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鹿島
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その後、沼田の鄙びた港町まで駆け通した。さきほどのことがあったので、野営をするのも危険だという判断である。夜になってから分断されていた後続も到着し、合流することができた。
翌朝、日が昇るとすぐに、通信は地元の漁民に幾ばくかの報酬を渡し、彼らの小舟に乗りこんだ。景高、景平と通信は、数人の郎等とともに、先だって伊予に渡ることにしたのだ。沼田に残した馬と郎等たちは、あらためて通信の所有する中型の舟で伊予に移す。このほうが一度に伊予に渡るよりも、平家方にこちらの動きを悟られにくい。
海を眺めれば、大小の島々が幾重にも折り重なっているように見える。なかでも一番立派な島は大三島だ。大三島には大山祇神社があり、大蛇となって祖母のねや閨にあらわれたという三島明神がおわす。
さんざめく波の音のかなたに、この港町での敗戦が思い起こされた。沼田は、通信の母方の伯父に縁のある土地である。おととし通信は伯父とともに、この地で平家に反旗を翻し、盛大に負けていた。
伯父の死。郎等たちの死。炎のなかでまみえた将、能登守、平教経。思い起こすだけでも手が震えた。義経は、あの能登守と対峙すると言った。彼は民のためだと言っていたが、本心ではきっと、能登守と戦いたくてしかたがないのだろうと通信は思っていた。
だが義経が突破口となって、四国の平家を殲滅することができたのならば――そのためにも、伊予から阿波を揺さぶるのだ。
阿波民部太夫をおびき寄せて釘づけにする。それが通信の役割だ。なにも、怯えるほどのことはではない。通信は汗で湿った手を握りしめた。
ゆったりと舟の舳先が波を割る。沼田から大三島の横を抜けて、伊予国の風早郡まで行く、通信にとっては馴染み深い航路だ。島々の近くは潮の流れが速くなる。漁民たちの小舟は簡単に波に弄ばれた。
最初は余裕を見せていた景高が、舟の縁から顔を突き出して、しきりに嘔吐いている。景平はといえば、ほとんど屍体のように転がっていた。
いい気味だと通信は思った。ひとの馬の扱いかたを散々馬鹿にしてきたのだ。ここぞとばかり攻め立ててやろうかとも思ったが、二人の青白い顔を見ていると気の毒に思えた。
大島の浜で一夜を明かし、翌日の昼過ぎに風早郡に到着した。港で馬を用立て、すぐさま高縄城まで向かう。さすがの景高も、通信の手綱捌きにあれこれ口を挟んではこなかった。
高縄城へ到着すると、門前で郎等たちが通信らを迎えた。忠員と七郎の姿もあった。
「おかえりなさいませ、兄上」
並びたつ郎等たちをかきわけて、奥から青年が姿を現した。
河野五郎通経――通信の弟である。生まれたときから病弱で、あまり城の外に出ることのない通経は、色が抜けるように白い。背丈は通信と同じくらいだが、ほっそりとしており、なで肩で、ぱっと見ると通信よりも一回り華奢に見えた。
通経は薄い唇を引き結び、胡乱な目で景高と景平を見ている。
「弟? うはは、似てねぇ」
「平次に言われたくないんですけど」
ひょこっと首を前に出して、顔を見比べる景高を通信は小突いた。
「無礼な。坂東のものは礼儀も知らないのですか」
舌端を尖らせる通経に、景高は露骨に眉をひそめた。
「兄は河野家の現当主です。わきまえていただきたい」
「なんて?」
景高が目を剥く。そういえば自分が一族の長であるということを景高に伝えていなかったということを、通信は思い出した。そのときは良かれと考えてのことだったが、さすがに城に入る前には伝えておくべきだっただろうか。
通経の言うことは、もっともである。たかが坂東の一氏族の庶子ごときに、家長を軽んじられたとなれば、家人や郎等らは面子にかけて否定しようとする。景高は斬り捨てられてもしかたがない上に、下手をすれば家と家とのあいだで戦となりかねない。
さては頭の固い通経に、景高のことをいろいろと告げたものがいるのだろう。通信は忠員を見た。通信の平たい視線に気がついたのだろう。忠員は、しれっと顔を背けた。
「まあ、いいじゃない」
通信は力んでいる弟の肩に手を置いた。通信としては、景高たちとは気軽なつきあいを続けたかった。いままでこういった相手が身近にいなかったこともあり新鮮で、こそばゆくも嬉しかったのだ。それに景高に急にしおらしくされても気味が悪いだけだ。
「しかし、示しがつきません」
「通経、おれがいいと言ってる。わきまえるのは、お前」
食いさがろうとする通経を突き放すと、通経はうつむいて唇を噛んだ。
「さ、まずは飯だ」
ひさびさの我が家は、どこか他人行儀な空気であった。当然だろうと通信は思う。自分がふらふらと各地をめぐり戦っているあいだ、通経がずっとこの城を守ってきたのだ。城のものたちからすれば、身近な主人は通信ではなく通経だろう。
いまだに目を白黒させている景高の背を押して、通信は居室へと向かった。
翌朝、日が昇るとすぐに、通信は地元の漁民に幾ばくかの報酬を渡し、彼らの小舟に乗りこんだ。景高、景平と通信は、数人の郎等とともに、先だって伊予に渡ることにしたのだ。沼田に残した馬と郎等たちは、あらためて通信の所有する中型の舟で伊予に移す。このほうが一度に伊予に渡るよりも、平家方にこちらの動きを悟られにくい。
海を眺めれば、大小の島々が幾重にも折り重なっているように見える。なかでも一番立派な島は大三島だ。大三島には大山祇神社があり、大蛇となって祖母のねや閨にあらわれたという三島明神がおわす。
さんざめく波の音のかなたに、この港町での敗戦が思い起こされた。沼田は、通信の母方の伯父に縁のある土地である。おととし通信は伯父とともに、この地で平家に反旗を翻し、盛大に負けていた。
伯父の死。郎等たちの死。炎のなかでまみえた将、能登守、平教経。思い起こすだけでも手が震えた。義経は、あの能登守と対峙すると言った。彼は民のためだと言っていたが、本心ではきっと、能登守と戦いたくてしかたがないのだろうと通信は思っていた。
だが義経が突破口となって、四国の平家を殲滅することができたのならば――そのためにも、伊予から阿波を揺さぶるのだ。
阿波民部太夫をおびき寄せて釘づけにする。それが通信の役割だ。なにも、怯えるほどのことはではない。通信は汗で湿った手を握りしめた。
ゆったりと舟の舳先が波を割る。沼田から大三島の横を抜けて、伊予国の風早郡まで行く、通信にとっては馴染み深い航路だ。島々の近くは潮の流れが速くなる。漁民たちの小舟は簡単に波に弄ばれた。
最初は余裕を見せていた景高が、舟の縁から顔を突き出して、しきりに嘔吐いている。景平はといえば、ほとんど屍体のように転がっていた。
いい気味だと通信は思った。ひとの馬の扱いかたを散々馬鹿にしてきたのだ。ここぞとばかり攻め立ててやろうかとも思ったが、二人の青白い顔を見ていると気の毒に思えた。
大島の浜で一夜を明かし、翌日の昼過ぎに風早郡に到着した。港で馬を用立て、すぐさま高縄城まで向かう。さすがの景高も、通信の手綱捌きにあれこれ口を挟んではこなかった。
高縄城へ到着すると、門前で郎等たちが通信らを迎えた。忠員と七郎の姿もあった。
「おかえりなさいませ、兄上」
並びたつ郎等たちをかきわけて、奥から青年が姿を現した。
河野五郎通経――通信の弟である。生まれたときから病弱で、あまり城の外に出ることのない通経は、色が抜けるように白い。背丈は通信と同じくらいだが、ほっそりとしており、なで肩で、ぱっと見ると通信よりも一回り華奢に見えた。
通経は薄い唇を引き結び、胡乱な目で景高と景平を見ている。
「弟? うはは、似てねぇ」
「平次に言われたくないんですけど」
ひょこっと首を前に出して、顔を見比べる景高を通信は小突いた。
「無礼な。坂東のものは礼儀も知らないのですか」
舌端を尖らせる通経に、景高は露骨に眉をひそめた。
「兄は河野家の現当主です。わきまえていただきたい」
「なんて?」
景高が目を剥く。そういえば自分が一族の長であるということを景高に伝えていなかったということを、通信は思い出した。そのときは良かれと考えてのことだったが、さすがに城に入る前には伝えておくべきだっただろうか。
通経の言うことは、もっともである。たかが坂東の一氏族の庶子ごときに、家長を軽んじられたとなれば、家人や郎等らは面子にかけて否定しようとする。景高は斬り捨てられてもしかたがない上に、下手をすれば家と家とのあいだで戦となりかねない。
さては頭の固い通経に、景高のことをいろいろと告げたものがいるのだろう。通信は忠員を見た。通信の平たい視線に気がついたのだろう。忠員は、しれっと顔を背けた。
「まあ、いいじゃない」
通信は力んでいる弟の肩に手を置いた。通信としては、景高たちとは気軽なつきあいを続けたかった。いままでこういった相手が身近にいなかったこともあり新鮮で、こそばゆくも嬉しかったのだ。それに景高に急にしおらしくされても気味が悪いだけだ。
「しかし、示しがつきません」
「通経、おれがいいと言ってる。わきまえるのは、お前」
食いさがろうとする通経を突き放すと、通経はうつむいて唇を噛んだ。
「さ、まずは飯だ」
ひさびさの我が家は、どこか他人行儀な空気であった。当然だろうと通信は思う。自分がふらふらと各地をめぐり戦っているあいだ、通経がずっとこの城を守ってきたのだ。城のものたちからすれば、身近な主人は通信ではなく通経だろう。
いまだに目を白黒させている景高の背を押して、通信は居室へと向かった。
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