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藤戸合戦
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すすきや笹の茂る道をずっと行く。いくつかの雑木林を抜けると、左手に小さな島々が連なる遠浅の海が広がった。島々のなかでもっとも存在感のある島が児島だ。この島と、備前国の藤戸浦とのあいだに広がる浅海を、吉備の穴海といった。
藤戸浦に着くと景高は馬を郎等にあずけ、さっさとどこかへ行ってしまった。
通信はあたりを見まわした。気性の荒そうな男たちが、手持ち無沙汰そうにたむろしている。景高は通信の格好をなじったが、彼らのほうがよっぽどひどい。
着こんだ直垂は野暮ったく垢抜けない。鬢がほつれて烏帽子の隙間からは縮れた髪がこぼれているし、脂ぎった額や頬には煤がつき黒々として汚らしい。談笑するのは結構だが、薄汚れた黒い肌のなかにのぞく黄色い歯というのは、見ていて気持ちがいいものではない。
また、そこから発せられる言葉が聞くにたえない。正直なにを言っているのか良くわからなかった。ただ、言葉尻を投げ捨てるような話しかたが酷く棘々しく聞こえる。
坂東のものどもには、ひとのこころがないのかもしれない。通信は内心おびえた。
「河野四郎殿でしょうか」
ふいに声をかけられて、通信はおもわず飛びあがった。それを見ていたものどもが、通信を指さして、どっと湧いた。
「おのれら、叩き斬ってやる!」
「ああ、お気になさらず。彼らはどうにもこうにも、理屈もわからぬ凡下ですから」
太刀の柄に手をかけた通信を、声をかけてきた男がなだめた。耳に心地よい、おっとりとした京風の言葉である。男は着ているものも立ち居振るまいも、通信を嘲笑したものたちに比べて洗練されていた。おそらく源氏方の京武者だろう。
「三河殿がお呼びです。わたしについてきていただけますか」
三河殿とは三河国の国司である源範頼のことだ。坂東で旗揚げをし、いまや大勢力となった源よりとも頼朝の弟である。頼朝にはもう一人、義経という弟がいた。範頼と義経、この二人が将として軍勢を率い、一ノ谷の合戦で平家の大軍に打ち勝ったのだ。
通信は小さくうなずくと、男について歩いた。
「三河殿、河野殿をお連れいたしました」
通信が陣幕をくぐると、男たちの視線が集中した。居並ぶ男たちは、だれもかれもが歴戦の武者と形容されるものばかりのように見える。
場の一番奥で、若い男が手をあげて通信を迎えた。
朽葉色の直垂は総柄で、集ったものたちのだれよりも良い身形をしている。色が白く尖った顎。切れ長の一重まぶたが涼やかだった。
「伊予国の住人、河野四郎通信。恐れ多くも、かねてより源氏の力になりたいと思い、この西海で奮闘してまいりました」
「いや、そうかしこまらずに。貴殿のことは臼杵殿や緒方殿からも聞いている」
「いま、臼杵殿と緒方殿と」
列席している男たちを見まわす。通信は、ばつの悪そうな表情を浮かべた二人の姿を見逃さなかった。目を細めて笑いかけると、兄弟は気まずそうに視線をそらす。しかし満面の笑みをたたえている範頼に、そのような機微がわかるはずもない。
「臼杵殿と緒方殿からは舟三艘と兵糧をいただき、大変助けられました」
「おまえら!」
通信はたまらずに叫んだ。
「それはおれの。おれが、奪った、舟と、兵糧!」
「そうは言うが河野殿。あの舟をここまで操り、荷を届けたのはおれたちだろう」
通信の勢いにのけぞった緒方とは対照的に、薄ら笑いを浮かべながら臼杵が言った。
「ちくしょう」
「よさないか、三河殿の御前で」
ひときわ貫禄のある老兵が、通信、臼杵、緒方をたしなめる。
「まあ、土肥殿。今木での籠城はさぞやこたえたのであろう。はは、ははは」
範頼が引きつりながら笑っていた。
土肥次郎實平――備前、備中、備後の三国を任された惣追捕使だ。
髪も髭も白い。しかし腕も足もたくましく、胸を前につきだすように背を伸ばしている姿は厳めしい。主張の強い眉。眼光は鋭く、額に深く刻まれた皺と相まって、絵に描いたようなこわもて強面であった。少し垂れた鼻頭が、ゆいいつ愛嬌のある部分かもしれない。深草色の直垂がよく似あっている。
「河野殿、あらためて。よくぞわが陣へ参られた」
ひとの好さそうな笑顔を浮かべて範頼が言った。緊張感の漂う場の空気をなんとかしたかったのかもしれない。
「ろくにもてなしもできない我が陣ではあるが、どうか今日はゆるりとしてほしい」
「いえ、わたしのようなものに三河殿が御心をくだく必要などありません」
「平家方との合戦は、十二月七日――どうか、あなたの知恵をお借りしたい、このとおり」
深々と頭を垂れる範頼に、通信は面食らった。大将なのだから、もっと偉そうにしていてくれたほうがこちらの気持ちが楽である。
いいひとは苦手だ。
臼杵や緒方とは顔を合わせるのも癪だったので、通信はふらふらと周囲を散策することにした。そこかしこに坂東のものたちがたむろしていたが、見知った顔があるわけでもない。景高の姿を探してみたものの、あの耳障りな声の気配すらなかった。
しかたなく忠員と二人、火でもおこそうかと腰をおろしたときだった。
「河野殿」
視線をあげると、一人の武者が通信の顔をのぞきこんでいた。通信よりも一回りほど歳上だろうか。口元にたくわえた髭が黒々として美しい。
「あの」
「佐々木三郎盛綱」
武者が名乗る。さきほど範頼のもとに集まっていた武者たちのなかに見た顔だ。
「もし、さしつかえなければ、わたしたちが城郭をかまえる高坪山へ来ませんか。貴殿のようなものを、こんなところで野宿させることはできません」
「豊後の二人は」
「彼らは土肥殿のもとに」
「なら、良かったです」
盛綱についてしばらく歩く。歩きながら盛綱は、自分の生い立ちについて語ってくれた。いわく、彼の父が平治の乱で源氏方につき敗走し、故郷を捨てて坂東に逃れたこと。そこで出会ったある武士に匿われ、ずっと世話になっていたこと。ついに源頼朝が旗揚げをし、いまこうしてやっと、本来の武者としての働きができているのだということ。
そういう生きかたもあるのだなと、通信は思った。そして、それを面白おかしく語る盛綱に好感を抱いた。誇らしいことも、不名誉なことも、ひっくるめて自分に対して語ってくれる盛綱は、気の良いひとなのだろう。
城郭につくと、すぐに寺のなかへと案内された。城郭といっても、高坪山の山寺を掻盾でかこっただけ簡素なものである。
「陣中のため粗末なものしかありませんが」
さしだされた酒と干し魚に、通信は頬が緩んだ。隣では忠員が、もうしわけなさそうに小さくなっている。
「さ、まずは一献」
対面に座した盛綱は、酒をなみなみ注いだ碗を通信にさしだした。
「ありがたいです」
一気に飲みほす。空になった碗に、今度は通信が酒を注ぎ盛綱にさしだす。
「いい飲みっぷりですな」
「旨い酒ですね」
「この寺の酒です。こればっかりはここに陣取って良かったと思う」
言いながら盛綱は、肴に手を伸ばした。
「今木の合戦のことは、豊後の二人からも聞いてますよ」
「なにを」
「千を超える平家の兵に夜襲をかけられたと」
「はぁ」
「お二人は河野殿を舟で待っていたそうですが、火の手のあがり具合から、もう無事ではないだろうと」
「へぇ……」
盛綱は碗を空にすると、酒を注いで忠員にさしだした。通信は、躊躇する忠員の前から碗を奪い、ふたたび一気に飲みほしてみせた。
「やつら、敵の総大将についてなにか言ってました?」
「総大将? いやなにも」
「ほうほう」
「河野殿はご存知で」
「ま、心当たりくらいなら」
ふふんと鼻で息を吐きながら酒を注ぐ。ここで恩の一つや二つ売っておいて損はないだろう。通信は、もったいぶったそぶりで杯を盛綱によこした。
盛綱が通信の顔をのぞきこむ。四角い額のうちで、形の良い右眉がつりあがった。
「それならば、梶原殿が淡路から戻りしだい軍議が開かれる。そこでもうしたらよい」
「あ、えっと」
肩透かしをくらい通信はうろたえた。
「佐々木殿は、総大将が気になりませんか」
「気にならないといえば嘘になるが、藤戸の戦の総大将はわかっているのでな」
「だれです」
「平朝臣左馬頭行平」
「へぇ」
清盛の孫が総大将ねぇ――通信は腕を組んだ。
「ところで河野殿」
「四郎で良いですよ」
「では、四郎殿」
盛綱が碗に唇を近づける。
「おれはこの戦で手柄をあげたいのよ」
一気に酒をあおった。冷たい風に燭台の炎がゆれる。暗がりに盛綱の瞳がぎらりと光った。なみなみと酒が注がれる。突きだされた碗を、通信は無意識に受けとっていた。
「なにが知りたいんです」
「豊後の二人には、わからなかったことだ」
うながされるままに、通信は酒を口に含む。
「児島に渡るにはどうすればいい」
「舟で」
「舟はない。舟がないから聞いている」
「どうしたいのです」
「馬で渡れないだろうか」
そんな無茶な! 通信は目を剥いた。吉備の穴海は、たしかに浅瀬である。だが馬で渡ることができるような浅瀬が続いていれば、逆に航行は困難を極める。
「それは、あの二人にも」
「もちろん聞いたさ。だが彼らは豊後のものだろう。この海にはそこまで馴染みはないと言っていた」
「まあ、それは」
通信は、酒をちびりと舐めた。
「ほんの一時でいいのだ」
盛綱がすっと指で線をひく。
「ほんの一時。海原を馬で駆けることができれば。不意撃ちにもなるだろう」
妙なことを考える――と通信は思った。しかし、だからこそ奇襲になる。通信のように舟の扱いに長けていれば長けているほど、思いもよらない珍妙な策だ。
「おれたちは、基本的に舟が通れるかどうかということしか見てないんですよ。だから浅瀬は知っていても、それが馬でいけるかどうかなんて知ったこっちゃないんです」
通信の言葉に、盛綱が唇の端をつりあげる。
「たとえ心当たりがあったとしても、確証がないので言えません」
本当は知らない。だからといって盛綱との縁を、無碍にしたくはなかった。
「ですから、まあ、まだ戦まで少しばかり時があるので、ちょっと待ってもらえます?」
斜め後ろから忠員の視線をひしひしと感じながら、通信は杯をあおった。
「いや、四郎殿が動けば平家方が気づきましょう、それでは意味がない」
「動きません。いえ動きますけども海にはでません」
いまはすぐに動かせる舟がありませんし――通信は言いながら酒を注いだ。
「まあ、ここは一つ。のってみません?」
盛綱が魚の頭を囓った。しばらくして、通信の手から碗を取ると酒を一気に飲みほした。
「さ、まだまだ酒はありますから、飲んでください四郎殿」
「これはこれは」
それ以上は海の話にはならなかった。女や馬の話をしているうちに、いつのまにか通信は眠りについていた。
藤戸浦に着くと景高は馬を郎等にあずけ、さっさとどこかへ行ってしまった。
通信はあたりを見まわした。気性の荒そうな男たちが、手持ち無沙汰そうにたむろしている。景高は通信の格好をなじったが、彼らのほうがよっぽどひどい。
着こんだ直垂は野暮ったく垢抜けない。鬢がほつれて烏帽子の隙間からは縮れた髪がこぼれているし、脂ぎった額や頬には煤がつき黒々として汚らしい。談笑するのは結構だが、薄汚れた黒い肌のなかにのぞく黄色い歯というのは、見ていて気持ちがいいものではない。
また、そこから発せられる言葉が聞くにたえない。正直なにを言っているのか良くわからなかった。ただ、言葉尻を投げ捨てるような話しかたが酷く棘々しく聞こえる。
坂東のものどもには、ひとのこころがないのかもしれない。通信は内心おびえた。
「河野四郎殿でしょうか」
ふいに声をかけられて、通信はおもわず飛びあがった。それを見ていたものどもが、通信を指さして、どっと湧いた。
「おのれら、叩き斬ってやる!」
「ああ、お気になさらず。彼らはどうにもこうにも、理屈もわからぬ凡下ですから」
太刀の柄に手をかけた通信を、声をかけてきた男がなだめた。耳に心地よい、おっとりとした京風の言葉である。男は着ているものも立ち居振るまいも、通信を嘲笑したものたちに比べて洗練されていた。おそらく源氏方の京武者だろう。
「三河殿がお呼びです。わたしについてきていただけますか」
三河殿とは三河国の国司である源範頼のことだ。坂東で旗揚げをし、いまや大勢力となった源よりとも頼朝の弟である。頼朝にはもう一人、義経という弟がいた。範頼と義経、この二人が将として軍勢を率い、一ノ谷の合戦で平家の大軍に打ち勝ったのだ。
通信は小さくうなずくと、男について歩いた。
「三河殿、河野殿をお連れいたしました」
通信が陣幕をくぐると、男たちの視線が集中した。居並ぶ男たちは、だれもかれもが歴戦の武者と形容されるものばかりのように見える。
場の一番奥で、若い男が手をあげて通信を迎えた。
朽葉色の直垂は総柄で、集ったものたちのだれよりも良い身形をしている。色が白く尖った顎。切れ長の一重まぶたが涼やかだった。
「伊予国の住人、河野四郎通信。恐れ多くも、かねてより源氏の力になりたいと思い、この西海で奮闘してまいりました」
「いや、そうかしこまらずに。貴殿のことは臼杵殿や緒方殿からも聞いている」
「いま、臼杵殿と緒方殿と」
列席している男たちを見まわす。通信は、ばつの悪そうな表情を浮かべた二人の姿を見逃さなかった。目を細めて笑いかけると、兄弟は気まずそうに視線をそらす。しかし満面の笑みをたたえている範頼に、そのような機微がわかるはずもない。
「臼杵殿と緒方殿からは舟三艘と兵糧をいただき、大変助けられました」
「おまえら!」
通信はたまらずに叫んだ。
「それはおれの。おれが、奪った、舟と、兵糧!」
「そうは言うが河野殿。あの舟をここまで操り、荷を届けたのはおれたちだろう」
通信の勢いにのけぞった緒方とは対照的に、薄ら笑いを浮かべながら臼杵が言った。
「ちくしょう」
「よさないか、三河殿の御前で」
ひときわ貫禄のある老兵が、通信、臼杵、緒方をたしなめる。
「まあ、土肥殿。今木での籠城はさぞやこたえたのであろう。はは、ははは」
範頼が引きつりながら笑っていた。
土肥次郎實平――備前、備中、備後の三国を任された惣追捕使だ。
髪も髭も白い。しかし腕も足もたくましく、胸を前につきだすように背を伸ばしている姿は厳めしい。主張の強い眉。眼光は鋭く、額に深く刻まれた皺と相まって、絵に描いたようなこわもて強面であった。少し垂れた鼻頭が、ゆいいつ愛嬌のある部分かもしれない。深草色の直垂がよく似あっている。
「河野殿、あらためて。よくぞわが陣へ参られた」
ひとの好さそうな笑顔を浮かべて範頼が言った。緊張感の漂う場の空気をなんとかしたかったのかもしれない。
「ろくにもてなしもできない我が陣ではあるが、どうか今日はゆるりとしてほしい」
「いえ、わたしのようなものに三河殿が御心をくだく必要などありません」
「平家方との合戦は、十二月七日――どうか、あなたの知恵をお借りしたい、このとおり」
深々と頭を垂れる範頼に、通信は面食らった。大将なのだから、もっと偉そうにしていてくれたほうがこちらの気持ちが楽である。
いいひとは苦手だ。
臼杵や緒方とは顔を合わせるのも癪だったので、通信はふらふらと周囲を散策することにした。そこかしこに坂東のものたちがたむろしていたが、見知った顔があるわけでもない。景高の姿を探してみたものの、あの耳障りな声の気配すらなかった。
しかたなく忠員と二人、火でもおこそうかと腰をおろしたときだった。
「河野殿」
視線をあげると、一人の武者が通信の顔をのぞきこんでいた。通信よりも一回りほど歳上だろうか。口元にたくわえた髭が黒々として美しい。
「あの」
「佐々木三郎盛綱」
武者が名乗る。さきほど範頼のもとに集まっていた武者たちのなかに見た顔だ。
「もし、さしつかえなければ、わたしたちが城郭をかまえる高坪山へ来ませんか。貴殿のようなものを、こんなところで野宿させることはできません」
「豊後の二人は」
「彼らは土肥殿のもとに」
「なら、良かったです」
盛綱についてしばらく歩く。歩きながら盛綱は、自分の生い立ちについて語ってくれた。いわく、彼の父が平治の乱で源氏方につき敗走し、故郷を捨てて坂東に逃れたこと。そこで出会ったある武士に匿われ、ずっと世話になっていたこと。ついに源頼朝が旗揚げをし、いまこうしてやっと、本来の武者としての働きができているのだということ。
そういう生きかたもあるのだなと、通信は思った。そして、それを面白おかしく語る盛綱に好感を抱いた。誇らしいことも、不名誉なことも、ひっくるめて自分に対して語ってくれる盛綱は、気の良いひとなのだろう。
城郭につくと、すぐに寺のなかへと案内された。城郭といっても、高坪山の山寺を掻盾でかこっただけ簡素なものである。
「陣中のため粗末なものしかありませんが」
さしだされた酒と干し魚に、通信は頬が緩んだ。隣では忠員が、もうしわけなさそうに小さくなっている。
「さ、まずは一献」
対面に座した盛綱は、酒をなみなみ注いだ碗を通信にさしだした。
「ありがたいです」
一気に飲みほす。空になった碗に、今度は通信が酒を注ぎ盛綱にさしだす。
「いい飲みっぷりですな」
「旨い酒ですね」
「この寺の酒です。こればっかりはここに陣取って良かったと思う」
言いながら盛綱は、肴に手を伸ばした。
「今木の合戦のことは、豊後の二人からも聞いてますよ」
「なにを」
「千を超える平家の兵に夜襲をかけられたと」
「はぁ」
「お二人は河野殿を舟で待っていたそうですが、火の手のあがり具合から、もう無事ではないだろうと」
「へぇ……」
盛綱は碗を空にすると、酒を注いで忠員にさしだした。通信は、躊躇する忠員の前から碗を奪い、ふたたび一気に飲みほしてみせた。
「やつら、敵の総大将についてなにか言ってました?」
「総大将? いやなにも」
「ほうほう」
「河野殿はご存知で」
「ま、心当たりくらいなら」
ふふんと鼻で息を吐きながら酒を注ぐ。ここで恩の一つや二つ売っておいて損はないだろう。通信は、もったいぶったそぶりで杯を盛綱によこした。
盛綱が通信の顔をのぞきこむ。四角い額のうちで、形の良い右眉がつりあがった。
「それならば、梶原殿が淡路から戻りしだい軍議が開かれる。そこでもうしたらよい」
「あ、えっと」
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「佐々木殿は、総大将が気になりませんか」
「気にならないといえば嘘になるが、藤戸の戦の総大将はわかっているのでな」
「だれです」
「平朝臣左馬頭行平」
「へぇ」
清盛の孫が総大将ねぇ――通信は腕を組んだ。
「ところで河野殿」
「四郎で良いですよ」
「では、四郎殿」
盛綱が碗に唇を近づける。
「おれはこの戦で手柄をあげたいのよ」
一気に酒をあおった。冷たい風に燭台の炎がゆれる。暗がりに盛綱の瞳がぎらりと光った。なみなみと酒が注がれる。突きだされた碗を、通信は無意識に受けとっていた。
「なにが知りたいんです」
「豊後の二人には、わからなかったことだ」
うながされるままに、通信は酒を口に含む。
「児島に渡るにはどうすればいい」
「舟で」
「舟はない。舟がないから聞いている」
「どうしたいのです」
「馬で渡れないだろうか」
そんな無茶な! 通信は目を剥いた。吉備の穴海は、たしかに浅瀬である。だが馬で渡ることができるような浅瀬が続いていれば、逆に航行は困難を極める。
「それは、あの二人にも」
「もちろん聞いたさ。だが彼らは豊後のものだろう。この海にはそこまで馴染みはないと言っていた」
「まあ、それは」
通信は、酒をちびりと舐めた。
「ほんの一時でいいのだ」
盛綱がすっと指で線をひく。
「ほんの一時。海原を馬で駆けることができれば。不意撃ちにもなるだろう」
妙なことを考える――と通信は思った。しかし、だからこそ奇襲になる。通信のように舟の扱いに長けていれば長けているほど、思いもよらない珍妙な策だ。
「おれたちは、基本的に舟が通れるかどうかということしか見てないんですよ。だから浅瀬は知っていても、それが馬でいけるかどうかなんて知ったこっちゃないんです」
通信の言葉に、盛綱が唇の端をつりあげる。
「たとえ心当たりがあったとしても、確証がないので言えません」
本当は知らない。だからといって盛綱との縁を、無碍にしたくはなかった。
「ですから、まあ、まだ戦まで少しばかり時があるので、ちょっと待ってもらえます?」
斜め後ろから忠員の視線をひしひしと感じながら、通信は杯をあおった。
「いや、四郎殿が動けば平家方が気づきましょう、それでは意味がない」
「動きません。いえ動きますけども海にはでません」
いまはすぐに動かせる舟がありませんし――通信は言いながら酒を注いだ。
「まあ、ここは一つ。のってみません?」
盛綱が魚の頭を囓った。しばらくして、通信の手から碗を取ると酒を一気に飲みほした。
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