名乗れ!」
振り向きざま、通信は怒鳴った。同時に、背筋に冷や汗が流れおちる。いまの一矢は、かわせた。けれど次はどうだ。当たれば死ぬ――そう思わせるほどに、武者の矢筋は鋭いものだった。こんな矢を放つ武者を、通信は一人しか知らない。
「お前、おれを覚えていないのか河野四郎通信。おれは能登守。平教経だよ」
武者が笑った。
腹の底から頭のてっぺんを、氷の柱が貫いた。早鐘のような心臓の音が耳の内側でこだまする。掌と足の裏がいつのまにか、ぐっしょりと湿っていた。反対に口のなかは干からびて、呼気が胸につかえる。
「嘘だ、能登守は死んだって」
熱風が枯れ葉を巻きあげた。火の粉が飛びかい、吹返しの影になっていた男の顔が照らされる。ぎらり、と突き刺すような視線が通信を射貫いた。武者の体から発せられる強者の圧。それは紛うことなく、沼田で感じた教経のものであった。屈辱と恐怖がよみがえる。自然と身がすくんだ。手足がいうことをきかない。
「逃げますよ、若!」
「あ」
忠員に手綱を揺すられて我にかえった。
こいつはまずい。厄介だ。腹いせにとるような首ではない。それどころか鎧も身に着けていない通信では、返り討ちにあうのが関の山だろう。
通信は恥も外聞もかなぐり捨てた。馬首を返すと、人垣を蹴散らして逃げる。
「追え」
猛将の短く鋭い声。ただその一言で兵士たちの殺意が研ぎ澄まされたものとなる。こんなところで死んでたまるかよ――通信は、青鹿毛の腹を蹴りあげた。
そのあとのことは、よく覚えていない。無我夢中で山道を駆けくだった。尖った枝が肩や脇腹をかすめ、木々にぶらさがる蔦が頬や額を叩いた。浅瀬を駆け、春が来れば田畑になるのであろう泥濘を駆け抜けた。枯れた笹やすすきの生い茂る大地を、ただひたすらに駆けた。
やがて空が白み、山々の稜線が黒々としてあらわれる。靄がたなびき、里山を覆いつくす様子は、絶景といってさしつかえない。
通信は馬をとめた。肺を刺す冷気に、息が白く煙っていた。
ああ、負けたのか。おれはまた負けたのだ。
青鹿毛の背から転げおちる。
「忠員」
霜のおりた大地がじわりと溶けて、通信のすべてを無条件で受けいれた。
鼻の奥が熱い。惨めで、悔しくて、悲しかった。どうして負け続けるのだろうか。すべては神々の気まぐれではないか。
「おれはまた負けた」
忠員は答えなかった。汗にまみれた二頭の馬の手綱を木に繋ぐ。
「馬がもう限界でしょう。我々も、限界でございますね」
忠員はそう言うと、大の字に寝転んだ通信の真横にうつぶした。
「お前、なんでおれを見捨てないの」
七郎も水夫らも通信を見捨てた。当然といえば当然だ。憎さがないといったら嘘になるが、結局おのれを救うことができるのは、おのれしかない。それがこの世のことわり理である。
「いや、なんでって。沼田でわたしを助けたのは若でしょ」
忠員が言った。いまにも眠ってしまうのではないかというような鼻声である。
なごりおしそうに尾を引いた薄い雲の隙間を、鳥たちがさえずり羽ばたき行く。馬が草を食む単調な音が、妙に心地よい。
とろり、とろりと、意識が沈んでいった。
通信は目蓋を持ちあげた。
どこまでも続く西海の海は緑に輝いて、しかしその先が真っ赤に染まっていた。夕日の赤でもない。島が燃えているのでもない。海そのものが火柱をあげているのである。
炎はとぐろを巻いた大蛇である。体を覆った鱗が白く捲り上がり弾ける。それが火の粉となって空に溶けだしていた。
その光景は恐ろしくも美しい。通信は波をかきわけて近寄った。
額が熱い。息が苦しい。
そこに、父の気配を感じた。灼熱に爛れた皮膚も、縮れた髪も、気にならない。なにも怖がることはない。
手を伸ばしたそのとき、背後からだれかに襟をつかまれた。えっ、と振り返った瞬間、海中に引きずりこまれる。待ってくれ。おれには鱗があるのだ。ぎらぎらと輝き、すべての厄災をはね除けるあの鱗があれば――。
息苦しさに、はっとして飛び起きた。冬だというのに蒸し暑い。汗で着物がぐっしょりと湿っていた。ぼんやりとした景色が、徐々に鮮明になる。
昼まで眠りこけていたのだろうか。まぶしさに通信は目を細めた。
馬蹄が地面を削っている。叫び声。びょうびょうと夜空を切り裂く矢の音。それらが夜風にのって渦のようにある。ああ、気持ちが悪い。
「若、早く」
枕元に弓と太刀を抱えた忠員が立っていた。
立ちあがり、あたりを見回そうとして、酷い頭痛に襲われる。同時に胃から迫りあがってくる不快感があった。
通信は咄嗟に蔀戸を蹴破り、庭に飛びおりた。指をのどの奥に突っこむと地面に吐瀉物をぶちまける。甘酸っぱくて苦い、酒の不快な部分を煮詰めたような味が口のなかに広がった。
「夜襲です」
「夜襲?」
通信は忠員の手から水の入った竹筒を受けとると一気に煽る。
「飯炊きの煙が昇っていたのに」
「油断を招くための罠だったのでしょう。もしかしたら、今日のあの舟も」
「言うな、忠員」
熱に耐えられなくなったのだろう。館の柱が音を立ててひしゃげた。頭上から降り注ぐ火の粉が風に巻かれた枯れ葉に飛び火して、炎の勢いが増していく。
「逃げましょう」
忠員に抱えられるようにして、通信は駆けた。
「七郎や他のものどもは」
「先に舟で待っております」
「臼杵殿と緒方殿は」
「さあ。しかし、お二方のことですからきっと」
どうにかして館の裏手側にまわりこむ。喧噪は遠くにあって、夢まぼろしのようであった。むしろ通信の耳は、岸壁に打ちつけては砕ける波の音に支配されている。
「や、若! 舟が」
忠員がまっ黒な海を指さした。見れば、人魂のような頼りない灯りが三つ、ゆらりゆらりと揺れながら遠ざかっていく。
「臆病者め!」
いまにも崖を駆けくだっていきそうな忠員の頭を、通信は押さえつけた。飛びきた矢が耳のすぐそばをかすめる。通信は上体を捻り、振りかえりざまに矢を放った。
「ここにいたら的になるだけだ」
さきほどまで感じていた頭痛はどこへ消えたのか、すべてのものが妙にくっきりと見えていた。地を蹴って立ちあがると、今度は通信が忠員を引きずるようにして駆ける。
「いたぞ! 射れや!」
敵の声を背でうけた。咄嗟に燃えあがる館のなかに飛びこむ。熱風に煽られながら土間を抜け、炊事場を抜けて、再び外に出た。炊事場の裏手には、雑人たちの簡素な小屋がひしめいている。
いつもならば飯炊き女や雑人どもが折り重なるようにして眠っているが、いまはひとの気配がまったくなかった。おそらく我先にと逃げてしまったのだろう。
通信はぞんざいに置かれていた甕を持ちあげ、頭から水をかぶった。
背後で蹄の音がする。振りかえると、そこかしこに馬がいた。厩から逃げだしたのか、あるいは主人を振りおとしたのか。鞍をつけたままの馬もいる。
「あれだ」
通信と忠員は、手をうった。
馬たちのなかに毛並みの良いあおかげ青鹿毛がいた。四尺三寸はありそうな立派な体格の牡馬だ。耳を後ろに寝かせて迷惑そうに尾を振っている。筋張った首筋からは汗が滴っていた。
「いい!」
通信はとっさに手綱を握って飛び乗った。青鹿毛は大きく首を振り、背に跨がったものを振り落とそうと竿立ちになる。
「言うことを聞けよ」
通信は馬の胴をふくらはぎで締めつけながら、力まかせに手綱を引き寄せた。それでもまだ後ろ脚で地面を蹴って暴れ狂う青鹿毛に、ほとんどしがみつくようにしていると、忠員にため息をつかれた。
「こんなときになぜ気性の荒い馬を」
「だって」
忠員の言葉に、通信は口を尖らせた。
青鹿毛をなんとかいなし駆け出ると、すぐに敵兵に見つかった。通信と忠員は矢を太刀で叩き落とし、敵を馬の蹄でひっかけ倒しと奮った。
精兵はいないのだろう。騎乗の二人を見るやいなや、あとずさるような兵ばかりであった。甲冑姿の武者もまばらで、手にした武器も粗末だ。このような弱腰のものどもに、ただ蹴散らされたとあっては末代までの恥だろう。将の首の一つや二つ、取ってやろうか。
つい、欲が出てきた。通信は鐙を踏んばり立ちあがると、太刀を振りながら大声をあげる。
「伊予国の住人、河野四郎通信、生年二十二歳。不意撃ちに斃れるような兵だと思われるのは心外だ! どうだ、我こそはというものはいないのか、このおれが相手してやる」
それを聞いた兵たちは、互いに顔を見合わせると肩をすくめる。
「若!」
たしなめる忠員を制して、通信は堂々と駒を進めた。
「どうした腰抜け。おれの首は良い恩賞になるぞ」
蹄で兵たちを脅し、にやりと笑ってみせる。
「そういうことならば、おれが相手をしてやろう」
燃えさかる今木の城を背にして、騎馬武者が一騎、前にでた。低く、よくとおる低い声だ。相手にとって不足なし――通信は青鹿毛の手綱をひいた。二人の武者を取りかこむように、敵の兵たちが集まってくる。
通信は忠員にさがれと目配せし、炎を背負う武者と相対した。通信が矢をつがえようとすると、武者は名も名乗らずに馳せ迫る。迫りながら矢をつがえ弦をひいた。動作すべてに無駄がない。通信は手にしていた矢を捨て、咄嗟に上体を伏せた。敵矢が凄まじいうなりをあげて頭上をかすめ飛ぶ。馬同士が、ぶつかりそうな距離ですれちがった。
「ばかやろう、せめて名を名乗れ!」
振り向きざま、通信は怒鳴った。同時に、背筋に冷や汗が流れおちる。いまの一矢は、かわせた。けれど次はどうだ。当たれば死ぬ――そう思わせるほどに、武者の矢筋は鋭いものだった。こんな矢を放つ武者を、通信は一人しか知らない。
「お前、おれを覚えていないのか河野四郎通信。おれは能登守。平教経だよ」
武者が笑った。
腹の底から頭のてっぺんを、氷の柱が貫いた。早鐘のような心臓の音が耳の内側でこだまする。掌と足の裏がいつのまにか、ぐっしょりと湿っていた。反対に口のなかは干からびて、呼気が胸につかえる。
「嘘だ、能登守は死んだって」
熱風が枯れ葉を巻きあげた。火の粉が飛びかい、吹返しの影になっていた男の顔が照らされる。ぎらり、と突き刺すような視線が通信を射貫いた。武者の体から発せられる強者の圧。それは紛うことなく、沼田で感じた教経のものであった。屈辱と恐怖がよみがえる。自然と身がすくんだ。手足がいうことをきかない。
「逃げますよ、若!」
「あ」
忠員に手綱を揺すられて我にかえった。
こいつはまずい。厄介だ。腹いせにとるような首ではない。それどころか鎧も身に着けていない通信では、返り討ちにあうのが関の山だろう。
通信は恥も外聞もかなぐり捨てた。馬首を返すと、人垣を蹴散らして逃げる。
「追え」
猛将の短く鋭い声。ただその一言で兵士たちの殺意が研ぎ澄まされたものとなる。こんなところで死んでたまるかよ――通信は、青鹿毛の腹を蹴りあげた。
そのあとのことは、よく覚えていない。無我夢中で山道を駆けくだった。尖った枝が肩や脇腹をかすめ、木々にぶらさがる蔦が頬や額を叩いた。浅瀬を駆け、春が来れば田畑になるのであろう泥濘を駆け抜けた。枯れた笹やすすきの生い茂る大地を、ただひたすらに駆けた。
やがて空が白み、山々の稜線が黒々としてあらわれる。靄がたなびき、里山を覆いつくす様子は、絶景といってさしつかえない。
通信は馬をとめた。肺を刺す冷気に、息が白く煙っていた。
ああ、負けたのか。おれはまた負けたのだ。
青鹿毛の背から転げおちる。
「忠員」
霜のおりた大地がじわりと溶けて、通信のすべてを無条件で受けいれた。
鼻の奥が熱い。惨めで、悔しくて、悲しかった。どうして負け続けるのだろうか。すべては神々の気まぐれではないか。
「おれはまた負けた」
忠員は答えなかった。汗にまみれた二頭の馬の手綱を木に繋ぐ。
「馬がもう限界でしょう。我々も、限界でございますね」
忠員はそう言うと、大の字に寝転んだ通信の真横にうつぶした。
「お前、なんでおれを見捨てないの」
七郎も水夫らも通信を見捨てた。当然といえば当然だ。憎さがないといったら嘘になるが、結局おのれを救うことができるのは、おのれしかない。それがこの世のことわり理である。
「いや、なんでって。沼田でわたしを助けたのは若でしょ」
忠員が言った。いまにも眠ってしまうのではないかというような鼻声である。
なごりおしそうに尾を引いた薄い雲の隙間を、鳥たちがさえずり羽ばたき行く。馬が草を食む単調な音が、妙に心地よい。
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